第5章:同じ瞳の君(後半)
レースが終わり、観客たちは波が引くようにスタンドから姿を消していった。
「いやー惜しかったな!」
「でも一番人気は強いよ、やっぱ」
そんな断片的な声がまだ空気に残っているのに、俺とその女性──キャップを深くかぶった彼女は、その場に取り残されたようにしばらく動けずにいた。
ターフの上には勝利を誇る馬と、悔しさを背負って帰っていく馬たち。
そのなかで俺たちの視線は、静かに引き上げていく8番・アオハルカゼの後ろ姿に釘付けになっていた。
「……また負けちゃったか」
その呟きは、ただの落胆ではなく、どこか優しく寄り添うような響きがあった。
俺はその声で我に返り、意を決したように口を開いた。
「あのっ!」
彼女が驚いたようにこちらに振り向く。キャップの影からのぞく瞳は、さっきパドックでアオハルカゼが見せたものと似ていた。
「さっきは……すみません。つい大声出しちゃって」
「ううん。私もだったし。お互い様よ」
彼女はふっと笑い、その笑顔に緊張がひとつほどけていく。
「もしかして、アオハルカゼの馬券、買ってたんですか?」
「え? ああ……はい。単勝で。まあ、紙屑になりましたが」
くしゃくしゃになった馬券を取り出すと、彼女は目を丸くした。
「単勝? すごいなあ。私でさえ複勝しか買っていないのに……」
「いや、なんていうか……ですね、パドックで目が合っちゃって」
言った瞬間、恥ずかしさで耳が熱くなった。データ重視の俺が言うセリフじゃない。
彼女はくすっと笑って、穏やかに言う。
「わかる、それすっごくわかるよ」
「本当ですか?」
「うん。あの子、普段はやる気ないくせに、たまに『ちゃんと見ててね』って言ってるみたいな目をするの。あれ、ほんと反則なんだよね」
その言葉に、胸の奥が掴まれたような気がした。
──同じだ。俺と同じものを、この人も見てるんだと。
気づけば俺たちは、一気に言葉をぶつけ合っていた。
「最後の脚、すごかったですよね!」
「ね! まるで他の馬が止まって見えるよね」
「あれ、きっとG1でも通用しますよ!」
「そうでしょ! あの子の最後の加速だけは本当に凄いんだから!」
まるで旧友のような熱量で話し込んでしまい、周囲の視線すら気にならない。
話がひと段落した頃、ふと沈黙が落ちる。
そうだ、まだ名前も聞いてなかった。
「あ、すみません。俺……高木健太といいます」
「栞。日高栞」
その名前は、耳に残るほど綺麗だった。
「日高さん。もしよかったら……この後、お茶でもどうですか? まだ時間ありますし、もっと話したいというか……」
言い終えた瞬間、つい言ってしまったと、心臓が跳ね上がった。断られたらどうしよう。
栞さんは視線を落とし、キャップのつばが表情を隠す。
──だめか。
そう思ったその瞬間、
「……じゃあ、一杯だけ」
「え?」
「ビール奢ってください。さっきのレースで喉カラカラなの」
顔を上げた彼女は、穏やかな表情で笑った。
「も、もちろんです! ビールだけじゃなくモツ煮込みも一緒にどうですか!」
「ふふ。じゃあ、お言葉に甘えてもらっちゃおうかな」
並んで歩きながら、栞さんがぽつりと言う。
「アオハルカゼを応援してる人、初めて会ったよ」
「まぁ今日からの新参者ですけどね。私もまさか女性で、あの馬を応援してる人がいるなんて思ってませんでした。何か思い入れがあるんですか?」
そう問うと、彼女の表情が少しだけ陰る。
「……まあ、色々あってね。あの子、私と似てるから」
「似てる?」
「うん。本当ならできるのに、どうにも不器用で、うまくいかないところとか……縛られてばかりで、自由に走れないところとか」
その横顔は少し寂しげで、どこかアオハルカゼに重なって見えた。
俺はそれ以上聞かず、ただ彼女の言葉を胸に刻む。
その後、フードコートの隅でプラスチックカップのビールを掲げた。
「乾杯」
「……乾杯」
カコン、と軽く触れ合う音。
──その音が、俺のくすんだ日々に最初の色を落とした気がした。




