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アオハルカゼ -君と駆けた、奇跡の末脚-  作者: トンヌラ
第1部:序章 ~運命の足音~
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第2章:週末の聖域

金曜日の終業チャイムは、俺にとって一週間の終わりではなく、

新しい世界の始まりを告げるファンファーレだった。


「……よし、お疲れさまでした、俺」

誰に言うでもなく呟く。

シャットダウンの進行バーが消えるより早く、俺はノートPCを閉じた。

「パタン」という乾いた音が、まるで分厚い本を閉じるように、

この灰色の物語に一度だけ静かな区切りを与えてくれる。


帰り道の足取りは、月曜の朝とはまるで違う。

同じ電車の揺れも、今は週末への助走かのように軽い。

部屋に戻り、スーツを脱ぎ捨て、シャワーで一週間の疲れを流す。

そして、冷蔵庫から取り出した缶ビールのプルタブを引き一気に流し込む。

炭酸の刺激が喉を駆け抜けると、自然に息が漏れた。


「ぷはぁ……これだよ、これ」


体の中にこびりついていた平日に蓄積された(よどみ)が、泡と一緒に溶け流れていく。


その夜、眠る前に俺は終末にやるいつもの儀式を行う。

本棚の奥から分厚いファイルを取り出すと、

そこには何年分もの競馬新聞の切り抜きが整然と並んでいる。

俺だけのデータベースであり、かの英雄たちの叙事詩だ。


インクと古紙の混ざった香りを吸い込みながら、

ネットの競馬情報より明日のレース表をみつつ、英雄たちの叙事詩とも見比べる。


「さてと……明日のメインは。なるほど、一番人気はこいつか。

でも休み明けで鞍上も乗り替わり。ちょっと怪しいな……」


血統、戦績、脚質、その他諸々の情報・・・。

数字とカタカナの羅列にしか見えない情報の海が、

俺には希望のコードのように見えた。


「こっちは……前走の負け方が悪くない。内で詰まってなけりゃ突き抜けてた。穴で面白いぞ」


マウスカーソルをクリックするたびに、無数の物語が静かに息を吹き返す。

クライアントの無茶をコードに変える仕事とは違う。

これは、純粋な知的興奮に満ちた暗号解読の時間だった。


そして、土曜の朝。


平日のアラームが鳴るよりも早く、自然に目が覚めた。

窓の外はまだ薄暗い。だが、心は快晴だった。


「よし、行くか」


Tシャツにジーンズ、斜めがけのバッグひとつ。

玄関のドアを開けると、ひんやりとした空気が肺を満たした。


向かう先は――府中、東京競馬場。


電車の空気は平日とはまるで違う。

スーツ姿は少なく、新聞を広げる老人、

スマホで調教の映像を見ている青年、

笑い声を交わすカップル。

見知らぬ誰もが、同じ方向を向いている。

多摩川を渡り、緑の木々が窓を流れた瞬間、

俺の心臓は高鳴りを早めた。


改札を抜けると、そこはもう「日常」ではない。


「はぁ……来たな、この空気」


レース予想の声、馬の名が飛び交う会話と非常に楽しげである。

朝からすでにビール片手にする人もいたりと、

人の波が専用通路を埋め尽くし、誰もが少し興奮気味に急ぎ足だった。

このざわめきが、俺の鼓動をさらに速める。


入場ゲートを抜けると、巨大なスタンドが視界いっぱいに広がる。


「……でっけえなぁ、何度見ても」


空が広い。


西新宿のビルに切り取られた四角い空とは違う、

どこまでも青く、白い雲が悠々と流れていく。

その下には、眩しいほどに整えられた緑の絨毯――ターフ。

白いラチの向こう、風が光をまとって揺れていた。


世界は、こんなにも鮮やかだったのか。


俺はいつもの売店で競馬新聞と赤ペンを買い、

モツ煮込みとビールを手に、お気に入りのスタンド席へ向かう。


「っと……今日も大丈夫だった取れたな、俺の特等席」


全体を見渡せる高台。俺だけの城の天守閣だ。


モツ煮をひと口、ビールを流し込む。


「……やっぱうめぇ。五臓六腑に染み渡る」


風が頬を撫でる。

人のざわめきが、どこか優しいBGMに聞こえた。

オフィスの電話の音も、キーボードの打鍵も、ここにはない。


ここには、理不尽な仕様変更も、責任の押し付け合いもない。

ただ、絶対的なルールがあるだけだ。


ゲートが開き、ゴールを最初に駆け抜けた馬が勝者となる。

血統、騎手、展開、運――

すべてが交わり、一つの真実が生まれる。


その純粋さが、たまらなく心地よい。


会社では、誰かの評価を気にして息を殺す。

だが、ここでは違う。


俺は自分の知識と直感を信じ、馬券を買うのだ。

腹の底から声を張り上げ、勝てば子どものように笑い、負ければ本気で悔しがる。

そんな感情のすべてを、この場所は受け入れてくれる。


「逃げてるのかもしれない。……でも、いいんだよ、それで」


逃げ場があるから、また灰色の日常に戻れる。

ここは、傷を癒し、エネルギーを充電する俺だけの聖域だ。


俺は赤ペンを握り、第一レースの出走表に目を落とした。


「さあ、始めようか。俺の、本当の一週間を」


まだ見ぬ英雄と奇跡を探す、最高の週末を――。


そしてこの日、俺はまだ知らなかった。

この聖域で出会う一頭の馬が、

俺の人生というプログラムを書き換える“運命の風”になることを。

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