異世界居酒屋を開いたら、常連が全員攻略対象でした 〜ついにヒロインも来ました〜
※本作は、短編
『異世界居酒屋を開いたら、常連が全員攻略対象でした 〜恋愛相談、受け付けます〜』
の続編位置づけのお話です。
前作を読んでいなくてもお楽しみいただけますが、
もしよろしければ、そちらも合わせてどうぞ。
──おかしい。
ここ最近の攻略対象とのイベントは、全部うまくいっているはずだった。
舞踏会も、魔力供給の儀式も、護衛任務も。
攻略サイトの記憶と、この世界での彼らの性格をすり合わせて、セリフも立ち位置も、全部計算して動いた。
なのに。
「……なのに、どうして」
思わず部屋のベッドに倒れ込んで、枕をぎゅっと抱きしめる。
王子殿下は、舞踏会のあと、バルコニーで月を見上げながら言った。
『女将に相談したら、君の緊張がほぐれるように、控え室で一曲分練習しておくように言われてね』
魔導師さまは、魔力供給の最中に私の手を握りながら、ぽつりとつぶやいた。
『女将が教えてくれた。君が嫌がったら手を離せ、と』
騎士団長さまに至っては、護衛任務のあと、血のにおいがまだ残る馬車の中で豪快に笑いながら言った。
『さっきのセリフ、決まってただろ?
ぜーんぶ、女将が教えてくれたんだ。あいつ、マジですげぇんだぜ!』
……いや、知りたくなかった情報が多すぎる。
こっちは転生者として、前世で培った乙女ゲーム知識を総動員して、フラグを一個一個丁寧に回収しているというのに。
振り返れば、なぜかそこにいつも「女将」という単語がちらつくのだ。
ゲームのタイトル、思い出してみようか。
『月恋の王都と三つの誓い』──略して『つきこい』。
このタイトルのどこに、「女将」なんて出てくる余地があるの……!
攻略対象たちが通う居酒屋の女将らしいが、どうも最近の流れはおかしい。ヒロインである私よりも、女将の好感度のほうが高い気がする。
そんな嫌な予感を打ち消すために、私は枕に顔を押し付けてジタバタした。
「違う、女将はただのモブ……! ヒロインは私……!」
そう、ヒロインは私……!
…………たぶん。
それでも胸の奥のもやもやは消えない。
イベントがうまくいっているぶん、なおさら、彼らの口から「女将」の名前が出てくるたびに、心に小さなトゲが刺さる。
どんな人なんだろう、女将って。
口では「ただの相談相手だ」と言いながら、三人とも目元が柔らかくなる、あの感じ。
話していると落ち着く、とか。
料理が、ほっとする味だ、とか。
……そんなの、気にならないわけがない。
私はがばっと起き上がった。
「……よし。見に行こう」
百聞は一見にしかず、というやつだ。
このまま一人で誤解を育てて、勝手に拗ねて、イベントを台無しにするほうがよっぽどまずい。
別に、文句を言いに行くわけじゃない。
ちょっと、様子を見に行くだけ。
ほんの少しだけ、ついでに釘を刺すだけ。
そう自分に言い訳しながら、私は上着を羽織って部屋を出た。
王都の外れに、その居酒屋はあった。
石畳の路地の角を曲がると、ふわりと香ばしいにおいが鼻をくすぐる。
油のにおい、焼けた醤油のにおい、出汁のにおい──鼻腔の奥をくすぐる、どこか懐かしい温かな香り。
木製の引き戸の上にぶら下がる看板を見上げた。
『あかね食堂』
……日本語だ。この世界の公用語は、なぜか日本語だった。世界観はどこに行ったの。
居酒屋と聞いていたが、食堂もやっているらしい。
小さな赤い提灯のようなランプがほのかに揺れていて、扉の隙間から、笑い声と食器の触れ合う音が漏れてくる。
私は喉を鳴らして、扉の前で一度深呼吸をした。
「……よし」
扉を引くと、カラン、と鈴の音が鳴る。
暖かい空気と、湯気が一気に飛び出してきて、外の夕暮れの冷たさを押し返した。
「いらっしゃいませー。あ、初めてのお客さんかな?」
カウンターの向こうから、明るい声が飛んできた。
そこにいたのは、思っていたよりもずっと「普通」の女性だった。
派手なドレスでも、妖しいローブでもない。
