第7章:遠征という名の旅
栞さんと連絡先を交換してから、俺のくすんだ灰色の日常は、ゆっくりと色づき始めていた。
月曜の朝、満員電車の中。スマートフォンのメッセージアプリを開くと、週末のメインレースについて語り合った栞さんとのやり取りが並んでいる。それを眺めるだけで、自然と口元が緩んでしまう。
『おはようございます。今週も始まりましたね(泣)』
そう送ると、数分で既読がついた。
『高木さん、おはよー! こっちはもう始まってるよー(笑)今週も頑張ろうね!』
(……“こっちはもう始まってる”って、どういう意味なんだろ)
彼女の仕事が何なのか、俺は何も知らない。
興味はあるけど、今の関係を壊したくなくて踏み込めないし知らないほうがいいのかもしれない。
気まずさを避けるように、話題を変えた。
『アオハルカゼの次走、決まったみたいですね!』
『! ほんとだ! 来週、福島!? 遠いなー!』
福島競馬場。東京から簡単に行ける距離ではない。
(さすがに、行かないよな……)
と思った瞬間。
『どうしようかなー。行っちゃおうかなー、福島』
心臓が、跳ねた。
(え、栞さん行くの? マジで?)
気づけば、指が勝手に走っていた。
『俺も行こうか迷ってます。もし行くなら、現地でまた一緒に応援しませんか?』
送ってから、頭を抱えた。
(バカか俺!! 行けって迫ってるみたいだろ!!!)
既読はついているのに、返事は来ない。
仕事中、エラーコードを見つめながらも、俺の脳内デバッグは「恋愛方面のバグ」で埋め尽くされていた。
終業後、暗い気持ちで駅に向かっていると、ポケットのスマホが震えた、焦った指で画面をひらく。
『ごめん、仕事でバタバタしてた!
もちろん! 高木さんも行くなら、ぜひ一緒に応援しよ!』
(……っっしゃあああああぁぁ!!)
大声で叫びたいのをぐっと我慢しこらえたものの、ガッツポーズをこらえることが出来なかった。
周囲の視線が痛い。
こうして、俺と栞さんの初めての“遠征”が決まった。
ただ競馬を見に行くだけ──のはずなのに、俺にとっては人生でいちばん大きな冒険の始まりだった。
約束のその日。
俺は少し早めに東京駅へ着き、缶コーヒー片手に落ち着かない気持ちでホームを歩き回った。
(……俺も、いま“旅行に行く人”なんだな)
そんな小さなことさえ、不思議で嬉しかった。
「高木さーん! お待たせ!」
振り返ると、人混みの向こうから栞さんが走ってくる。
キャップを外し、少しだけオシャレした姿の彼女は──
この前会った時よりもさらに何倍も、何倍も綺麗だった。
「ひ、日高さん……」
「待たせちゃってごめんね! 電車乗り間違えちゃって! ギリギリになっちゃった」
「い、いえ! 全然!全然待ってないです」
(やばい。これはマジでやばい。可愛すぎる……)
つい、見惚れていると、栞さんが伺うような視線を俺にぶつけてくる
「高〜木さん? どうしたのかなぁ? 私の顔に何かついてる?」
「あ、いや! な、何も! ついてないどころか……むしろ輝いてます!」
「なにそれ、高木さんってほんと面白いね!」
ふふっと、笑う声に救われつつ、俺たちはホームへ向かい新幹線に乗り込み指定席へ並んで座った。
「新幹線なんて久しぶりだなー」
「俺もです。いつも競馬場見える電車ばっかで」
「あはは、わかる!」
窓の外を流れていく景色を眺めながら、映画や食べ物の話で盛り上がる。
そして、自然とアオハルカゼの話になっていく。
「今日の相手、経歴見ると強いですよね……勝てるかな」
「大丈夫よ。あの子、強い相手の方が燃えるタイプだから」
根拠はないのに、不思議と説得力があった。
「でも、よく福島まで来ようと思いましたね。テレビで見てもいいのに」
「……高木さんこそ。この前やっと一回三着に来ただけの馬を追って福島まで来るなんて、相当の物好きよ?」
栞さんが覗き込んでくる。距離が近い。
(……そりゃ、あなたが行くっていうなら俺も行くに決まってるだろ……)
声にならないほど小さく呟いたつもりが──
「え?聞こえなかった、 なんて言ったの?」
「い、いえ! 可能性を信じてるって言いました! あの末脚、本物だって!」
「ふふっ……そっか。嬉しいな」
嬉しそうな笑顔を見ていると、胸の奥が温かく満たされていった。
そうして楽しい時間があっという間に過ぎ福島駅に着き、バスに乗り換えて、
同志のような競馬ファンに囲まれながら競馬場へ向かう。
福島競馬場は東京よりずっと小さい。でも、その分だけコースとの距離が近く、馬の息遣いが直接伝わってくるかのようだ。
「うわ……いつもより近い……すごい迫力……!」
「でしょ? 私、ここ好きなの」
パドック最前列に陣取り、アオハルカゼの登場を待つ。
やがて──その姿が現れた。
以前よりも締まった体。大人びた表情。
そして、相変わらず奥の奥に火を宿したような、澄んだ瞳。
「……アオハルカゼ」
栞さんがそっと名前を呼ぶ。
その瞬間、彼は顔をこちらに向けた。
勢いで、ではない。
呼ばれて応えた、そんな落ち着いた視線。
「……あなたのこと、わかってるんですね」
「どうかな。でも……そうだったら嬉しいな」
栞さんは少し寂しげに微笑んだ。
その表情の意味を、俺はまだ知らない。
ただ──
この旅は、絶対に忘れられないものになる。
そして、きっと俺たちの“物語の転換点”でもある。
「さあ、行きましょ! 私たちの夢を乗せて!」
「はい!」
俺たちは馬券を握りしめ、歓声の渦へ駆け出していった。
──この先にどんな結末が待っているのか、いまだ何も知らないまま。




