後日談 堕ちた翼、泥に塗れて
王都の最下層、スラム街の一角にある崩れかけた木造アパート。
日が昇っても薄暗いその部屋は、カビと排泄物、そして腐った残飯の臭いが充満していた。
壁の隙間からは冷たい隙間風が吹き込み、薄汚れた毛布にくるまった男の体を容赦なく冷やしていた。
「……ぐ、ぅぅ……」
男――かつての勇者グランは、呻き声を上げて目を覚ました。
目覚めと共に襲ってくるのは、希望ではなく激痛だ。
右腕。既に感覚はなく、赤黒く腫れ上がり、腐敗が進んでいるその腕が、まるで熱した鉄棒を埋め込まれたかのように熱く脈打っている。
医師には切断を勧められた。だが、グランは拒否した。
腕を失えば、剣を握れない。剣を握れなければ、勇者に戻れない。そんな強迫観念が、彼に腐りゆく肉塊を温存させていた。
だがその代償として、毒素はゆっくりと、しかし確実に彼の全身を蝕んでいた。
「水……水をくれ……」
グランはひび割れた唇を動かした。喉が焼けるように渇いている。
しかし、返事はない。
狭い部屋の隅には、二つの人影があった。
一つは、ボロ雑巾のような布を被って丸まっている小柄な影。かつての聖女エリナだ。
もう一つは、虚空を見つめてブツブツと何かを呟きながら、自身の指の皮を爪で剥いでいる男。かつての天才魔導士ヴォルフだ。
「おい、エリナ……聞こえねぇのかよ……」
グランは苛立ちを込めて怒鳴ろうとしたが、出たのは掠れた空気の音だけだった。
体に力が入らない。
かつてSランクモンスターを剛剣でなぎ倒した筋力は、見る影もなく痩せ衰え、骨と皮だけになっている。
原因は明白だ。
魔力中毒。
レインという『フィルター』を失った彼らは、呼吸をするだけで空気中の微細な毒性魔素を取り込み続け、それが内臓を破壊し続けているのだ。
普通の人間なら微量で済む毒も、一度大量摂取して「回路」が壊れた彼らにとっては、致死性の猛毒と同じだった。
「……うるさいですわね……」
毛布の塊が動いた。
エリナが顔を出す。その顔を見て、グランは息を呑んだ。
かつて「王都の宝石」と謳われた美貌は、もはや見る影もない。
肌は土気色に変色し、所々に赤い発疹が浮いている。頬はこけ、目は落ち窪み、髪は油と埃で固まってゴワゴワになっていた。
彼女はよろめきながら立ち上がると、部屋の隅にある水瓶を覗き込んだ。
「水なんてありませんわ。昨日の夜、ヴォルフが全部飲んでしまいましたもの」
「な、んだと……ふざけんな、あの野郎……!」
「文句があるなら自分で汲みに行けばよろしいでしょう。私はもう疲れましたの。昨日は一日中、大通りの裏で空き瓶を拾って……たったの銅貨三枚にしかなりませんでしたわ」
エリナは乾いた笑い声を漏らした。
聖女が、ゴミ拾い。
以前の彼女なら、想像しただけで卒倒していただろう。だが、今の彼らにとってそれは貴重な収入源だった。
魔法が使えない聖女など、ただの女だ。いや、病気持ちで力仕事もできない女など、売春宿ですら雇ってくれない。
彼らは生きていくために、プライドを切り売りし、泥水を啜るような生活を余儀なくされていた。
「……僕の、杖……」
突然、ヴォルフが呟いた。
彼は血の滲む指先を口に含みながら、ギョロリとした目でグランを見た。
「ねえグラン、僕の杖、どこにやったの? あの新しい杖。あれがあれば、僕はまた魔法が使えるんだ。凄いやつを一発、ドカンとね」
「……あんなもん、とっくに質に入れただろ」
「嘘だ! 返せよ! あれがないと僕はSランクじゃないんだ! 僕を誰だと思ってるんだ、天才魔導士ヴォルフだぞ!」
ヴォルフが発作的に暴れ出した。
だが、その動きは緩慢で、まるで老人のようだ。脳の血管がやられている彼は、感情の制御ができず、記憶も曖昧になりつつあった。
グランは這うように近づき、残った左手でヴォルフの顔を張り飛ばした。
「黙れ! うるせぇんだよ!」
乾いた音が響き、ヴォルフはそのまま倒れ込んで泣き出した。
子供のような泣き声。
かつて冷徹な知性でパーティを支えた参謀の姿は、そこにはなかった。
「……どうして、こんなことになっちまったんだ」
グランは壁にもたれかかり、天井のシミを見上げた。