シンプルな割烹着に、一本にまとめた髪。年齢は……私より少し上、くらいだろうか。
笑うと目尻に小さく皺が寄るけれど、それがかえって安心感を生んでいる。
特別に美人、というわけでもない。
けれど、カウンターの中に立っている姿が、とてもよく“そこ”に馴染んでいた。
──これが、「女将」。
私は無意識に、彼女を上から下までじろじろ観察してしまって、慌てて視線を逸らした。
「こ、こんばんは。少し……話を聞いて、いただけますか?」
「うん、もちろん。おひとり?」
「はい」
「じゃあ、カウンター奥の席どうぞー。そっちはあったかいよ」
促されるままに腰を下ろすと、カウンター越しに湯気がふわりと顔にかかる。
鼻先がくすぐったくて、思わず小さなくしゃみをしかけた。
「まずは飲み物からでいい? あったかいお茶と、冷たいお水と、お酒……はまだ早いよね?」
「……あったかいお茶でお願いします」
「はーい。今日寒いもんね」
女将は手際よく湯呑みにお茶を注いで、私の前にそっと置いた。
湯気のむこうの女将は、私の顔をじっと見た。
試すようでも、値踏みするようでもない。
ただ、「困っている人を見つけた」と言わんばかりの、そっと見守るような視線。
……なんだろう。見透かされている気がする。
「ここで、常連さんがよくお話しされていると伺って」
私は湯呑みを両手で包みながら、できるだけ何でもないふうを装って口を開いた。
「お仕事帰りに、よく寄られるとか。王子殿下とか、魔導師さまとか、騎士団長さまとか」
「んー、そうだねぇ。よく来る。相談と空腹を抱えて」
女将は苦笑して、出汁の入った鍋をくるりとかき混ぜる。
「私はただ、聞いて、ちょっと背中を押して、ごはんを出してるだけだよ。あの子たち、勝手に喋って、勝手に帰ってくから」
「……そう、でしょうか」
思わず、少しトゲのある声が出た。
「皆さま、その……何か嬉しいことがあると、すぐ女将さんの名前を出すんです。
まるで、こちらで『正解』をもらったから、うまくいったと思っているみたいに」
「あらやだ。正解だなんてとんでもない」
女将はあっさりと笑い飛ばした。
「私はそのへんの、ちょっと面倒見のいい居酒屋の女将なだけ。
本人たちが考えて、決めてるんだよ。私はその答えを引き出すお手伝いをしてるくらい」
「でも……」
言いかけて、言葉が詰まる。
言いたいことは山ほどある。
あなたの名前が出るたびに、こっちは「共通ルートですでに詰んだのでは」って胃が痛くなっているとか。
攻略対象の好感度の一部が、確実にあなたに流れている気がするとか。
そんなこと、初対面の相手に言えるわけがない。
だから、私は別の形に言葉をすり替えた。
「……皆さま、すごく楽しそうに話されるんです。女将さんのことを。
それが、少しだけ──羨ましくて」
女将の手が、一瞬だけ止まった気がした。
けれど彼女はすぐに、何でもないふうに笑う。
「そっか。ありがとう。羨ましがってもらえるほど、ちゃんと話を聞けてるなら、ちょっとは役に立ててるのかな」
「……怒らないんですね」
「怒る理由ある?」
「い、いえ……」
思ったよりもずっと、受け流し方が上手い。
責める言葉も、トゲをにじませた嫉妬も、全部ふわりと包まれて、毒気だけ抜かれてしまう。
ずるいな、と思った。
こんなの……好きになってしまうに、決まっている。
私だって、もしもっと早くここを知っていたら──
そこまで考えて、慌てて首を振る。
だめだめだめ。ここで女将の魅力に納得してどうするの私。
ヒロインは私。女将はモブ。
……そのはず、なのに。
「よし、それじゃあ。あんまりお腹が空いてなさそうだから、軽めのやつにしよっか」
女将はくるりと背を向け、手際よく何かを取り出し始めた。
卵を割る音、出汁を注ぐ音、小さなフライパンが火にかかる音。
ジュウ、と心地よい焼ける音がして、甘い香りが広がった。
「今日は大サービス。『ちょっとがんばった人の卵焼きセット』だよ」
「……卵焼き、ですか?」
