第二話 解き放たれた毒使い
王都を追放された翌日。
俺、レインは人里離れた荒野を一人で歩いていた。
地図にもまともに記されていないこの地域は、通称『腐海』の入り口と呼ばれている。
かつての大戦で最も激しい魔法爆撃が行われた場所であり、今なお高濃度の毒性魔素が滞留する死の土地だ。
普通の人間なら、防護マスクなしでは数分で肺が焼けただれ、一時間もすれば絶命するだろう危険地帯。Sランク冒険者ですら、最高級のポーションを常飲しながらでなければ足を踏み入れない場所だ。
「……空気がうまい」
俺は大きく深呼吸をして、そう呟いた。
皮肉な話だ。常人にとっては猛毒のガスでも、毒を栄養源として『濾過』する俺の体にとっては、ここはまるで高級レストランのようなものだった。
肺いっぱいに吸い込んだ濃密な魔素が、俺の心臓横にある『濾過核』を心地よく刺激する。
ドクン、ドクンと力強い拍動と共に、不純物はエネルギーとして蓄積され、浄化された純粋魔力が全身の血管を駆け巡る。
「体が軽い。疲れなんて微塵も感じない」
以前の俺なら、歩くことさえ苦痛だった。
常に仲間のために魔力を吸い上げられ、空っぽのタンクに無理やり燃料を詰め込まれるような日々。激痛に耐え、脂汗を流し、それでも「役立たず」と罵られる毎日。
だが、今は違う。
俺が吸った魔力は、すべて俺のものだ。
濾過された純粋魔力は身体機能を極限まで高め、筋肉の繊維一本一本にまで活力を漲らせている。視界は鮮明で、遠くの岩陰に潜むトカゲの瞬きさえも見て取れる。聴覚は研ぎ澄まされ、風に乗る微かな音も聞き逃さない。
「自由って、こんなに素晴らしいものだったんだな」
俺は足元の小石を軽く蹴った。
パァン! と破裂音がして、小石は弾丸のような速度で飛び、数十メートル先の大岩を粉々に砕いた。
……軽く蹴っただけなのに。
自分の規格外の力に苦笑しながら、俺はさらに奥へと進んでいく。
行くあてなんてない。だが、この満ち足りた体があるなら、どこでだって生きていける確信があった。
ガサリ。
不意に、前方の茂みが揺れた。
風の音ではない。明確な殺気を含んだ重たい気配。
俺は立ち止まり、静かにその方向を見据えた。
「グルルルゥ……」
低い唸り声と共に姿を現したのは、巨大な猪の化け物――『アイアン・ボア』だった。
全身が鋼鉄のような剛毛で覆われ、鼻先からは蒸気機関車のような噴気を上げている。その体躯は馬車よりも大きく、突進されれば城壁すら破壊すると言われるBランクモンスターだ。
かつての『銀の翼』時代なら、グランが前衛で受け止め、ヴォルフが魔法で焼き、俺は後ろで震えながら魔力補給に専念していただろう相手。
「……ふぅ」
不思議と恐怖はなかった。
以前なら腰を抜かしていたかもしれないその巨体が、今の俺にはスローモーションのように鈍重に見える。
それに、俺の中には確かな「武器」がある。
昨日、路地裏で覚醒した新たな力。
俺はずっと「魔力濾過」しかできない非戦闘員だと思い込まされてきた。だが、濾過の過程で分離された「毒」は消えてなくなるわけじゃない。俺の体内に蓄積され、圧縮され、今か今かと解放の時を待っているのだ。
「ブモオオオオオッ!!」
アイアン・ボアが地面を蹴った。
轟音と共に突進してくる。鋼鉄の戦車が迫ってくるような威圧感。
俺は一歩も動かず、右手を前に突き出した。
イメージするのは、体内の毒タンクのバルブを開く感覚。
溜め込んだドロドロの汚泥を、解き放つイメージ。
「――『紫毒の霧』」
俺の手のひらから、鮮やかな紫色の霧が噴射された。
それは煙のように広がり、突進してくるボアの顔面を包み込む。
その瞬間だった。
「ギャ……ギ、ギギギギィィィッ!!?」
ボアの咆哮が、この世のものとは思えない悲鳴に変わった。
紫の霧に触れた鋼鉄の剛毛が、瞬く間にジュウジュウと音を立てて溶解していく。
皮膚が爛れ、肉が溶け落ち、白い骨が露出し、それさえも液状化して崩れ落ちる。
ボアは突進の勢いのまま前のめりに倒れ込み、俺の足元まで滑ってきて……止まった。
そこにあったのは、もはや原型を留めていない赤黒い液体の水溜まりと、溶け残ったわずかな牙だけだった。