一ヶ月前までは、全てを持っていた。
金、名声、力、そして未来。
王都を歩けば誰もが道を譲り、酒場に入れば一番良い席に案内され、若い冒険者からはサインをねだられた。
それが今では、スラムの住人にすら「元勇者の落ちこぼれ」と指をさされ、石を投げられる始末だ。
「全部……あいつのせいだ」
グランの胸に、どす黒い感情が渦巻く。
レイン。
あの顔色の悪い、無口な荷物持ち。
あいつがいなくなってから、全てが狂った。
いや、あいつが俺たちを陥れたんだ。俺たちが毒に侵されると知っていて、わざと黙って出ていったに違いない。
そう思い込まなければ、狂ってしまいそうだった。自分たちの愚かさを認めてしまえば、心が壊れてしまうから。
「そうだ……レインだ。あいつが悪いんだ」
エリナもまた、虚ろな目で同意した。
「あいつがちゃんと説明していれば、私たちだって準備ができましたのに。それなのに、自分だけさっさと逃げ出して……卑怯者ですわ。恩知らずの裏切り者」
「ああ、そうだ。俺たちは被害者なんだ」
腐りきった自己正当化。
三人は互いの傷を舐め合うように、レインへの憎悪を口にすることで、辛うじて自我を保っていた。
◇
その日の午後。
グランは痛む体を引きずり、スラム街の入り口にある安酒場『豚の尻尾』へ向かった。
酒が飲みたかったわけではない。いや、飲みたくはあったが、金がない。
目的は「情報」だった。
レインがどこにいるのか。もし近くにいるなら、脅してでも治療させなければならない。そんな妄執に取り憑かれていた。
酒場の中は、昼間から博打と喧嘩に興じる荒くれ者たちで溢れかえっていた。
腐った酒と汗の臭い。
かつては最高級のワインしか口にしなかったグランが、今は客の飲み残しを漁るハイエナのような目つきで店内を見回している。
「お、おい見ろよ。あれ、『銀の翼』のグラン様じゃねぇか?」
客の一人が気づき、ニヤニヤと笑い声を上げた。
瞬く間に、嘲笑の波が広がる。
「うわ、マジだ。きっなねぇ格好」
「腕、腐ってんじゃねぇのか? 臭うぞ」
「よぉ勇者様! 今日はドラゴン退治じゃなくて、残飯あさりですかぁ?」
下品な笑い声。空になった木製ジョッキが投げつけられ、グランの肩に当たった。
痛みが走るが、怒鳴り返す気力もない。
かつて彼が見下し、鼻で笑っていたEランクやDランクの冒険者たちが、今は彼を見下している。
屈辱で顔が熱くなる。
だが、グランは震える声で店主に問いかけた。
「……おやじ、水……水をくれ」
「金はあるのか? ないなら帰んな。ここは慈善事業じゃねぇんだ」
店主は冷たくカウンターを拭きながら言い放った。
グランは唇を噛み締めた。
その時、奥のテーブル席で大きな話し声が聞こえた。
「いやぁ、すごかったな今のニュース!」
「ああ! 新しい街を救った英雄の話だろ?」
英雄。
その単語に、グランの耳がピクリと反応した。
今の自分とは最も縁遠い、しかし最も執着している言葉。
「なんでも、たった二人で古代竜を倒したって話だぜ」
「二人で? バカ言え、軍隊でも無理だろ」
「それが本当らしいんだよ。目撃者が言うには、男の方が手をかざしただけで、竜のブレスを一瞬で消し去っちまったんだと」
「へぇ……どこのどいつだ、その化け物は」
男たちは興奮気味に語り合っている。
グランはふらふらと彼らに近づいた。
「そ、その英雄……名前は……?」
「あ? なんだお前。……ああ、落ちぶれ勇者か」
男は鬱陶しそうに顔をしかめたが、優越感に浸りたいのか、ニヤリと笑って答えた。
「名前は確か……レイン、だったかな。連れてる女は絶世の美女で、竜の姫君らしいぜ」
ドクン。
グランの心臓が早鐘を打った。
レイン。
聞き間違いようのない、その名前。
そして竜の姫君。あの時、自分たちを吹き飛ばしたあの女だ。
「……嘘だ」
「嘘じゃねぇよ。王都のギルドにも正式な報告が来てる。今じゃ国賓扱いだ。近々、国王陛下から勲章を授与されるって噂もある」
国賓。勲章。
それは、グランが夢見て、喉から手が出るほど欲しかった栄誉だ。
それを、あのお荷物が? あの魔力タンク係が?
