第七話 聖女『ミュリエル』
窓から差し込む月明かりが、頁をめくるミュリエルの手元を照らしている。
ランベルトが王都へ行ってから一週間が経ち、わずかに縁を欠いたそれは、あと数日で完全に満ちる気配を帯びていた。
ランベルトから渡された本に書かれていたのは、ミュリエルのことだった。といっても、忌み子であるミュリエルのことではない。以前ランベルトが教えてくれた、聖女ミュリエルのことだった。
聖女ミュリエルことミュリエル・カルキノスは、およそ六百年前に存在したとされる伝説の聖女だった。
貴族として生まれ、何不自由ない穏やかな暮らしをしていた彼女は、ある日突然聖女の力に目覚めた。それも尋常ではない膨大な力が幼い身体に宿ってしまった。使い方もわからない強大な力は、魔力過負荷によりオーバーフローしてしまい、溢れ出た魔力により常に癒しの力が発動される事態に陥るのだ。一見メリットしかないように思えるが、発動者が力を持て余し、その力を制御できずにいると、本人もそして聖女の魔力を浴びた人々も寿命の前借りをしていることになるのだという。それも些細な切り傷や擦り傷ですら、寿命を削って癒してしまう。
魔力がオーバーフローする前に、親元を離れ王都にある教会に引き取られた彼女は、そこで力の使い方を学んだ。
そして齢十四にしてミュリエル・カルキノスは聖女となり、国のために尽力したと言われている。
底なしの魔力を持った彼女の功績は、多岐にわたる。
代表的なものでいえば、聖域だ。始めは王都全体に結界を張っていたのだが、聖女が王都から出た途端に消えてしまうというデメリットがあった。そこで聖女は王都の地脈に膨大な力を流し込み、聖女の命がある限り王都を魔の者から守る聖域に変えてしまった。これにより、聖女自ら魔物によって毒された土地へ赴き、瘴気を浄化、傷を負った者の治癒にあたることが可能になったという。
それだけでも常軌を逸しているが、聖女は魔の者による呪いや穢れも単独で解除できたそうだ。それには聖女という性質も少なからず影響しているらしい。
現代においても、聖女というのは癒しであり、人間への攻撃はできない。それは聖女自身にも有効で、自分で自分を害すことはできない。
だが、その聖なる力は魔の者に対しては別の作用をする。魔の者の力を浄化し、消滅させることができるのだ。
ミュリエル・カルキノスの活躍により、その当時の魔王軍の勢いは弱まり、彼女は『神に愛された光の子』と呼ばれるようになった。
そうしてヴィニラゴン王国は束の間の安寧の時を過ごしていたのだが、ある日を境に聖女ミュリエルの消息が掴めなくなってしまった。
義理堅く、どんな任務でも請け負った彼女が、突如として姿を消した。
王都は混乱に陥り、人々は心配の色を見せていた。事件や事故に巻き込まれたのではないか、はたまた拐かされたのではないか、と聖女の身を案じていた。
だが、何年経っても聖女ミュリエルは戻らなかった。
事の真相は当人にしかわからないが、その間もずっと王都の聖域が維持されていたことから、神の願いで天に還ったのではないかと言われるようになった。聖女ミュリエルは、『神に愛された光の子』と呼ばれていたのだ。
本の最後の頁には、”時代とともに彼女自身も神格化されていった――”という一文で締めくくられていた。
どうにも腑に落ちない違和感が胸に広がるが、ミュリエルにはその正体がわからずにいた。
「六百年前のこと……か」
ランベルトから渡された本を閉じたミュリエルは、そっとその表紙を指でなぞった。
*
「……なるほど。それで私のところに来たと」
翌朝、ミュリエルはセドリックの元を訪れていた。
冬の夜明けは遅い。まだ窓の外は暗く、日が昇る気配はない。
だが、セドリックがこの時間、調理場にいることはわかっていた。双子が起きてくる前に、手ずから香草茶を淹れて嗜むのだ。今はちょうど蒸らしの時間のようで、ティーポットからスパイシーな香りが漂っている。
「セドさんなら聖女ミュリエルについて詳しいかなと思って……」
ミュリエルは茶器を取ろうとしているセドリックに頷いた。ティーポットの隣には、乾燥させたリンゴとハチミツが用意されている。甘くてスパイシーな香草茶はミュリエルも大好きだ。
「そうですねぇ……。まあ、立ち話もなんですし、貴女もどうです?」
