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アオハルカゼ -君と駆けた、奇跡の末脚-  作者: トンヌラ
第2部:共鳴 ~二人の応援歌~
8/21

第8章:引退の影

福島のゴール前は、東京とはまた違った熱気に包まれていた。

観客とコースとの距離が近いぶん、声援が肌にぶつかってくるようだ。

いつもよ以上に、自分もレースの一部になったような一体感が強い。


「うおっ、すごい人……! 東京より熱気がすごいかもしれない!」


「地方ってね、中央で結果を出せなかった馬たちが“再起”をかけて戦う場所でもあるの。だから、みんなの想いがより濃いのよ」


栞さんは人波を縫うように進み、フェンスのすぐそばまで俺を誘導した。

目の前を返し馬の馬たちが、風を切り裂くように走り抜けていく。


「さあ、今日の作戦はどうする? 高木先生」


「先生って……やめてくださいよ」


「いいじゃない。データ派なんでしょ? 今日の分析を、ぜひ聞かせて?ねっ」


栞さんは悪戯めいた笑みで、俺の顔を覗き込む。


(……これ完全に遊ばれてるな。でも、それが嫌じゃない俺ってどうなんだ)


俺はにやけてしまいそうな表情をこらえつつ、わざと真面目な表情を作り、競馬新聞を開いた。


「えー、本日のアオハルカゼですが……前走の末脚は高評価。しかしスタート難が深刻で、福島の直線の短さは追い込み勢には不利。正直、今回もかなり厳しい展開が予想されるかと……」


「……で?」


「で……とは?」


「結論はどうなの? 買うの? 買わないの?」


「……か、買いです。単勝で一万円いきます」


言った瞬間、栞さんは思わず吹き出した。


「あははは! なにそれ! 全然……ぜんっぜん、データ関係ないじゃない!」


「笑わないで下さいよ、分かってますって! これは俺の魂の叫びなんです!」


「魂の叫び……ふふっ、気に入ったわ」


彼女もまた、俺と同じ単勝馬券をぎゅっと握りしめていた。

ただの紙切れではないんだ。この馬券はそう俺たちが信じた“夢”そのものなんだ。


ファンファーレが鳴り響き、ゲートインが始まる。

胸の奥で、また心臓がうるさいほど打ち始めた。


「……頼む。今度こそ、ちゃんとスタート決めてくれ……」


「だいじょうぶ。あの子なら……きっと」


祈るような栞さんの声が、耳の奥に染みた。


ゲートが揺れ、そして――。


ガシャン!


「出た! ……って、やっぱり出遅れてるじゃないか!」


思わずツッコミが飛び出した。


またしても、アオハルカゼは豪快に出遅れた。

最後方。最悪の位置取り。


「あーーーもう! あの子のおバカ、おバカさん!!」


栞さんは地団駄を踏み、その姿が妙に可愛くてしょうがなく、俺は苦笑した。


レースは前回と似た展開。先行勢がペースを作り、アオハルカゼはただただ後方で

揺さぶられているだけ。


「……やっぱり、無理か。福島でこれじゃあなぁ……」


短い直線では絶望的。

ほとんどの観客が、そう思っていたはずだ。


しかし。


最後の直線、そして残りはわずか。


ほとんどの誰もがもう届かない――そう思った瞬間だった。


馬群の内側。ぽっかりとスペースが道が開いた。

その瞬間、アオハルカゼが――

まるで、そこを開くのがわかっていなかたのように黒い風となって飛び込んだ。


「来た?おおおおおおお来た!!」


「いっけえええええええ!!いってええええええええ!!」


俺と栞さんの叫びが競馬場に吸い込まれる。


馬と馬の隙間を縫い、鬼気迫る形相で伸びるアオハルカゼ。

先行勢を次々と、内からまとめて差し込んでいく!


「差せ! 差してぇぇぇ!!」


ゴール板を通過した瞬間、先頭の馬とアオハルカゼの体が、ぴたりと重なった。


「……どっちだ?」

首の上げ下げで決まるぐらいの差しかないだろう、判定ランプが灯る。

場内が一瞬で静寂に包まれた。

皆がターフビジョンのスロー映像と、判定ランプに釘づけになる。


息が止まるほどの沈黙の後、少しずつガヤガヤと周りが騒がしくなる


「おい、あれって差したんじゃね?」

「いや、ちょっと微妙じゃね」

「くそ~どっちにしろ買ってないぞ」


そして――ついに結果が、写真判定のランプが、8番に灯った。


「…………勝った」


そのひと言で、場内が爆発したように歓声を上げた。


「やった……うおおおおおお!!」


俺は叫び、跳ね、何がなんだかわからないほど興奮していた。


隣を見ると、栞さんはその場にへたり込み、肩を震わせている。


「日高さん!? 大丈夫ですか!」


顔を上げた彼女の目には、大粒の涙が溢れていた。


「……勝った。あの子が……勝った……!」


「はい! ついに勝ちましたよ!」


栞さんは子供のように泣きじゃくり、

俺は背中をさすってあげることしかできなかった。


(……こんなに、こんなに想ってたんだ)


彼女の涙が、アオハルカゼの勝利を、自分のこと以上に嬉しいと感じさせた。


落ち着いたあと、俺たちはウイナーズサークルへ向かった。


誇らしげなアオハルカゼ。

笑顔の若手騎手。

今日のこのレース主役は間違いなくあの馬だった。


「……本当に良かった」


「ええ、本当によかった。これで、あの子の引退なんて話もなく――」


そう言った栞さんの体が、瞬間ビクリと震えた。


「……え?」


「あっ……」


その言葉の意味を聞こうと思ったその瞬間、背後から低く威圧的な声が響いた。


「――栞」


栞さんとともに俺もつい振り返る。


上等なスーツを着た初老の男。鋭い眼光、隙のない佇まい。

彼の周囲だけ空気が違う、またその空気が冷えるかのようであった。


「こんな場所で、何を油を売っている」


「……お父さん」


お父さん?


(……自由業って、そういうこと……?)


男は俺を一瞥し、道端に転がっている石ころでも見るような視線を向けた。


「ふん。あんな駄馬が一度勝っただけで、はしゃぐとは。見苦しい」


「駄馬ですって!?」


言い返そうとした俺の腕を、栞さんが強く掴んだ。


「……今日の勝利は、まぐれなんかじゃない。あの子の実力です」


「実力? 笑わせるな。あんな馬ではG1で通用するわけがない。条件戦で一喜一憂するのが関の山だ。時間と金の無駄だ」


その声は冷たく、俺たちの喜びを踏み潰すようだった。


「いい加減にしろ栞。いつまでも子供じみた遊びを続けるな。そろそろ俺の言うことを聞け」


「……嫌よ。私は、私のやり方で、あの子を証明する」


「そうか。ならば勝手にしろ。――だが覚えておけ。次はない。次に勝てなかったら、あいつは終わりだ。俺が処分しとておいてやる」


処分――その一言に、血の気が引く。


男は背を向け、人混みの中へ消えていった。


残ったのは、重く息苦しい沈黙。


「……あの、今の……」


「……ごめん。見苦しいところ、見せちゃったね」


栞さんの横顔からは、さっきまでの笑顔が完全に消えていた。

瞳は暗く沈み、深い影が落ちていた。

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