「うん。少し甘め。疲れてるときは、こういうのがいいの」
そう言って、女将は小さな皿を私の前に置いた。
きつね色に焼けた卵焼きが、食べやすい大きさに切られて、湯気を立てている。
脇には、白いご飯と、小さな味噌汁の椀。
その匂いを嗅いだ瞬間、胸の奥がきゅっと掴まれた。
「……え」
舌の上に、記憶が蘇る。
まだ口に運んでいないのに、脳が勝手に「知っている」と叫んでいる。
私は箸を取り、震える指で卵焼きをひとつ、口に入れた。
ふわふわで、柔らかくて、噛むとじんわり広がる甘さ。
出汁の香りと、卵のコク。
焼き目の香ばしさがほんの少し。
──同じだ。
前世で、夜遅くまで勉強しているとき、机にそっと置かれた皿。
「冷めると固くなるから、今食べなさいよ」と、少しだけ呆れたように笑う声。
私の胃袋と心は、その味をよく知っている。
……お姉ちゃんの、卵焼きだ。
視界が、一瞬でぼやけた。
──前世の私は。
どこにでもいる、目立たない女の子だった。
クラスの端っこで、空気のように扱われることに慣れていた。
自分から話題を振ることも、人の輪に飛び込むこともなく、無難で、平凡で、気配を消して生きていた。
そんな私を、唯一ちゃんと見てくれていたのが、三つ年上の姉だった。
成績も良くて、友達も多くて、先生たちにも可愛がられて。
家でも学校でも、いつも誰かに囲まれて笑っている人。
私と真逆の人。
忘れられがちな私の誕生日に、ちゃんとケーキを買ってきてくれたのも。
学校で嫌なことがあって泣きそうになっていたとき、何も訊かずに卵焼きを山盛り作ってくれたのも。
ぜんぶ、あの人だった。
だから──だから、私は。
『お姉ちゃんはずるいよね、みんなに好かれて』
あの日、言ってはいけない言葉を吐き出してしまった。
『私なんかいなくても、誰も困らないのに』
お姉ちゃんは困ったように笑って、それでも私のことを心配してくれていた。
なのに私は、その優しささえも「上から目線だ」と決めつけて、家を飛び出した。
夜の横断歩道、黄色く点滅する信号。
スピードを落とさない車のライト。
クラクションの音と、誰かの叫び声。
鋭い痛みと、ふっと消える重力。
──それで、全部終わったはずだった。
気づいたら、この世界の「ヒロイン」として生まれ変わっていて。
前世とは違って、誰かに見てもらえる立場になって。
みんなが私のことを気にかけてくれて、優しくて、眩しくて。
過去の私なんか捨てて、幸せになれるはずだった。
なのに、どうして。
どうして今、このカウンターで、前世の味に再会しなきゃいけないの。
「……っ」
喉の奥が詰まる。
目の奥が熱くなって、涙がせり上がってくる。
だめだ、ここで泣いたら迷惑だ。
初対面の女将の前で、卵焼き一口で嗚咽するなんて、迷惑以外の何物でもない。
私は慌てて俯いた。
前髪で顔を隠して、湯呑みを持ち上げるふりをして、震えを誤魔化す。
「……あ、の」
かすれた声で、どうでもいいことを口にしようとした、そのとき。
「卵焼き、しょっぱかった?」
女将の声は、驚くほどそっと、カウンター越しに落ちてきた。
「え……?」
「たまにね、出汁と塩のバランス間違えて、しょっぱくさせちゃうときがあるんだ。
泣きたくなるくらいしょっぱかったら、ごめん」
冗談めかした声。
でも、それに紛れて、ちゃんと「大丈夫?」と訊いてくれている。
私は首を横に振った。
ちゃんと声が出ないから、せめて動きで伝える。
「……ちが、います。甘くて、おいしい、です……」
「そっか。良かった」
女将はほっとしたように笑った。
それから、少しだけ真面目な声音になる。
「なんかね、その顔ね。『昔のことを思い出しちゃった顔』してる」
「……!」
「ここに来る子、よくその顔になるんだよ。
唐揚げで思い出したり、味噌汁で思い出したり、卵焼きで思い出したり。
前にもね、家族の味だって言って、泣いた子がいた」
胸が、ぎゅっと痛んだ。
「……私も、です」
気づいたら、口からこぼれていた。
「お姉ちゃんの、味……です」
