第6章:敗者の祝杯
フードコートのテーブルは安っぽいプラスチック製だったが、
向かいに栞さんが座っているだけで、そこは自分にとっては西新宿のバーよりも
ずっとずっと特別な空間に変わっていた。
俺たちは「負けた祝杯」という妙な乾杯を交わす。
「はぁ〜……うまっ! 興奮した後のビールって、なんでこんなに美味いんでしょうね」
「ふふっ、ほんと。体の奥に染みわたるって、このことだわ」
栞さんは「ぷはぁ」と息を吐き、子供かのような笑みを浮かべた。
その気取らない仕草に、俺の胸の鼓動が跳ねる。
(なんだこの人……反則級に可愛いんだが……)
「日高さんは、いつも競馬場来てるんですか?」
「うん、そうだね……。う~ん、ほぼ毎週になるかなぁ。高木さんのほうこそ詳しそうじゃない? パドックにいたし」
「俺も週末は、ほぼここに来ていますね。平日のストレスを洗い落としに来るというか……」
モツ煮込みを口に放り込むと、よく煮こまれたモツがとろけて、思わず声が漏れた。
「うまっ……。俺、データ派なんですよ。新聞に赤でめちゃくちゃ書き込みして、過去レース全部見返して、理詰めで買うのが好きで」
「え〜意外だなぁ。完全に『ビビッときた派』だと思ってたわよ」
「いや今日だけです、あんな買い方したの。普段は石橋を叩いて叩いて……叩き過ぎて叩き割るタイプで……。だから自分でも驚いてるんですよ。初めて自分のデータには欠片もなかった単勝を買ったのは……」
言いながら、心の奥でははっきりわかっていた。
(後悔なんてない。むしろ……)
そっと視線を上げると、栞さんが楽しそう笑顔を浮かべて俺の話を聞いていた。
「私はね、データは大事だと思うよ、でもね、ある程度データを見たら、最後は“気”だと思うの。その馬が持つ空気とか、魂みたいなもの。数字だけじゃ見えないものがあるでしょ?」
魂──。
毎日パソコンに向かってコードを書いている俺の世界とは縁がない、まったく違う言葉なのに、妙に心に残った。
「日高さんは、アオハルカゼのどこに惹かれるんですか?」
そう尋ねると、栞さんは少し視線を揺らし、残りのビールをぐいっと飲み干してこう答えた。
「……全部、かな」
「全部……ですか?」
「うん。綺麗だけど危うくて、気難しそうなのに目がすごく賢くて……誰にも信じてもらえない“とんでもない力”を隠してるところ」
言葉を選びながら、一つ一つ噛みしめるように語る。
アオハルカゼへの想いが真っ直ぐで、痛いほど伝わった。
「誰も信じてくれない力、か」
「そう。誰も、あの子がG1なんて勝てるとは思わないし、思われていない。今日のレースだって“人気薄が偶然突っ込んできた”くらいにしか思われてないはずだと思うの。でもね、違うの、違うのよ。あの子はもっと上を走れる。ただ……ただ噛み合ってないだけ……」
ゲート癖、気性、乗り替わり、体質。
競馬を知るものなら誰でも思い当たる“歯車のズレ”。
栞さんは静かに続けた。
「でもね、もし全部が噛み合ったら……、いえ全部でなくてもいいの、もうちょっと噛み合うだけで、あの子は誰よりも速く走れる、誰よりも前に行ける。私は、ずっとそう信じてるの」
彼女の言葉は、揺るぎなく強かった。
(信じる、か……)
俺は最近、そんな気持ちを抱いたことがあっただろうか。
会社の未来? 自分の人生?
どれも、どこか人任せな受け身の“予測”であって、“信じる”とは違っていた。
(この人……真っ直ぐだな)
「……俺も、信じてみたくなりました。今日の走りを見て」
「え……ほんとに?」
「はい。まぐれじゃないですから、アオハルカゼの、あの末脚は本物です」
そう言うと、栞さんは胸の奥まで光が灯ったように、ぱっと表情を明るくした。
「……嬉しい。そう思ってくれる人が、私以外にもいたなんて」
その笑顔を見るためなら、万馬券の一つや二つ外してもいい。
そんな気がした。
(……だめだ。彼女に惹かれすぎてる)
もっと知りたい衝動が抑えられず、俺は質問を投げた。
「あの……日高さんって、普段はどんなお仕事をなさっているんですか?」
その瞬間、彼女の表情がほんの一瞬だけ曇った。
「……まあ、色々。自由業ってやつかな」
「自由業……ですか」
「うん。誰かに縛られるの、得意じゃないの。高木さんは……SEだっけ? そっちは大変そう」
「まあ……悲しい話縛られてばっかりですね」
彼女はそっと話を逸らした。
これ以上踏み込むな──そう言われているような空気を、俺も感じ取った。
遠くで、メインレースのファンファーレが鳴り始める。
「あ、もうそんな時間か」
「行こっか」
栞さんが立ち上がり、俺も慌てて立ち上がった。
このまま終わらせたくない。
今日の縁がここで切れたら、俺は今後一生後悔する気がしたんだ。
「あのっ! 日高さん!」
人混みに紛れる前に、喉が裂けそうなほどの声で呼び止める。
「よ、よかったら……連絡先、交換しませんか!? また……一緒にアオハルカゼを応援したいので!」
栞さんは目を瞬かせたあと、笑顔を浮かべながらふっと吹き出した。
「なにそれ……告白みたいじゃない」
「あ、いやっ、ち、違っ……いや、違わないけど違うというか……!」
「ふふっ。いいよ。交換しよ」
あっさりスマホを取り出した彼女に、俺は慌てながらQRコードを表示する。
たかが数秒なのに、心臓が破裂しそうだった。
「……じゃあ、またね。今日はありがとう。すごく楽しかった」
「こ、こちらこそ、楽しかったです」
手を振って人の波に消えていく彼女の背中を見送りながら、俺は胸を押さえた。
(……繋がった……!)
スマホに登録された栞さんの名前が、万馬券の光のように輝いて見えた。
ポケットの中の紙屑になった馬券は、確かに「負け」だった。
でも──
今日という一日は、間違いなく俺の人生最大の“勝ち”だった。
その確信を胸に、俺は再びメインレースの喧騒へ足を踏み出した。
第1部はこれで終わりです、第2部にはいります!




