第18章:府中、奇跡の1800メートル
ガシャンッ!!
世界が、その音と共に、一瞬で動き出した。
白いゲートが開き、18頭の馬体が、まるで一つの巨大な生き物のように、緑のターフへと殺到する。芝が弾ける音、蹄が踏みしめる振動が、地面を伝わり、観客席まで震えを届ける。
地鳴りのような歓声が、空気を震わせ、耳の奥で振動する。
「出たぁぁぁ!!」
俺は声を張り上げ、全身の血が熱くなるのを感じた。
視線は一点、黒鹿毛の8番、アオハルカゼの馬体に釘付けになった。走り出す瞬間、その瞳に込められた意志と気迫が、肉眼でも伝わってくる。
(頼む! スタート! スタートだけは!!)
心臓が喉から飛び出しそうだ。手のひらは汗で滑りそうになりながらも、栞さんの手を握りしめていた。
アオハルカゼは……出た!
出遅れていない!いや、むしろ、今までで一番鮮やかなスタートだ。
力強く、しかし無駄のない蹴りで芝を蹴り、馬群の中にうまく入り込む。俺たちがデータで導き出した、理想のポジションにぴたりと収まった。
「やった……! やったぞ! スタートを決めた!」
「うん、うん……」
隣で、栞さんが涙声で頷く。小さな肩が震えているのがわかる。俺は、握りしめた手にさらに力を込めた。
(……第一関門、クリアだ。でも、まだだ。まだ、始まったばかりだ!)
レースは、俺の予想通り、ハイペースで進む。先頭を争うG1馬たちは、お互いのプライドをかけ、互いに肩をぶつけ、蹄を蹴り上げる。芝を蹴り上げ、泥と草の匂いが舞う。
アオハルカゼは、その激流に飲み込まれることなく、中団の内側で、じっと息を潜める。騎手は手綱をほとんど動かさず、馬のリズムに全てを任せている。
「……いいぞ。いいぞ、アオハルカゼ。落ち着いてる……」
片手で覗く双眼鏡越しに馬体を追う。肩の筋肉が波打ち、蹄が芝を滑らかに蹴る。無駄な力を使わずに走るその姿は、まるで爆発の瞬間を待つ弾丸かのようだった。
1000メートル通過。時計は58秒台前半。容赦ないペースが、馬たちのスタミナを削る。
第3コーナー……か
カーブに差し掛かると、レースは大きく動き始めた。後方にいた馬たちが外から一斉に進出する。馬群がぎゅっと凝縮され、前後左右の馬が触れ合う。
「……来た! ここからだ!」
勝負どころ。アオハルカゼは、まだ動かない。内側に完全に包まれ、前も横も壁。わずかに見える隙間は、一瞬で消えそうだ。
「……前が、前が開かない……!」
栞さんの声が、悲鳴に近くなる。俺の背筋に冷たい汗が流れた。
(……まずい。このままじゃ、抜け出せない!)
どれだけ優れた脚を持っていても、使う場所がなければ意味がない。このまま馬群に沈んだら、夢はそこで終わる。俺たちの長い想いも、全てが消える。
(……いや!)
俺は首を強く振った。
(……信じろ! あいつと、騎手を!)
そして迎えた最終直線
府中名物の、長く、過酷な直線。先行していた馬たちが次々と脚を上げ、疲労の色を見せる。
外から、人気のG1馬たちが待ってましたとばかりに襲いかかる。
ターフビジョンに映る先頭集団。アオハルカゼの姿は見えない。
「どこだ!? アオハルカゼはどこだ!?」
双眼鏡越しに必死に8番の勝負服を探す。馬群のど真ん中、まだ前に数頭の壁がある。
万事休すか。
その時、騎手がわずかに外に馬体を寄せる。奇跡のように、前にいた馬と外の馬の間に、一頭分の隙間が生まれた。
「……そこだぁぁぁぁ!!」
アオハルカゼは、溜めていた全ての力を解放する。蹄が芝を蹴る音、風を切る音、観客の声が一体化し、俺の絶叫がさらに増幅される。
一頭、交わす。
そして、もう一頭を交わす。馬群を抜けた先には、現役最強と言われる二頭のG1馬が待ち構えていた。
残り200メートル。三頭が完全に横一線。アオハルカゼは、もはや「走る」のではなく「翔ける」。芝の上を、風と一体になっって突き進む。
「差せ! 差せ! 差せぇぇぇぇぇぇ!!」
「差して! 差して! お願い行ってぇぇぇぇぇぇ!!」
ゴール板が迫る。お互いの魂の全てを叫びに乗せる。
そしてゴール
ゴールを駆け抜けた瞬間、俺たちの世界から音が消えた。
三頭の馬体がほとんど同時に通過したようにも見える。
誰が勝ったのか、わからない。場内は騒然としている。
「どっちだ!?」「写真か!?」「すごいレースだ!」
氷のように冷たい栞さんの手を握りしめる。ターフビジョンに「写真判定」の赤い文字が灯る。
長い、長い、濃密な時間。まるで、俺たちの全ての日々を凝縮したようだった。
祈る。神など信じたことはない。でも、今だけは、どんな神でもよい、叶えてくれるのなら
どんな神にでも祈りを捧げたい。
そんな永遠とも感じる時間が過ぎて、電光掲示板のランプが灯った。
『8』
声が出ない。幻覚かと思い、何度も目をこする。何度見ても、そこに灯る数字は、『8』だった。
次の瞬間、競馬場が爆発した。
信じられない歓声、勝者を称える叫び。栞さんの瞳から、涙が止めどなく溢れた。
「……勝った……」
「……勝ったんだ……あの子が……あの子が」
俺も涙で視界が滲む。震える声で、ようやく呟く。
「……やりましたね」
「……うん。やった、やったね……!」
彼女は俺の胸に顔を埋め、子供のように泣く。俺は、肩を抱きしめ、全身で彼女の感情を受け止めた。
血統も、常識も、運命も。全てを覆した。
一頭の誰にも期待されなかった馬と、
その馬を信じ続けた一人の女性と、その夢に魅せられた一人の男が。
起こした奇跡。長く熱い一日が、最高の形で幕を閉じた。
未来へのファンファーレが、高らかに、競馬場全体に鳴り響いていた。