「……えぐいな」
俺は自分の手を見つめた。
想像以上の威力だ。
Bランクモンスターを一撃で、しかも触れることなく消滅させてしまった。
この毒霧は、有機物だろうが無機物だろうが、触れたものを分子レベルで崩壊させる「腐食」の性質を持っているらしい。
俺の体内で濃縮された毒は、自然界のそれとは桁が違う猛毒になっているのだ。
「これなら、もう誰に守ってもらう必要もない」
胸の奥で、燻っていた最後の劣等感が消えていくのを感じた。
俺は強くなれる。いや、もう強いのかもしれない。
グランたちは俺を「お荷物」と呼んだが、彼らが必死に倒していた魔物を、俺は指先一つで処理できる。
あいつら、今頃どうしているだろうか。
俺がいなくなって、せいぜい新しい魔道具とやらで上手くやっているといいが。
……まあ、無理だろうな。あの魔道具がただの「電池」なら、いずれ彼らは自身の体で毒を受け止めることになる。その時の痛みを知った時、少しは俺の気持ちがわかるだろうか。
「さて、素材も回収できないほど溶かしちゃったのは失敗だったな。次は手加減しないと」
俺は苦笑して、再び歩き出そうとした。
その時だった。
ズシン、と地面が大きく揺れた。
先ほどのボアの突進とは比べ物にならない、地鳴りのような振動。
空気がビリビリと震え、周囲の木々が恐怖に怯えるようにざわめく。
「なんだ……?」
俺が見上げた空。
そこに、影があった。
雲を切り裂き、太陽を覆い隠すほどの巨大な翼。
陽光を反射して煌めく、ルビーのように紅い鱗。
長くしなやかな首と、王冠のように尖った角。
それは、伝説の中にしか存在しないはずの最強の種族。
「……ドラゴン?」
いや、ただのドラゴンじゃない。
その体から放たれる魔力の圧は、先ほどのボアの何百倍、何千倍も強大だ。Sランク、いや、SSランク指定の『古竜』クラスかもしれない。
それが今、一直線に俺めがけて降下してくる。
「っ……!!」
俺は反射的に身構えた。
逃げ場はない。あの速度なら一瞬で追いつかれる。やるしかない。
俺は体内の純粋魔力を全開にし、身体強化魔法『剛体』を発動。同時に、毒タンクのバルブを全開にする準備を整える。
ドラゴンは凄まじい風圧と共に俺の目の前に着地した。
ドォォォンッ!!
衝撃波で周囲の大木が薙ぎ倒され、土煙が舞い上がる。
その中心で、紅き竜は金色の瞳孔を細め、じっと俺を見下ろしている。
殺されるか。
そう覚悟した、次の瞬間。
『――見つけた』
頭の中に直接響くような、鈴を転がしたような美しい声。
竜の体が眩い光に包まれた。
光が収縮し、巨大な竜のシルエットが、人の形へと変わっていく。
光が晴れた後に立っていたのは、一人の少女だった。
燃えるような紅蓮の長髪。宝石のような金色の瞳。
頭の両側から伸びた小さな角と、背中にある翼、そして尻尾が、彼女が人ならざる者であることを主張しているが、その容姿は人間で言うところの絶世の美女だった。
きわどいドレスのような鱗の装甲が、豊満な肢体を包んでいる。
年齢は俺と同じくらいか、少し下に見える。
彼女――竜人の少女は、つかつかと俺に歩み寄ってきた。
「……えっと、君は?」
俺が戸惑いながら尋ねると、彼女はいきなり俺の目の前まで顔を近づけ、スンスンと鼻を鳴らして匂いを嗅ぎ始めた。
「んんっ……ああ、なんて芳醇な……。たまらないわ、この香り」
「は、はい?」
「貴方ね? この辺りに漂っている、信じられないほど純粋な魔力の出処は」
少女は恍惚とした表情で俺を見上げる。
その瞳は獲物を狙う捕食者のようでもあり、同時に熱烈な恋する乙女のようでもあった。
「私はシルヴィア。この腐海を統べる『紅蓮の竜姫』よ。……ねえ、貴方、名前は?」
「あ、ああ。俺はレイン……」
「レイン様! 素敵な名前!」
シルヴィアは俺の両手をガシッと掴んだ。
その力は凄まじく、身体強化していなければ骨が砕かれていたかもしれない。
「レイン様、単刀直入に言うわ。私の『夫』になりなさい!」
「……はい?」
あまりの急展開に、俺の思考は完全に停止した。
夫? 誰が? 俺が? ドラゴンの?