セドリックはくすりと笑って、茶器をもう一客用意してくれた。見透かされた気恥ずかしさを感じつつ、ミュリエルはセドリックの言葉に甘えた。
調理場の隣には使用人たちが小休憩を取ったりできる小さな部屋がある。
そこに向かい合わせに座ると、ミュリエルはセドリックが淹れてくれた香草茶を口に含んだ。シナモンのピリッとした刺激が、リンゴとハチミツの自然な甘みでまろやかになり、コクの深い味わいが口いっぱいに広がる。喉を通った瞬間、スパイシーな香りと甘いフルーツの香りが混ざり合った柔らかい香りが鼻を抜けた。
「美味しい……」
「お口に合ったようで何よりです。それで、聖女ミュリエルの話でしたね」
目を細めたセドリックに、ミュリエルは頷く。
「と言っても私も詳しいというほどでは。面識もありませんし」
そう言うと、セドリックはティーカップに口を付けた。
「そうですか……」
ミュリエルは肩を落とす。これではただ早起きして、セドリックの淹れてくれる香草茶を楽しみに来ただけである。いや、香草茶は大変美味なのだが。
琥珀色の液体に、落胆の色を隠せないミュリエルの姿が映っていた。
「……ただ、噂は訊いていましたよ」
「噂?」
ぱっと顔を上げると、セドリックが柔らかな微笑みを浮かべて頷いた。
「ええ。とんでもない魔力量のある聖女が誕生したことに、我々もざわめいたものです。彼女の活躍はエルフの森にも届きましてね」
セドリックの表情が一瞬陰ったのはきっと、エルフの森が今はないからだろう。魔王の手により、全焼してしまったと教えてくれた。
古い記憶を辿るように、セドリックは遠くを見る。
「功績は概ね本に書かれている通りです。お会いしたことはないのでなんとも言えませんが、恐らくあの方はランベルト様以上の魔力量をお持ちだったのではないかと思います」
彼女の活躍もさることながら、ランベルト以上の魔力量を持っていたのなら、『神に愛された光の子』と呼ばれるのもわかる気がした。
ミュリエルは彼女と同じ名前だと言うのに、その意味はまったく違う。その上、能力だってそうだ。彼女の足元にも及ばない。
「当時は私も今より幼かったので、外の世界のことに興味津々でしてね。彼女の話を大人たちにせがんだものです。ただ――」
「ただ?」
「この本に限らずですが、おかしいんですよ」
「おかしい?」
聞き返すミュリエルに、セドリックは首を縦に振った。
「ある日突然消息が掴めなくなったという部分です。確かに彼女はあちこちを転々としていましたが、一人で行動することはなかったと訊いています。聖女は攻撃魔法は使えません。魔族や魔物は倒せても、人間の悪党は倒せないんですよ」
現代においても、山賊や盗賊などの悪党は存在する。
彼女は偉大な聖女だった。その生命を狙われる危険性が十分にあったと言える。
「だから聖女には同行者がいた。聖女を害そうとする人間から守るための護衛とも呼べるでしょう。それなのに聖女がどうなったかがわからないということは、裏を返せばその聖女一行が一斉に消息を絶ったとも言える」
「あ……っ!」
ミュリエルは思わずはっとした。セドリックの言葉で、抱いた違和感の正体がようやく掴めた。
「聖女が何らかの事件に巻き込まれたのか、お役目を放棄したくて逃げ出したのか、それとも天に還ったのか今となってはわかりませんけど、屈強な護衛もろとも消息を絶ったというのはなんだかきな臭い感じがしますよねぇ……。ああ、ここは私の憶測に過ぎませんけどね」
確かにおかしい。どのくらい護衛がいたのかはわからないが、その全員が行方をくらませることはまずあり得ない。それも一斉にとなればなおさらおかしいだろう。
天に還ったのならば、護衛は神の子ではないのだから残るはずだ。だから、きっと真実ではない。
となると――。
「そんなに焦らずとも、考えをまとめる時間はまだ十分ありますよ。ほら、そろそろ一日が始まりますよ」
気づけばセドリックの後ろから、淡い朱色の光が差し込んでいた。いつの間にか夜が明けようとしていたらしい。
一度聖女のことは頭の隅に避け、手元のカップに口を付けた。話に夢中になっていたせいか、中身はぬるくなっていた。それを一気に飲み干したミュリエルは、セドリックに礼を言うと、新たな一日を始めるのだった。