言った瞬間、堰が切れたみたいに、涙が頬を伝った。
あの日、投げつけてしまった言葉。
飛び出して、そのまま二度と戻れなかった玄関。
口を尖らせながらも、きっと私を探しに来てくれたであろう人。
謝りたかった。
ちゃんと、言葉で「ありがとう」って言いたかった。
でも、その機会を、私が……自分の手で、捨ててしまった。
「謝れなかったんです……!」
声が震える。
カウンターに額がつきそうになるのを、必死でこらえる。
「ごめんなさいって、言えないまま……っ。
全部、私が勝手に怒って、勝手に飛び出して。
なのに、今こうして……みんなに優しくされて。
ずるいのは、きっと私のほうなのに……!」
何を言っているのか、自分でもよく分からなかった。
言葉にならないものが溢れて、ぐちゃぐちゃに混ざって、涙と一緒に零れ落ちる。
女将は、途中で口を挟まなかった。
ただ静かに、私の前にそっと、布巾と水の入ったコップを置いてくれた。
ひとしきり泣いて、呼吸が少し落ち着いたころ。
「……ここはね」
女将がぽつりと口を開いた。
「『ごめんなさい』を練習する場所でもあるんだよ」
「……え?」
「本人の前で言うのって、すごく勇気いるでしょ。
だからまず、ここで言っとくの。涙と一緒に出しちゃうの」
女将の声は、不思議と耳にすっと入ってくる。
「『ごめんなさい』と『ありがとう』はね、どっちもあったかい言葉なんだよ。
どっちか片方だけじゃなくて、両方一緒に言えたら、その分だけ、ちゃんと前に進める」
「……でも」
「その人は、もういないのかもしれない。
直接は届かないのかもしれない。
それでもさ、『言えなかった』って苦しんでるあんたのことは、今ここにいる私が見てる」
女将はふっと笑った。
「だからまずは、ここで言っときな。
卵焼きを作ってくれた、お姉ちゃんの顔を思い出しながら」
胸の奥で、何かがほどける音がした気がした。
お姉ちゃんの笑顔と、「冷める前に食べなさいよ」という声が、卵焼きの香りと一緒に蘇る。
私は両手で湯呑みをぎゅっと握りしめて、目を閉じた。
「……お姉ちゃん」
喉が震える。
でも、言葉はちゃんと出てきた。
「ごめんなさい……っ。
あのとき、ひどいこと言って、飛び出して、ごめんなさい。
いつも、見てくれて……ありが、と……っ」
どこにも届かないかもしれない。
それでも、今ここで言わなければ、一生言えない気がした。
涙が、ぽたぽたと卵焼きの皿のそばに落ちる。
女将はそれを拭かない。ただ、そっと味噌汁の椀を少しだけ私のほうへ押しやった。
「よくできました。
……出した塩分、補給しないとね」
そんなふうに、冗談めかして。
私はしゃくり上げながら、味噌汁を一口飲んだ。
出汁がじんわり、体の中にしみていく。
さっきまで胸の中で暴れていた後悔が、少しずつ輪郭を変えていくのが分かった。
消えはしない。
けれど、きっと、抱えていてもいい形に。
どれくらいそうしていたのか分からない。
涙がようやく落ち着いたころには、卵焼きの皿もご飯も、きれいに空になっていた。
女将が新しいおしぼりを差し出してくれて、私は何度も頭を下げた。
「……すみません。初めて来たお店で、こんな、みっともないところを」
「いいっていいって。ここ、そういう涙、何杯もこぼれてるから」
女将は、いつものように、きっと他の常連にも向けてきたのだろう柔らかな笑みを浮かべた。
「それに」
「それに?」
「あんた、泣きながらもちゃんと全部食べたから、えらい」
思わず、ふっと笑ってしまう。
「食べ物残す子はね、説教するけど。
泣きながらでもちゃんと食べてくれる子には、またご飯作ろうって思える」
「……じゃあ、その、また」
言いかけて、胸がくすぐったくなる。
でも、今度は逃げなかった。
「また、来てもいいですか」
「もちろん。うちは誰でも来ていいよ。
攻略対象でも、ヒロインでも、ただの通行人でも」
──ヒロイン、って。
一瞬心臓が止まりかけて、女将の顔を見上げる。
