第15章:宣戦布告
あの日から、俺たちの関係は以前とは全く違うものになった。
いや、正確に言えば、ようやく本来あるべき形に戻った──そんな感覚であった。
毎日のように連絡を取り合い、来るべき決戦――毎日王冠に向けて、情報を交換し合う日々。
(……やばい、寝不足だ)
月曜の朝、目の下にクマを作りながら、満員電車に揺られる。
当然だ。昨夜も栞さんとのビデオ通話で、深夜までデータを分析していたのだから。
会社のPCでは私的な作業はできない。
俺はなけなしのボーナスでハイスペックなノートパソコンを購入し、自宅にささやかな「司令室」を構築した。
『高木さん、見て。このレースの時、アオハルカゼって、少し右にモタれる癖があるのよね』
画面の向こうで、栞さんが過去のレース映像を指差す。
『ほんとだ……。直線で追い出す時、ほんの数センチですがロスしてますね。これがなければ、もっと際どい勝負になっていたかも』
『でしょ? この癖、どうにかならないかな』
『三田村調教師は何か言ってましたか?』
『馬具を工夫したり調教でも色々試してくれてるけど……あの子、頭がいいから、すぐにごまかしだって気づいちゃうのよね』
(……すごいな、この人)
画面越しの栞さんを見て、改めて感心する。
ただのファンだった頃には見えなかった、彼女の「馬主」としての顔。
馬の癖や体調変化を見抜く観察眼、調教師や騎手との専門的なやり取り……それは、付け焼き刃で身につくものではない。
彼女がどれほど真剣にアオハルカゼと向き合ってきたかを、思い知らされる。
(俺も、負けてられないな)
俺は、自分の役割に没頭した。
毎日王冠開催の東京競馬場芝1800メートル。
過去の全レースデータを洗い直し、枠順ごとの有利不利、脚質、馬場状態、騎手との相性……あらゆる「変数」を組み合わせて分析した。
これは仕事のシステム開発の延長ではない。
クライアントの無理難題を形にする作業じゃない。
俺たちが信じる夢を現実に変えるための、神聖なる作業だった。
寝不足も苦にならない。心地よい疲労感と充実感に包まれていた。
そして、決戦の一週間前。
俺は栞さんと共に、茨城県にある美浦のトレーニングセンター――通称「トレセン」へ足を運んだ。
「うわ……広い……ここが、あの馬たちが毎日トレーニングしてる場所か……」
「ふふ、すごいでしょ。ちょっとした街みたいなものよ」
関係者以外は立ち入り禁止。俺にとってここは、まさに競馬場を超える聖域だった。
三田村調教師の案内で、アオハルカゼがいる厩舎へ向かう。
「よう、来たな、あんちゃん」
「こ、こんにちは! お邪魔します!」
三田村調教師は、俺を見てニヤリと笑った。
その顔は、「話はお嬢さんから聞いてるぜ」と語るかのようだった。
馬房の中のアオハルカゼは、俺たちに気づくと静かに頭を上げた。
レース時とは違う、穏やかな表情だ。
栞さんが優しく鼻筋を撫でると、アオハルカゼは甘えるように頭を擦り寄せた。
(……なんだか、もやっとする、これって嫉妬みたいだな……)
三田村調教師は、俺に向かって言った。
「こいつの体調は万全だ。あとはお前たちのデータとやらを、どこまで信じるか、だな」
俺はその場でノートパソコンを開き、画面を三田村調教師と栞さんに向ける。
一息つき呼吸を整え、指先に全神経を集中させた。
「……まず結論から言います。アオハルカゼが勝つ可能性があるのは、たった一つのパターンにはいったときでしかありません」
「ほう……あんちゃん、どんな作戦だ?」
三田村調教師は腕を組み、目を細める。
「まず、この馬の強みは直線での末脚です。瞬発力はかなりのものですが、毎日王冠は前残り傾向が強い。後方一辺倒では、届きません」
「……だから、位置取りが重要だってことだよね?」
栞さんが、少し息を詰めながら頷く。
「はい。理想は中団でいること、できれば前から7、8番手がベストです。ここで脚を溜めつつ、最後の直線で爆発させる。位置取りを誤れば、どんなに末脚があっても勝てません」
「だが……その作戦の為にもゲートが苦手だ。あの致命的な出遅れ癖がある」
三田村調教師の声に、空気が少し張りつめる。
「そこです。今回の勝負は全て、ゲートにかかっています」
俺は画面に、過去のゲートデータを映し出す。
「この騎手の過去の全レース、ゲートの反応タイムを示しています。彼は馬群の中で一瞬待ってから出すのが得意です。そしてこれが、アオハルカゼのゲートの反応データです。音に敏感で、立ち上がってしまうことがある」
「つまり……」栞さんが息を詰める。
「コンマ数秒前に馬を軽く動かして、音への集中を別に逸らす。スタートのタイミングをこちらで微調整するんです。データ上、この方法が一番勝機を高めます」
三田村調教師は、俺の顔をじっと見つめた。
沈黙が長く続き、三人の呼吸音だけが静かに聞こえる。
「……面白い。あんちゃんの競馬は、初めて聞いたぞ」
やっと彼は口を開いた。だが声には緊張感が残る。
「……やる価値はあるかもしれねえな」
三田村調教師の視線はアオハルカゼに移る。
「お嬢さん、どうする? この作戦、こいつに試してみるか?任せるぞ」
栞さんはじっとアオハルカゼの瞳を見つめた。
静かな時間の中、心臓の音が自分の耳に響くようだ。
やがて、彼女は、鋼のような決意を込めて振り返り言った。
「……やりましょう、高木さんのデータと、アオハルカゼの力を信じます。これが私たちの、宣戦布告です」
俺たち三人は、わずかな間、馬を見つめた。
運命のゲートが開くまで、あと七日。
世界が、静かに、そして確実に、動き始めた瞬間だった。




