第14章:もう一度、その場所へ
送信ボタンを押したあと、スマホの画面が暗転するまでの数秒が、何時間にも感じられた。
(……返信、来るか? いや、来ないだろ。俺は、あんなひどい態度を──)
胸の奥がじわじわと締めつけられ、後悔と不安が胃のあたりをぐるぐると掻き回す。
そうして居酒屋を出てからもずっと、目的もなく駅前の雑踏の中に何するでもなく立ち尽くしていた。
そのとき──。
ポケットの中にあるスマホが、短く震えた。
心臓が跳ね上がり、喉に詰まる。すぐさまポケットよりスマホを取り出して
震える指で画面をタップすると、そこにはたった一行。
『……どうしたの、急に?』
拒絶ではない。
しかし、そこに滲む戸惑いと警戒は、痛いほどはっきり伝わってくる。
(……何て返せばいい。『謝りたい』? ちがう。そんな安い言葉で、許されるはずがない)
三田村調教師の言葉がよみがえる。
――どっちを向いて走ろうとしてるか。
俺は深く息を吸い、覚悟を画面に打ち込んだ。
『アオハルカゼのことで、話したいことがあります。俺は、日高さんの“仲間”として話がしたい』
送信ボタンを押す。
もう迷いはなかった。
「馬主様」でも「ご令嬢」でもない。初めて会ったときの「日高さん」へ向けて。
そしてしばらくして、返事が届く。
『……わかった。今、家にいる』
マンション名が添えられていた。
気づけば、俺は走り出していた。
タクシーを捕まえ、夜景の流れる車窓をぼんやり眺めながら、頭の中では言葉ばかりが渦巻いていた。
(うまく話せるだろうか。伝わるのか……?)
不安で胸が破裂しそうだったが、もう逃げる気持ちはどこにもなかった。
マンション前に到着し、エントランスでインターフォンを押すと「どうぞ」と無機質な声。
ガラス扉をくぐり、エレベーターへ。
廊下の突き当たり、一番大きな部屋の前につく。
深呼吸をする、そうしないと震えてしょうがない。
落ち着かないまま震えた指で呼び鈴を押すと──すぐにドアが開いた。
そこに立っていたのは、少しやつれ、疲労のにじむ表情の栞さんだった。
ラフな部屋着姿なのに、どこか凜として見えた。
「……急に、すみません」
「ううん。……入って」
案内された部屋は広く、家具も上質なのに、不思議と生活の気配が薄かった。
まるで、彼女の「心の空洞」を映すような静けさが満ちていた。
リビングのソファに並んで座る。微妙に空いた距離が、やけに遠い。
重い沈黙を破ったのは、俺だった。
「……この間は、本当に、すみませんでした。ひどい態度をとって、あなたを傷つけて……最低な行動でした」
深く深く、頭を下げる。
「……顔、あげてよ」
かすれた声に顔を上げると、栞さんは悲しさと戸惑いと、それでもどこか優しさを含んだ瞳で俺を見ていた。
「あの時も言ったけど……知ってしまったからなんでしょ? 私が誰なのかを」
息が止まった。
彼女は、やっぱり気づいていたのだ、俺の態度の変わった理由を。
「……はい。ネットで見て……偶然、知りました。あの相談の時に、知っているていで話してくれましたがやっぱり……」
「そっか。そうだよね、ごめんね。あなたならそれでもって思っちゃったんだよね……」
力なく笑いながら、ぽつりと問う。
「ねぇ……知った時はがっかりした? 私が、ただの競馬好きじゃなくて、馬主で、あんな親の娘だって知っ……」
「違う!」
思わず言葉をさえぎっていっていた。
「違うんです! がっかりなんてしてない。……ただ、ただ俺が怖くなったんです」
「怖い?」
「……はい。あなたと俺では、住む世界が違うんだって。俺なんかが関わっていい話じゃないって。
責任が負えない、そう思ったら言葉がどんどんと出なくなって……」
情けない。
全部、自分の弱さのせいだ。
「……俺は、自分のことばかり考えてました。あなたのことを想ってるつもりで、結局、逃げてただけだ。本当に、すみません」
しばし沈黙。
栞さんが小さく息を吐く。
「……謝らないでよ」
「え……」
「謝るのは、私だよ。ずっと黙ってて……ごめんなさい」
顔を上げると、彼女は涙をこらえるように、それでも微笑んでいた。
「言えなかったの。高木さんにだけは……。あなたが、あなたが私にとって初めてだったから」
「初めて?」
「そうなの。私を“日高フーズの娘”じゃなく、“ただの競馬好きの1人の女”として、対等に見てくれた初めての人。だからこそ……怖かったのよ、関係が壊れるのが……でもね勇気を出して相談しちゃったの、失敗しちゃったけどね」
胸の奥が痛くなる。
俺も同じだった。
同じ壁に怯えていた。
「だからね、嬉しかったの……私のことを仲間だって言ってくれて」
一筋の涙が、頬を伝った。
言葉を探して口を開きかけた俺を遮るように、彼女はそっと涙を拭った。
「……聞いてくれる? 仲間として。私の、最後のわがまま」
「……はい」
「私、決めたの。アオハルカゼを……G1に出す」
衝撃に息をのむ。
「天皇賞(秋)。でも今のあの子の戦績じゃ無理。
だから、その前に毎日王冠で3着以内に入らないといけない。
……無謀なのもわかってる。お父さんとも大喧嘩してね、もう勘当みたいな扱いされたよ、負けたら処分とか言ってるくせにね、ぼろ負けして馬主として恥ずかしい思いしたくないみたい」
そう言いつつも、彼女の声は少しも揺れていなかった。
「これが、あの子の力を証明できる最後のチャンスなの。
ここで負けたら……私はきっと、アオハルカゼを失う」
――すべてを賭けている。
その覚悟が痛いほど伝わってきた。
「……俺に、手伝わせてください」
「え……」
「データ、全部調べます。できうる限りの毎日王冠の過去の全レースの傾向、レースラップ、脚質分布、馬場差。どんな小さな要素でもいい。あの子の勝つ確率が1%でも上がるなら、俺は全部やります、任せてください」
これはファンの応援じゃない。
俺にできる、精一杯の戦いだ。
「……仲間ですよね?あなたを一人では絶対に戦わせません」
栞さんの目から、また涙がこぼれた。
だが今度は、悲しみの色ではなかった。
「……あっ、ありがとう」
震える声で、心の底から。
「ありがとう……高木さん」
その瞬間、長く隔てていたお互いの“見えない壁”が崩れ落ちたのがわかった。
もう、「馬主の令嬢」でも、「ただのファン」でもない。
一頭の馬の未来を信じる、ただの──仲間だ。
「さあ。始めましょう。……俺たちの挑戦を」
俺が言うと、栞さんは涙の跡を残したまま、最高の笑顔で頷いた。
――もう一度、あの場所へ。
今度は偽りじゃない、本当の応援席へ。
俺たちの物語は、再び走り始めた。
第3部はこれで終わりです、第4部にはいります!あと5話ぐらいで終わる予定です。




