第17章:毎日王冠、その日
決戦の日の朝は、秋晴れの素晴らしい快晴だった。空気は澄み渡り、秋風で少しだけ冷たく感じられるが、それでも日差しは柔らかく降り注ぎ、世界を静かに染めていた。
俺はほとんど一睡もできないまま、ベッドから這い出した。
体は重く、肩や背中の筋肉までこわばっているように感じられた。
鏡に映る自分の顔を見ると、寝不足と緊張でひどくやつれていた。
目の下にはくっきりとしたクマが浮かび、肌も青白い。
(……ダメだ、こんな顔じゃ、戦場に立つ資格がないな)
俺は、冷たい水で顔を洗い、無理やりに自分に気合を入れた。水が頬を伝って落ちる感覚が、少しだけ頭を冴えさせる。
手を握りしめ、深く息を吸い込むと、胸の奥で、静かにだが確かな覚悟が湧き上がった。
クローゼットから一番気に入っている、少しだけフォーマルなジャケットを取り出して羽織る。
布の感触が、普段の自分とは違う、少し背筋の伸びる感覚を与えた。
今日の俺は、ただのファンではない。
チーム・アオハルカゼの一員として、戦場に立つ戦士なのだ。
そう思うと、自然に肩の力が入り、心が引き締まった。
東京競馬場に到着すると、そこは朝から異様な熱気に包まれていた。
G2レースの開催日であり、観客はすでに数万人規模。
芝の匂い、馬の蹄の音、歓声やざわめきが入り混じり、スタンド全体を緊張の渦が支配している。
空気は肌に突き刺さるようで、神経の隅々まで、戦場の気配が染み込んでくる。
「……来たな。決戦の場所に」
俺は、大きく息を吸い込み、胸を張った。
視界の隅に見えるパドックやスタンド、馬の姿や観客のざわめき、全てがいつもより鮮明で、息を飲むほど生々しい。俺の鼓動は早く、耳鳴りがするほどだった。
約束の場所に立つと、人混みの中から栞さんが現れた。
白いワンピースにジャケットを羽織り、髪は朝日に照らされて美しく輝く。
普段のキャップはなく、整えられた髪が優雅に風になびいている。
その姿は、ただ美しいだけでなく覚悟に満ちていた、安易に近寄ることさえためらわれるほどの存在感。
「……おはよう、高木さん」
「おはようございます、日高さん。……よく眠れましたか?」
「ううん、全然。一時間くらいかな」
「ははっ……俺もです」
俺たちは、苦笑しながら互いの目を見た。その瞬間、緊張で硬くなった肩が、少しだけほぐれるのを感じる。
「……パドック、行く?」
「いえ。今日は、やめておきます」
俺は首を横に振った。
「今日は、もうデータは見ない。ただ、信じるだけです。あいつと、騎手と、調教師と……そして、日高さんのことを」
その言葉に、彼女は少し驚いたように目を見開き、そしてふわりと微笑んだ。
「……そっか。そうだね。私も、そうする」
俺たちは、ゴール前のいつもの場所へ向かう。周囲のファンたちは、最後の予想に熱中している。専門誌を片手に、あちこちで声が飛ぶ。
「やっぱり、一番人気は堅いよな」
「いや、俺はこっちの穴馬から行くね」
そんな会話があちこちから聞こえてくる。その中に、アオハルカゼの名前を口にする者は誰もいない。
(……それでいい。お前たちの度肝を抜いてやれ)
俺はポケットから、一枚の馬券を取り出した。アオハルカゼの単勝馬券。記された金額は、今月の給料のほぼ全額だった。
(……馬鹿だよな、俺も。あなたに、完全に影響されちゃったなぁ)
隣を見ると、栞さんも同じように一枚の馬券を握りしめていた。その額は、おそらく俺の何倍も大きいだろう。しかし、その重さの本質は、金額ではなく「信じる想い」の深さにあった。
やがて、ターフビジョンにパドックを周回するアオハルカゼの姿が映し出された。
彼は、今までとはまるで別の馬のように見えた。無駄な肉は削ぎ落とされ、鋼のように研ぎ澄まされた体。瞳も退屈そうではなく、静かに、確かに燃える闘志の炎を宿していた。
「……すごい。すごい気合だ……」
「……うん。あの子、わかってるんだよ。今日が、どういう日なのか」
栞さんの声が震えている。俺は何も言わず、ただ彼女の隣に立つ。それだけで十分だった。
本馬場入場のファンファーレが鳴り響き、地鳴りのような歓声が競馬場を揺るがす。決戦の舞台へ姿を現す強豪たち。その中に、アオハルカゼもいた。他の馬と比べると線は細く見えるが、存在感は負けていない。
返し馬。騎手が軽く促すと、アオハルカゼは弾けるようなフットワークで芝の上を舞う。俺は思わず息をのむ。
(……いける。これなら、いけるぞ!)