けれど彼女は、意味ありげな笑みを浮かべたわけでも、含みのある視線を送ってきたわけでもなかった。
ただ、「この世界にはいろんな役割の人がいるよね」とでも言うように、当たり前の顔をしている。
もしかしたら、全部お見通しなのかもしれない。
もしかしたら、何も知らずに言っているだけかもしれない。
どちらにせよ──そんなことは、今はどちらでもいい気がした。
「女将さんの料理、好きです」
素直な言葉が出た。
「なんか……ずるいくらいズルいです。
心が……あったかく、なっちゃうから」
「ふふ。じゃあ、ずるい料理、また作っとくね」
女将は笑って、カウンターの奥で片付けを始めた。
「次来るときは、ちゃんとお腹を空かせておいで」
「……はい」
店を出ると、夜風がひやりと頬を撫でた。
さっきまで熱くて仕方なかった目の周りが、一気に冷やされる。
空を見上げると、たくさんの星が瞬いていた。
前世では、いつも俯いて歩いていた。
空を見上げる余裕なんてなかった。
今、こうして胸の中に重たいものを抱えながらも、少しだけ前を向けているのは──きっと、あの卵焼きのおかげだ。
「……また、来よう」
小さく呟く。
攻略対象たちが通う店。
女将に会うと、彼らは嬉しそうに笑う。
その意味が、さっきまでよりも、ほんの少しだけ分かった気がした。
彼らがここでどんな顔をしていたのか。
どんな言葉をもらって、どんなふうに背中を押されたのか。
その全部を、知りたいと思ってしまった。
──そして、あの卵焼きを、もう一度食べたいと思ってしまった。
その欲張りな気持ちを胸の中に抱きしめながら、私は石畳の道を歩き出した。
居酒屋『あかね食堂』。
きっと、私も今日から、常連の一人だ。
◆◇◆
夜の帳が降り、ヒロインが去ったあと。
扉の鈴が最後に小さく鳴り、店の空気がふっと静まる。
私は片付け用の布巾を手に取りながら、ため息をひとつこぼした。
「……びっくりした。まさか、ヒロインまで来るなんてね」
皿を水に沈め、油の浮く天板を軽くこすると、湯気がふわりと立ち上る。
その湯気に紛れたように、胸の奥がじんと熱くなった。
──あの子、似ていた。
くるくる動く目線。周りと距離を取っているように見えるのに、視線だけはやけに正直で、甘えたい気持ちがふと滲む。
そして、照れを隠そうとした拍子にこぼれてしまう、不器用な笑顔。
……うちのすぐ下の妹。反抗期真っ只中で、いつも素直になれないくせに。
試験前の夜だけ私の部屋に来て「わたし、バカかも」と泣きついてきた、あの顔だ。
「……ああ、だめだ。思い出しちゃった」
私はカウンターに手をつき、ひと呼吸置いた。
ここにはいないと分かっていても、あの子たちの夕飯を準備する癖が、まだ抜けない。
仕事で遅い母の代わりに鍋をかき回していた自分。
兄弟たちが揃って「おかわり!」と笑った食卓。
その全部が、一枚の古い写真みたいに胸の奥で揺れた。
──この世界に転移してきてから。
一度も、あの子たちのことを忘れたことなんて、ない。
ぽたり、とひとつ、涙が落ちる。
「……うん。寂しいのは、そりゃあね」
けれど私は涙を指で拭い、笑った。
「……明日も、頑張ろう」
またみんなに会えたとき、胸を張って笑えるように。
椅子を上げ、暖簾を外し、静まり返った店内にひとり立つ。
唐揚げの油の匂いも、味噌樽の香りも、私の“帰る場所”になりつつある。
ヒロインも、王子も、魔導師も、騎士団長も──
明日また、ここを訪れる。
そのとき私は、今日より少しだけ強く、優しい女将でいたい。
「……よし。閉店っと」
店じまいの音が、夜の街へと静かに溶けていった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
ヒロインは転生者で、女将は転移者です。
いつか二人が仲良くなって、乙女ゲーマー同士、
推しの話で盛り上がってくれたらいいな、と思っています。笑
他にも長編・短編小説を書いていますので、
もしご興味がありましたら、欄外のリンクからご覧いただけると嬉しいです。




