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アオハルカゼ -君と駆けた、奇跡の末脚-  作者: トンヌラ
第2部:共鳴 ~二人の応援歌~
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第9章:祝杯と秘密の香り

栞さんの父親と名乗る男が去ったあと、ウイナーズサークルの眩しいライトも、拍手の音も、まるで透明な壁の向こうにあるように遠く感じられた。

さっきまで胸の底から湧き上がっていた幸福感は霧のように薄れ、重い沈黙だけが残った。


「……あの、日高さん。さっきの――」


俺が切り出そうとすると、彼女は無理やり笑顔を作って、言葉を遮った。


「ごめん! ちょっと、うちの父って、昔からカタブツでね。競馬のこと、いい印象なくて。気にしないで!」


「でも、処分って……」


「はいストップ! それ以上は聞きませーん!聞こえませーん!」

彼女は無理にだろう明るい声を張って、口取り中のアオハルカゼを指さした。


「見てよ、あれ! 勝ったんだよ、あの子が! 私たちの応援のおかげだよ!」


その笑顔は綺麗だった。

けれど、同時に――ひどく痛々しかった、俺にはそう見えたんだ。


(けど……今は、追及するべきじゃない)


喉まで出かかった質問を飲み込み、俺も無理やりではあったが笑顔を作った。


「ええ。よくやりましたね、アイツ。本当にすごい」


「でしょ! だから今日は祝杯だよ! ぱーっと飲むの! さっ行くよ、高木さん!」


俺の腕を引く彼女の指先が、ほんの少し震えていた。

気づいているだろう、でも気づかないふりをしてあげるのが、今できるお互いの精一杯だった。


駅で買った缶ビールを開け、新幹線の座席に身体を預ける。


「ぷはっ! 今日のレース、ほんっと痺れたね!」


「最後の直線で叫びすぎて声出なくなりましたよ」


俺たちは、まるでVTRを巻き戻すみたいに何度も何度も何度もレースを語った。

ほんの後におきた、ちょっと前に起きたあの出来事には、あえて触れずに済むように。


でも――ふと訪れる沈黙が、その避けている“何か”をはっきり意識させた。


栞さんの飲むペースは、いつもよりずっと速い。


「高木さん、なんでそんなに飲まないの? 祝杯だよ?」


「いや、俺は……俺より、日高さんこそペースが速すぎませんか?」


「今日はいいの。勝ったんだから。ね?」


笑顔なのに、瞳の奥が笑っていなかった。辛そうに見えた、でも触れないでねって

釘をさされているようにも感じた。

そんな表情と目の奥の表す感情のギャップが俺の胸に刺さる。


東京に着いた頃には

すっかり酔いが回ったらしい彼女の足取りは、少し危なっかしかった。


「日高さん、家まで送ります」


「んー……だいじょぶよぉ。わたしぃ、大人なんだから……ひとりで帰れるし……」


「ダメです。今のあなたを1人にできません、それにこれは俺の自己満足なんで」


少し強い口調で言うと、彼女は驚いたように見上げて、やがて静かに頷いた。


タクシーの窓の外を、東京の夜景が流れていく。

その綺麗さが、二人の沈黙を逆に際立たせた。


そしてタクシーが着いたのは、都心の一等地にそびえる高級マンション。

エントランスのガラスすら俺の住む世界とは違う輝きを放っていた。


(……自由業って言ってたけど、やっぱり嘘なんだろうか?)


疑問が胸の奥で渦巻くがその疑問を出さないようにした。


エントランス前で、栞さんは振り返った。


「送ってくれて、ありがとう。……今日の父のことは、本当に気にしないでほしいの。あれはただの、親子喧嘩だから」


「…………」


「じゃあね」


オートロックの扉が閉まりかけた、その瞬間。


どうしても聞きたくて、俺は声を出していた。


「……アオハルカゼは、日高さんにとって、どういう存在なんですか」


足を止めた彼女の横顔は、駅で見たときよりも少しだけ、弱々しくみえた。


「……あの子はね」


振り返った瞳には、うっすら涙が滲んでいた。


「私の、たった一つのわがままなの」


「わがまま……?」


「うん。私の家はね、ずっと“決められた道が正しい”って教えられてきたの。学校も、付き合う人も、働き方も――全部。

馬主(うまぬし)になったのだって、最初は父に言われたから。ビジネスのため、人脈のためよ」


胸が痛くなるような静かな声だった。


「でもね……アオハルカゼだけは違った。血統も地味で、誰も期待してなかった馬を、初めて“私が欲しい”って言えたの。初めて、父に逆らったの。

だからあの子は、私にとっての……自由の象徴なの」


“自由”。

その一言に、彼女がどれほどの想いを重ねてきたのかが、痛いほど伝わった。


「今日、一緒に応援してくれてありがとう。あの子の勝利を、一緒に喜んでくれて……ほんとに、嬉しかった」


そう言って笑った彼女は、酔っているはずなのに、どこか透き通るように綺麗だった。

同時に――切なかった。


「おやすみなさい」


静かに扉が閉まる。

俺はしばらくその場から動けなかった、そう動くことが出来なかったんだ。


彼女が背負っているもの。

アオハルカゼに託された願い。

その全部を知ってしまった今、もう“ただの競馬仲間”の距離には戻れない。


「……俺に、何ができるんだろう」


夜風が冷たく頬を撫でる。


勝利の祝杯は甘かった。

そして、彼女の秘密は――ほのかに胸を焦がす香りを残した。

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