「きょ、拒否権は?」
「ないわ! だってこんな極上の魔力、生まれて初めて嗅いだもの! 私たち竜族はね、強い魔力を持つ個体に惹かれる本能があるの。でも、この世界の魔力は汚れているでしょう? 強い男ほど毒を溜め込んでいて、味も匂いも最悪なのよ」
シルヴィアは顔をしかめ、そして再び俺を見てうっとりと微笑んだ。
「でも貴方は違う。貴方の魔力は、まるで湧き水のように透き通っていて、甘くて、それでいて濃厚……。ああ、これこそ私が探し求めていた『至高の伴侶』の魔力だわ!」
「いや、それは俺の体質のせいで……」
「体質? 素晴らしい才能じゃない! 貴方が放出した魔力の余り香だけで、私の細胞が歓喜の声を上げているの。ねえ、試しに少しだけ魔力を分けてくれない?」
彼女は期待に満ちた目で、口を小さく開けて待っている。
俺は戸惑いながらも、敵意がないことだけは理解できたので、指先から少量の純粋魔力を放出してみた。
かつてグランたちに渡していたのと同じ、濾過済みの魔力だ。
それを浴びた瞬間、シルヴィアの体がビクリと跳ねた。
「ふぁぁ……っ♡」
艶っぽい声を上げて、彼女はその場にへたり込んだ。
頬は朱に染まり、瞳は潤んでいる。
「す、すごい……! なにこれ、濃厚すぎる……! 全身が熱くなって、力が溢れてくる……! こんな極上の魔力を毎日味わえるなら、私、もう他の何もいらない……!」
「そ、そんなにか?」
「そんなに、よ! ああレイン様、貴方は私にとっての宝物、いいえ、神様だわ! お願い、私を貴方の側において。貴方の敵は私が全て焼き尽くすし、貴方が望むならこの体だって好きにしていいから!」
シルヴィアは俺の足に縋り付き、上目遣いで懇願してくる。
その姿に、俺は呆気にとられつつも、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
グランたちは、俺の魔力を「当たり前」のものとして搾取した。
俺が苦痛に耐えて精製したそれを、ただの燃料として消費し、感謝の言葉ひとつ寄越さなかった。
だが、この竜姫は違う。
俺の魔力の価値を、誰よりも理解し、全身全霊で求めてくれている。
「必要とされる」ことが、これほど心地よいものだとは。
「……好きにしていいって言われてもな」
「じゃあ、まずは契約のキスから始めましょう! さあ!」
「ちょ、待て、近い近い!」
迫りくる美少女の唇をなんとか手で制しながら、俺は苦笑した。
でも、悪い気分じゃない。
ずっと一人で耐えてきた。誰も俺を見てくれなかった。
それが今、最強の種族である彼女が、俺だけを見ている。
「わかった、わかったから落ち着けシルヴィア。夫になるかどうかは置いておいて……とりあえず、一緒に行くか?」
「本当!? やったぁ! 一生離さないからね、ダーリン!」
シルヴィアは歓声を上げ、俺の首に抱きついた。
その温もりと重みは、俺が孤独ではなくなったことの証明だった。
毒に満ちたこの世界で、俺だけが生み出せる「純粋」な力。
それを求めてくれる最強のパートナー。
これ以上の逆転劇があるだろうか。
「……さて」
俺はシルヴィアの頭を撫でながら、王都の方角を振り返った。
そこにはまだ、俺を捨てたかつての仲間たちがいるはずだ。
彼らは今頃、どうしているだろう。
俺がいなくなった穴の大きさに気づき、焦り始めているだろうか。
それともまだ、偽物の魔道具に頼って、破滅へのカウントダウンを進めているだろうか。
「行くわよ、ダーリン! 貴方におすすめの狩場があるの!」
「ああ、頼むよシルヴィア」
俺は彼女の手を取り、歩き出した。
背中には頼もしい竜姫。体内には無尽蔵のエネルギー。
今の俺に怖いものなど何もない。
この先、どんな敵が現れようとも、俺たちの敵ではないだろう。
そして、遠くない未来に訪れるであろう元仲間たちとの再会――その時、彼らがどんな顔をするのか。
俺は少しだけ、意地悪な期待を抱きながら、荒野の風を切って進んでいった。