全馬がゲート裏に集まり、輪乗りを始める。
パドックから戻ったスタッフたちが、最後のチェックを行う。蹄鉄の装着、手綱の最終調整、ジョッキーの合図。全てが無駄のない動きで、緊張と集中が渦巻く。
ゲート裏のスタッフが、無線で何度も確認を取り合う。風がスタンドを通り抜け、芝生の匂いが鼻腔をくすぐる。遠くで鐘のような音が鳴り、決戦の時が迫っていることを告げる。
時間が異様にゆっくりと流れる。周囲の歓声が遠くなる中、聞こえるのは自分の鼓動と、隣で息を呑む栞さんの気配だけ。
「……高木さん」
「はい」
「……ありがとう」
「え……?」
「あなたがいてくれて、よかった。……一人だったら、私、きっとここにはいられなかったから」
その言葉に胸が熱くなる。
「……俺の方こそ、ありがとう。あなたに出会えて、俺の人生は、変わりました」
ゲートインが始まる。一頭、また一頭と白いゲートに吸い込まれる。アオハルカゼの番が来た。少しだけ入るのをためらう素振り。
(……大丈夫だ。落ち着け……)
俺は祈るように拳を握りしめた。騎手が優しく首を撫で、促す。
アオハルカゼはすっとゲートに収まった。
俺は、栞さんの手を握りしめた。手の温もりを通して、彼女の鼓動が伝わってくる。俺も心臓の音が、自分の耳を割るかのように響いた。二人の視線は、ゲートに収まったアオハルカゼに向けられる。
「……緊張するね」
栞さんの声は、かすれた囁きのようだった。
「……うん。でも、大丈夫だ。あいつなら、やれる」
俺は拳を握り、空に向かって静かに誓った。目の前にいるのは、ただの競走馬じゃない。夢の象徴であり、これまでの努力と信じる心の結晶だ。
そして最後の馬が入りゲートが閉まった。
最後の馬が入った瞬間、場内にすーっと静寂が訪れた。
まるで時間が止まったかのようだ。
歓声はなく、ただ数万人の呼吸だけが、息を潜める空気の中で重く響く。
俺たちの周囲も、同じだった。ファンは息を潜め、声を出さず、目を凝らす。
「……高木さん、信じてる」
栞さんが小さな声で言った。俺は頷くしかなかった。信じる以外に、できることはないのだから。
俺は栞さんの手をもう一度握り、深く息を吸い込む。鼓動が胸を揺さぶり、全身に血が駆け巡る。今日、この瞬間に全てがかかっているのだ。希望も不安も、恐怖も勇気も、すべて一つに混ざり合い、緑のターフに解き放たれようとしていた。
やがて、静寂を破るように、ゲートが少しだけ震え、競馬場全体が、決戦の直前の空気で満たされる。俺たちの心臓も、まるでゲートの振動と共に跳ねているかのようだった。
そして、運命のゲートが開く――。
第4部はこれで終わりです、最終部は2話で終了予定です!