「なんで……なんでだよぉぉぉっ!!」
グランは叫んだ。
テーブルを叩こうとしたが、力が入らず、逆に自分がよろめいて床に倒れ込んだ。
周囲からドッと笑い声が上がる。
「見ろよ、嫉妬で狂ったか?」
「ざまぁねぇな。逃した魚は大きかったってか」
「俺も聞いたぜ。こいつら、そのレインってのを追放したんだろ? 『お前はいらない』っつって」
「うわ、馬鹿だなぁ。金の卵を産む鶏を殺したようなもんじゃん」
「そりゃ落ちぶれるわけだわ。自業自得ってやつだな」
嘲笑の嵐。
容赦のない言葉のナイフが、グランの心を滅多刺しにする。
自業自得。馬鹿。無能。
違う、俺は悪くない。俺は勇者だ。俺は……。
グランは床を這いずりながら、うわ言のように繰り返した。
「俺は……俺はSランクだ……俺は強いんだ……」
「おい、誰かこいつをつまみ出せ! 酒が不味くなる!」
店主の怒声と共に、屈強な用心棒に襟首を掴まれた。
そのままゴミ袋のように店の外へ放り投げられる。
ビタンッ! と泥の中に叩きつけられ、口の中に泥水が入った。
「げほっ、ごほっ……!」
咳き込むたびに、内臓が軋む。
肺から血の味がした。
通りを行く人々が、汚いものを見る目で彼を避けていく。
空を見上げると、皮肉なほど澄み渡った青空が広がっていた。
あの空の下、レインは英雄として称賛を浴び、美しい女と笑い合っているのだろうか。
それに比べて、自分は。
「あ……あぁ……」
グランは涙を流した。
後悔? いや、そんな綺麗なものじゃない。
ただひたすらに、自分が惨めで、悔しくて、妬ましくて、どうしようもなかった。
もしあの時、レインを追放していなければ。
もしあの時、彼の警告を聞いていれば。
今頃、その栄光の隣にいたのは自分だったはずなのに。
「レイン……戻ってきてくれよ……」
もはや届かない願いを呟き、グランは泥の中で丸まった。
冷たい雨が降り始めた。
◇
アパートに戻ったグランは、全身ずぶ濡れで震えていた。
部屋の中は静まり返っている。
エリナは部屋の隅で膝を抱え、虚空を見つめていた。
ヴォルフは床に寝転がり、動かない。
「……おい、エリナ。レインが……レインが、英雄になったってよ」
グランは乾いた笑みを浮かべて報告した。
エリナはゆっくりと顔を上げた。その目には何の光もない。
「……そうですか。よかったですね」
「よくねぇよ! なんであいつばっかり! 俺たちのものを奪っていきやがって!」
「奪われたのではありませんわ、グラン。私たちが……捨てたんです」
エリナの言葉は、冷たく、そして鋭かった。
彼女はようやく、認めたのかもしれない。自分たちの愚かさを。
そして、もう二度と取り返しがつかないという事実を。
「私、今日……神殿に行きましたの」
「神殿? 治療してもらいに行ったのか?」
「いいえ。神官様に頼み込んで、掃除婦として雇ってもらえないかって……」
エリナは自嘲気味に笑った。
かつて聖女として崇められ、神殿の最上階で祈りを捧げていた彼女が、トイレ掃除の仕事を乞うたのだ。
「それで?」
「断られましたわ。『穢れた魔力を持つ者は神殿に入れない』って。塩を撒かれて追い返されました」
エリナはボロボロの服の袖を捲り上げた。
そこには、赤黒い斑点だけでなく、皮膚が壊死して黒ずんだ箇所が広がっている。
魔力中毒の末期症状だ。
体内の魔素フィルターが機能しないため、彼女の体は生きながらにして腐り始めているのだ。
