最終章:旅立ちのゲート
毎日王冠での奇跡的な勝利から、数日が過ぎた。
あの日の出来事は、まだ夢の中の出来事のようで、俺は時折、自分の頬をつねりたくなる。
新聞のスポーツ欄の一面には、大胆な見出しが躍っていた。
『無印の風、府中に奇跡! アオハルカゼ、G1馬を撫で斬り!』
派手な文字が、鮮やかなインクで紙面を支配している。
(……本当に、勝っちまったんだな)
会社のデスクで、俺はその記事の切り抜きを、そっと手帳に挟んだ。
ページの端を触るたび、あの熱狂の一瞬が蘇る。
栞さんの頬にこぼれた美しい涙、アオハルカゼの真っ直ぐな瞳、そして俺たちの握った手の温もり。
あの日以来、栞さんとは、まだ会っていなかった。
お互いに燃え尽き、出し切ってしまったかのようになってしまい、短いメッセージを交わすだけの日々が続く。
その週末、栞さんから連絡が入り、俺は彼女と初めて出会った東京競馬場のパドック前に立っていた。
休日の競馬場は、驚くほど静かだった。
馬の蹄音も、観客の声もない。空気は澄み渡り、秋の光が芝生を柔らかく照らしている。
「……高木さん」
背後から声がした。振り返ると、そこには栞さんが立っていた。
白いワンピースではなく、落ち着いた紺のスーツ。髪は丁寧にまとめられ、表情には以前よりも深い自信が宿っていた。
「こんにちは、日高さん。……なんだか、別人みたいですね」
「ふふ、そう? あなたもよ。いつもの週末の顔とは違う」
どちらからともなく笑い合う。空気に、軽やかな安堵の色が混ざる。
許可をとってくれていたのだろう
二人で、誰もいないパドックの周回コースをゆっくり歩き始める。足音が芝生に柔らかく吸い込まれ、遠くの柵にぶつかる風の音だけが静かに響く。
「……あの後、お父さんとは?」
俺が訊ねると、彼女は静かに頷いた。
「うん、話したよ。……『好きにしろ』だってさ。そんな言葉だけどね、生まれて初めて、あの人に認めてもらえた気がする」
「……そうですか。よかった」
(……本当に、よかった)
長く抱えてきた戦いが終わったように、彼女の肩から力が抜けたのを、俺は感じた。
「それでね、私、決めたんだ」
立ち止まり、俺の目をまっすぐに見つめる。
「会社、継ぐことにしたの」
「え……!」
驚きに、言葉を失った。
「てっきり、競馬の世界で生きていくのかと……」
「うん、私も、そう思ってた。でも、違ったの」
彼女は、優しい目でパドックの中心を見つめながら言った。
「逃げてるだけじゃ、本当に自由にはなれないんだって。自分の運命と向き合って、その上で、自分のやりたいことをやる。それが、本当の強さなんだって。……だから、私は、私の戦う場所で、あの子に負けないくらい、必死に走ってみようと思うの」
その言葉は、力強く、一点の曇りもなかった。
(……あなたは、もう、大丈夫なんだですね)
少し寂しいような、でもそれ以上に誇らしい気持ちで、俺は彼女を見つめていた。
「……アオハルカゼは、どうなるんですか?」
「もちろん、これからも走るわ。まずは、目標だった天皇賞。そして、その先も。……でも、私は、もう、毎日、彼に付きっきりではいられなくなる。馬主として、社長として、やるべきことが、たくさんあるから」
「……そっか。……じゃあ、俺たちのチームも、解散ですね」
俺は、わざと明るく言った。
「……うん。解散、だね」
彼女の声が、少しだけ震える。
沈黙が落ちる。秋の風が、芝生の上を撫でるように吹き抜けていく。
「……高木さんは、これから、どうするの?」
「俺ですか? 俺は……相変わらず、会社でコードを打っていますよ。週末は競馬場に来て、多分、また一人でぶつぶつ言いながら馬券を買うんです」
「……そっか」
「でも」と俺は続けた。
「……多分、前とは少しだけ違うと思います」
(そう、違うんだ)
今は、日常から逃げるためにここに来るのではない。
日常と戦うために、ここに立つ。
アオハルカゼと、そして彼女が教えてくれたこと。
人生というレースから、逃げちゃいけないんだって。
「……俺、今の仕事、もう少し本気でやってみようと思うんです。いつか、自分の作ったシステムで、世の中を、ちょっとだけ面白くしてみたい。……なんて、でかい夢ですけど」
「……ふふ。素敵じゃない。あなたなら、きっとできるよ」
彼女は、心からの笑顔でそう言った。
そして、彼女はそっと手を差し出す。
「……じゃあ、行こうか。それぞれの、ゲートへ」
その言葉に、俺は全てを察した。
俺は、黙って、その手を握り返した。
握手。
長くて短い、俺たちの物語を締めくくるのにふさわしい別れ方だった。
「……元気で」
「……日高さんも」
俺たちは、それ以上、何も言わなかった。
振り返らず、それぞれの道へと歩き出す。
さよならは言わない。
だって、俺たちの物語は、まだ終わったわけじゃないのだから。
これで終わりです、お付き合いいただきありがとうございました。ちょっとだけエピローグ書ければと思います。2話ほど予定




