第3章:アオハルカゼ
午前中のレースは、可もなく不可もなく終わった。
1レースから4レースまで、小さな当たりと外れを繰り返し、収支はトントン。
昼飯代が浮いた――そんな、ささやかな戦果だ。
「まあ、こんなもんだろうな」
プラスチックカップに残ったビールを一気に飲み干し、空のカップをくしゃりと潰す。
その乾いた音が、どこか自分の胸の奥にも響いた。
「さてと……午後のメインまではまだあるな、少し歩くか」
同じ席に座り続けているのは、どうにも体がなまる。
俺は立ち上がり、ざわめきの中を抜けてパドックへ向かった。
パドック。
出走を控えた馬たちが、ファンにその姿を披露する場所。
本気で馬券を買う者にとって、ここは戦場前の偵察地だ。
すり鉢状の観覧スペースには、すでに多くの人が集まっていた。
新聞を片手に目を細める者、双眼鏡を構える者、仲間と小声で情報を交換する者。
誰もが、真剣そのものの眼差しを向けている。
やがて、厩務員に引かれた馬たちが、一頭、また一頭と姿を現した。
陽光を受けて光る毛並み。しなやかに伸びた脚。
その存在感だけで、空気の密度が変わる。
「お、一番人気はやっぱりいい体してるな。毛ヅヤも完璧だ」
「こっちは……ちょっと入れ込み気味か。発汗も多いな、切りだな」
独り言を呟きながら、一頭一頭を観察する。
歩様、筋肉の張り、目の輝き、呼吸の深さ――そのすべてが馬から俺へのメッセージだ。
それを読み解くことこそ、俺がこの世界に没頭する理由だった。
第5レース。
4歳以上、一勝クラスのダート1600メートル。
いわゆる条件戦――派手さはないが、物語の入口にはいつもこういうレースがある。
出走表をざっと眺めた。人気上位は堅実なメンバー。
「まあ、堅い決着だな」と結論づけ、席に戻ろうとした、その時だった。
――視界の隅に、何かが引っかかった。
少し遅れて周回してくる、一頭の青鹿毛。
黒に近い青みを帯びた毛色が、陽の光を吸い込みながら静かに輝いていた。
他の馬のような迫力はない。どこか華奢で、線が細い。
まるで、まだ大人になりきれない青年のようだった。
「……何番だ? 8番……アオハルカゼ?」
新聞をめくる。
父は名馬だが、母系は地味。戦績は10戦して未勝利、最高が2着一回。
掲示板にもほとんど載らず、単勝オッズは三桁。
完全な人気薄。普通なら、即消しの対象だ。
「……そりゃあ、誰も買わんよな」
だが、その瞬間、何かが引っかかった。
理由なんてない。ただ――目が離せなかった。
他の馬たちが、気合いを高めながら周回を重ねる中、
アオハルカゼはどこか退屈そうに、とぼとぼと歩いていた。
手綱を引かれても、気怠げに首を振る。
「……お前、やる気あるのか?」
思わず口から漏れた言葉に、奇跡のような瞬間が訪れた。
アオハルカゼが、ぴたりと足を止め、ゆっくりとこちらを向いたのだ。
観客席と馬の距離は遠い。
この群衆の中から俺だけを見たはずがない。
――それでも、確かに“目が合った”と思った。
その瞳は、驚くほど澄んでいた。
黒曜石のように深く、穏やかで、それでいてどこか挑むような光を宿している。
その奥に見えたのは、反抗でも諦めでもない。
もっと根源的な、「生きることへの不器用な誇り」だった。
まるで、「お前に俺の何がわかる」と問いかけられているようだった。
その瞬間、世界の音が遠ざかり、時間がゆっくりと流れた。
人のざわめきも、アナウンスも、すべてが霞の向こうに消える。
アオハルカゼが再び歩き出すとき、俺は息をするのを忘れていた。
頼りなげな背中を見送りながら、胸の奥で何かが静かに軋んだ。
「……なんだ、今のは」
理屈じゃない。データでもない。
ただただ、俺の心が掴まれたような気がする。
気づけば、俺は馬券売り場へ向かっていた。
マークシートを掴み、ペンを走らせる。
「単勝、8番……アオハルカゼ」
数字を塗りつぶした瞬間、指先が少し震えた。
金額欄に「10,000」と記入する。
発券ボタンを押す音が、やけに鮮明に響いた。
――理屈ではない。これは賭けじゃない。
あの瞳への、俺なりの返事だ。
馬券を握りしめながら、スタンドへの階段を駆け上がる。
青空が広がる。風が頬を撫でる。
「頼むぞ、アオハルカゼ」
名前を口にした瞬間、胸の奥で何かが熱を帯びた。
少し照れくさい。でも、不思議なほど誇らしい。
スタート時刻が近づく。ゲートの前に並ぶ馬たち。
その中で、8番の青鹿毛が、ひときわ静かに風を受けていた。
――俺の人生というプログラムが、
いま、書き換えられようとしていることを、
この時の俺はまだ知らなかった。
JRAにて2025年度から、3歳秋以降の未勝利馬の中央競馬での続戦ルールが緩和されていますので未勝利馬ですけど東京競馬場にて出走できている描写にできております、