「もう……終わりですわね」
エリナはポツリと呟いた。
その言葉に、グランは反論できなかった。
終わりだ。何もかも。
金も、名誉も、健康も、未来も。
残されたのは、腐りゆく肉体と、レインへの嫉妬心だけ。
「う……ううっ……」
床に転がっていたヴォルフが、突然大きく痙攣した。
口から白い泡を吹き、白目を剥いている。
「おい、ヴォルフ!?」
グランが慌てて駆け寄る。
だが、ヴォルフの体は弓なりに反り返り、ビクンビクンと跳ねた後、ガクッと力を失った。
動かない。
息をしていない。
「……死んだ、のか?」
あっけない最期だった。
かつてその魔法で戦場を支配した天才が、こんな汚い部屋の床で、誰にも看取られずに犬死にした。
グランは呆然と、冷たくなっていく仲間の体に触れた。
悲しみよりも先に湧いてきたのは、恐怖だった。
次は自分だ。
右腕の腐敗は肩まで広がっている。咳をするたびに血が出る。
ヴォルフと同じように、ある日突然、発作を起こして死ぬのだ。
「いやだ……死にたくない……」
グランは後ずさりした。
恐怖で歯がカチカチと鳴る。
エリナはヴォルフの死体を見ても、表情一つ変えなかった。彼女の心は既に死んでいるのかもしれない。
「ねえ、グラン」
エリナが静かに言った。
「もし、時間が戻せるなら……貴方はどうしますの?」
時間が戻せるなら。
グランは目を閉じた。
脳裏に浮かぶのは、あの酒場での光景。
『今日でクビな』と、自分がレインに告げたあの瞬間。
もし、あの時、言葉を変えていたら。
『これからも頼む』と言っていたら。
『いつもありがとう』と感謝を伝えていたら。
「……やり直したい。レインに……謝りたい」
それは本心だった。
今さら遅すぎる、あまりにも身勝手な本心。
だが、現実は残酷だ。時間は戻らない。
「そうですね……。でも、もう無理ですわ」
エリナは横たわり、薄汚れた毛布を頭まで被った。
まるで、現実から逃げるように。
「おやすみなさい、勇者様。……いい夢を」
グランは一人残された。
ヴォルフの死体と、眠る(あるいは死を待つ)エリナ。
そして、腐臭と絶望だけが満ちる部屋。
外では雨音が強くなっている。
グランは震える手で、懐に残っていた最後の硬貨――変色した銅貨一枚を握りしめた。
これで酒を買えば、一瞬だけ痛みと恐怖を忘れられるかもしれない。
だが、立ち上がる気力もなかった。
「レイン……」
グランは膝を抱え、小さくその名を呼んだ。
かつて見下していた少年の名前。
今は、神のように遠い存在の名前。
その名前を呼ぶことだけが、彼に残された最後の縋れるものだった。
やがて夜が更け、部屋の温度が下がっていく。
グランの意識は、毒と寒さで徐々に薄れていった。
薄れゆく意識の中で、彼は幻を見た。
レインが、あの優しげな笑顔で手を差し伸べてくれている幻を。
「ああ……レイン……」
グランは虚空に手を伸ばした。
腐り落ちそうな右手を。
しかし、その手は誰にも握られることなく、力なく床に落ちた。
部屋の隅で、一匹のネズミが走り抜ける。
かつての栄光は泥にまみれ、誰にも顧みられることなく、静かに終わりを迎えた。
王都の片隅で消えた三つの命。
彼らの物語は、歴史の表舞台には決して残らない。
ただ、「慢心した冒険者の末路」というありふれた教訓話として、酒場の噂話に少しの間だけ残るだけだろう。
窓の外では、彼らの涙のような冷たい雨が、いつまでも降り続いていた。




