第4章:同じ瞳の君(前半)
自分の席に戻った俺は、まるで初めて競馬場に来た初心者かのように落ち着かなかった。
さっき握りしめた馬券が、ポケットの中で湿っている。
一万円。
俺にとって、決して軽い金額ではない。
平日の残業を何時間かこなして、ようやく稼げる金だ。
「……正気か、俺。未勝利の馬に一万円って」
脳内では冷静な自分が囁く。お前データを見ろよ。これまで10戦して未勝利だぞ?スタートは下手だし、気性も幼い。騎手も駆け出しの若手で、強気に推せる材料はどこにもない。
「うるさいな……でも、あの目が言ってたんだよ」
ボソッと脳内の自分に反論する。
理屈じゃないし、説明もできないんだ。ただ、あのパドックで見た瞳が、俺の胸の奥を強く揺さぶった──その一点だけが真実だった。
やがてターフビジョンに、本馬場へ入場する馬たちの姿が映し出される。軽快なファンファーレが鳴り、観客席にざわめきが走る。
「……いた」
双眼鏡を覗くと、8番。アオハルカゼ。
パドックで見た時と同じ、どこか飄々とした雰囲気。しかし足取りは軽く、返し馬でも小気味よく伸びている。他の馬のような派手さはないが、どこか“芯”のようなものを感じさせた。
「悪くない?……どころか、むしろ良さそうだぞ」
小さな火が胸の奥で灯る。
全馬がゲート裏に集まり、輪乗りを始める。競馬場全体のボルテージが一段階ずつ上がっていく。スタンドを包むざわめきが、熱を帯び、空気を震わせる。
「頼むぞ、アオハルカゼ……無事に走れ。それでいいから」
最初はそう思っていた。
だが、ゲートインが開始され、一頭、また一頭ゲートに吸い込まれていくのを見ているうちに──
「……いや、違う。勝て! 勝ってくれ!」
願いが、祈りに、そして欲望に変わる。俺は立ち上がっていた。周囲の観客も皆同じだ。ゲートに視線を釘付けにし、固唾を飲む。
最後の馬が収まり、場内が静まり返る。
そして。
ガシャンッ!
金属音と共にゲートが一斉に開いた。
18頭が一斉に飛び出し、ターフが揺れる。
「出た! 行けぇぇぇ!!」
俺は叫んでいた。
スタート直後──
そんな、アオハルカゼはというと、
「うわっ、出遅れた!? マジかよ!」
ゲートが開いた瞬間、少し頭を上げてしまい、他の馬より1~2馬身遅れる。最後方からの競馬だ。
「……おいおい、ここでそれは……」
レースでの出遅れというのは致命的だ。人気馬たちはスムーズに先行し、アオハルカゼはというと
ぽつんと最後方。ターフビジョンを見るも…映っていない。
「はぁ……終わったか。俺の一万円……まあ、夢は見れたな」
双眼鏡を下ろしかけた、その時。
「――まだよ!」
すぐ隣から、澄んだのに芯のある声がした。
驚いて見ると、キャップを目深にかぶった女性が立っていた。俺と同じくらいの歳に思える。握りしめた双眼鏡から覗くその瞳は、驚くほど真剣で、コースの“最後方”をじっと見据えていた。
「この子の脚は、ここからなんだから……!」
まるで、長年寄り添ってきた馬を信じるような声だった。
俺は、その横顔に目を奪われた。
真剣な眼差し。ぎゅっと結ばれた唇。
そしてその瞳の光──あれは、アオハルカゼがパドックで見せた、あの光に似ていた。
思わず視線をその双眼鏡の先のターフに戻す。
レースは第3コーナー。
逃げ馬の手応えが怪しくなり、後方の馬が一斉に動き出すタイミング。
「……来い、アオハルカゼ!」
俺が叫んだ瞬間だった。
アオハルカゼが、変わった。
沈み込む独特のフォームから、地面を掴み、跳ねるような動きで、一完歩ごとにどんどんと加速していく。
「うおっ!? なんだそれ!」
観客のざわめきが、一気に驚嘆へ変わる。
大外一気。
アオハルカゼが馬群をごぼう抜きにしていく。
まるで一頭だけ違うレースをしているかのような、異次元の伸び。
最後の直線。
逃げ馬たちが苦しげに粘る中──
大外から、弾丸のような影が飛んできた。
「行けえええええ!! アオハルカゼ!!」
「行ってええええ!!アオハルカゼ!!」
俺の叫びが、隣の彼女の声と重なる。
「そのまま! 風になって!!」
一着は一番人気の馬だった。
だがアオハルカゼは──
掲示板のランプが点灯する。
1着・3番
2着・5番
──そして3着・8番。
アオハルカゼ。
「…………」
単勝馬券は紙切れになった。けれど──
俺の心臓は、まるで暴れ馬のように跳ねていた。
あの位置からの、あの脚。
今日見たどのレースよりも胸が震えた。
「……すげぇ……」
隣の彼女が、双眼鏡を下ろし、悔しそうで、でも誇らしげに微笑んだ。
「惜しかった。本当に、惜しかったわね」
「あ……はい。すごかったです、最後」
「でしょ? あの子、スタートだけは本当に下手なの。でもね、最後の脚だけは……きっとG1馬にも負けないんだから」
まるで自分の子供を語るような口ぶりだった。
「……ずっと、応援してるんですか?」
尋ねると、彼女は目を丸くし、そして悪戯っぽく笑った。
「ええ。まあ、物好きだから」
その笑顔を見た瞬間──
俺はまた心を奪われた。
アオハルカゼが見せた奇跡の末脚と、目の前の彼女の笑顔。それらが俺の中で重なりあい、
灰色だった日常に、鮮やかな光が二つ、差し込んだ気がした。




