第16章:決戦前夜
毎日王冠の前日、土曜日の夜。
俺は自室で、パソコンの画面とにらめっこしていた。
(……よし。枠順は真ん中より少し外。周りの様子を見ながらスタートできる。悪くない)
アオハルカゼの単勝オッズは、18頭立ての11番人気。G1馬多数出走のレースの中だし、妥当な評価だろう。いや、むしろ少しは評価されている、と言えるかもしれない。
(……でも、世間の評価なんてどうでもいい。俺たちが、あいつを信じている。それで十分だ)
俺は、栞さんにメッセージを送る。
『いよいよ、明日ですね』
すぐに既読がつく。
『うん。なんだか緊張してきちゃった』
『俺もです。今夜は緊張から眠れないかも』
『ふふ、同じだね』
画面越しの文字に、二人の緊張と祈りが詰まっているのを感じる。
『……高木さん』
しばらくして、彼女から追い打ちのメッセージが来た。
『明日、もし……ダメだったとしても、後悔だけはしたくないな』
(……大丈夫。あいつなら、きっとやれる、そう信じないとな)
『……ああ。俺は信じてる』
ここまでの数週間、俺たちは全ての時間をこのレースのために捧げた。やれることは全てやった。
『明日は全力で応援します。仲間として』
『……ありがとう。心強いよ』
窓の外の夜空は、静かだった。
「……頼むぞ、アオハルカゼ」
俺は声にならない祈りを呟く。
一方、栞は都内の重厚な日本家屋の前に立っていた。
実家。ずっと逃げてきた場所。
(……来ちゃった。来なければよかったのに)
指が震えながらも、インターフォンを押す。
明日のレースは、ただの競馬ではない。過去との決別を賭けた戦いでもある。
「……おかえりなさいませ、栞お嬢様」
老齢の家政婦が優しく招き入れてくれる。
書斎には、栞が最も会いたくない人物が座っていた。
父、日高剛三。
「……何の用だ。今更、泣きついてきたのか?」
冷たい声。視線は手元の書類に。
「……別に。ただ、一つ報告に来ただけ」
震える声を抑え、栞は言う。
「明日、アオハルカゼが毎日王冠に出ます」
「……ふん。前も言ったが無謀なことを」
「無謀かどうかは、明日、わかるわ」
栞の声に、今までの恐怖と覚悟が混じる。
剛三がようやく顔を上げ、鋭い目で娘を射抜く。
「無謀だと言うのは……お前に、似ているからだ」
刃物のように胸を抉る言葉。
(……そう。お父様は、ずっとそうだった。完璧を求め、弱さを許さなかった)
「……違う」
栞は小さく震えながらも、顔を上げる。
「あの子は弱くない。私も弱くない」
「ふん。なら証明してみせろ、まぁ無駄だとは思うがな」
栞は前に一歩踏み出し、ハンドバッグから委任状を取り出す。
机の上に置く音が、小さいながらも書斎に響いた。
「……これは?」
「私が所有する日高フーズの株の委任状です。明日アオハルカゼが負けたら、私は競馬を完全に辞め、この株も会社の権利も返します。あなたの道に従います」
剛三の目が初めて驚きで見開かれる。
「……面白い。そこまで言うのなら、よかろう。お前のその賭けに乗ってやる」
だが、その声には最後通牒の響きがあった。
「明日、お前は、世界の現実を、骨の髄まで知ることになるだろう」
栞は背を向け、書斎を後にした。
膝から力が抜けくずれかけるのを壁に手をつき防ぎ、そして荒い息を繰り返す。
(……言った。言ってやったんだ)
怖い。逃げてしまいたい。でも、心の奥には静かな高揚が満ちていた。
失うものはない。信じる馬と仲間だけがいる。
夜空を見上げ、彼女はスマホを取り出す。
『高木さん。明日、勝とうね』
決戦前夜の、静かで力強い誓いだった。




