第13章:調教師の言葉
栞さんと会わなくなって、二度目の週末が来た。
その日、俺は競馬場へ行く気力すら湧いてこなかった。
ベッドに沈み込み、指先だけがスマホの画面を滑っていく。
ニュースもSNSも、何を見てもどうにも胸がざわついてしまい、心が締めつけられるだけだった。
(……アオハルカゼ、どうしてるかな)
調教は順調なんだろうか。
どんな選択をしたんだろうか。
栞さんは、どんな顔で馬と向き合っているんだろうか。
――知りたい。
でも、知るのが怖い。
俺はその矛盾に押し潰され、競馬ニュースすら開けなくなっていた。
昼過ぎ、空腹に負けてようやく布団から出た。
コンビニへ向かう道は、妙に風が冷たい。
顔を上げると、小さな居酒屋ののれんが揺れていた。昼間から開いている、競馬中継の流れる店だ。
(……ここ、よく来てたよな)
何度か入ったことがある。
レースを見ながら一杯飲んで、他の常連と他愛のない馬談義をする、あの時間が好きだった。
だが今は、ガラス戸の向こうから漏れてくる歓声が、胸を刺した。
(帰ろう。今日は聞きたくないし、見たくない)
踵を返そうとした、その瞬間――。
店の中から、見覚えのある男が姿を現した。
馬の世話で鍛えられた腕。
炎天下で焼けた、職人のような顔。
鋭い眼光の奥に、馬を思う優しさを宿した目。
アオハルカゼの調教師、三田村調教師だった。
反射的に、俺はとっさに電柱の影に身を隠した。
なぜ隠れってしまったのだろうか。自分でもわからなかった。ただ、会ってはいけない人間のような気がした。
三田村調教師は、店の前でタバコに火をつけた。
白い煙がゆっくり空に消えていく。
そのまま携帯を取り出すと、ぶっきらぼうな声で話し始めた。
「……ああ、俺だ。……おう、お嬢さんか」
その言葉に、心臓が跳ねた。
(……栞さん?)
電話の声は聞こえない。ただ、調教師の返す言葉だけが耳に刺さった。
「……見たよ、さっきのレース。ああ、まあ、悪くはねえよ。あいつはあれでいいんだ。抑えようとするんじゃなくてな。自分のリズムで走らせる方が、あの馬は生きる」
調教師の声は、荒っぽい。
けれどその奥に、確かな信頼と温かさがあった。
「……気にすんな。結果は次だ。……お前こそ、無理してねえか?」
一拍の沈黙の後、
「……嘘つけ。また会長に何か言われたんだろ? 俺には声でわかるわ」
その言葉に、胃の奥がずんと重くなった。
(……やっぱり、いろいろ背負ってるんだ)
彼女は今も、あの父親と戦っている。
そしてその影響が、馬にも響くほどになっている。
「……お嬢さんが決めたなら、俺は何も言わん。最後まで付き合うぞ。……ああ、任せとけ。あいつのことは俺が守ってやる」
電話が切れると、調教師は深く息を吐き、タバコの火を携帯灰皿でぐいっと消した。
店へ戻ろうと向きを変えたその瞬間――その視線が、真っ直ぐこちらを射抜いた。
(……バレた!)
身を固くする俺に、調教師は低く言った。
「……いつからそこにいた」
「え……その……今、通りかかっただけで……」
自分で言っても嘘だとわかるし、何より調教師の目がごまかしを許さなかった。
「福島の時、栞お嬢さんと一緒にいたあんちゃんだな」
逃げようもない。
俺は観念して頷いた。
調教師は、ふうっとため息をつくと、顎で店を示した。
「……ちょっと、付き合えや」
抗う気力はなかったし抗えなかった。
それ以上に、彼の目に宿る“何かを知っている者の重さ”から、目をそらせなかった。
店の中は薄暗く、テレビがレース映像を照らしていた。
三田村調教師は黙ってビールを二つ注文し、一つを俺の前に置いた。
「飲め」
その一言に、俺は小さく礼を言って口をつけた。
苦味が喉をすべり落ちていく。
しばし沈黙が続いた後、調教師が口を開いた。
「……あんちゃん、お嬢さんとなにがあった」
まっすぐな問いだった。
「え……?」
「最近のお嬢さんは、あの馬の前ですら、いつも、どこか迷ってる。……あんちゃんが来なくなってからだな」
胸が痛んだ。
(……俺のせいだ。やっぱり)
「……別に、何も……ない……です」
「嘘つくんじゃねえ」
静かだが、鋭い声だった。
「馬はよ、誤魔化しが効かねえんだ。乗り手だけでなく馬主も迷いを抱えてりゃ、すぐに走りに出る。……今のアオハルカゼはちぐはぐだ。原因は、お嬢さんの迷いだ」
調教師の言葉は、怒りではなく“哀しみ”を帯びていた。
「戸惑ってるんだろ。お嬢さんの生まれを知ってしまって、どう向き合えばいいのか」
見抜かれていた、図星だった。
俺は、劣等感を拗らせて、勝手に距離を置き、勝手に傷つき、勝手に逃げたのだ。
「でもな」
調教師は、ジョッキを空にし、真っ直ぐ俺を見た。
「お嬢さんにとっちゃあな、あんちゃんは“初めての仲間”なんだよ」
その言葉に、息が止まった気がした。
「会長と戦いながら、一人で馬を守ってきた。ずっと孤独だった。……そんな時に現れたんだよ。金も地位も関係なく、純粋にアオハルカゼを応援してくれる奴がな」
それが――俺……なのか?だったのか。
「なのに、一番頼りたい時に、あんちゃんが背中を向けてしまったら……お嬢さんはどうすりゃいいんだよ、俺にはその変わりはできねえ」
言葉が出ない。
胸がぎゅっと締め付けられた。
「言っとくがな、俺はあんたを責めてるわけじゃねえんだ。人間なんて迷って当たり前だ。……だが、これは覚えとけよ」
調教師は立ち上がり、俺の肩を軽く叩いた。
「――大事なのは“血統”じゃねえ。
そいつが、どっちへ向かって、何を目指して走ろうとしてるかだ。馬も、人間も同じだ、変わんねえよ
血統がいいからって絶対に勝てないっていうのか?違うだろ?」
その言葉は、まるで俺の胸の中心に火を灯すようだった。
調教師は勘定を済ませ、最後にひと言だけ残した。
「お嬢さんの隣に立つ覚悟があるなら……後ろ向きのまま走るな。前だけ見てろ、いいな」
扉が閉まり、店に静寂が戻った。
俺はしばらく、動けなかった。
彼の言葉が、胸の奥で何度も何度も反響していた。
(……俺は、どっちを向きたいんだ?)
また逃げるのか。
それとも――。
いや答えは、もう決まっていた、決まっているんだ。
ぬるくなったビールを一気に飲み干し、スマホを開く。
もう迷わない。
震える指で、文字を打ち込む。
『日高さん、今、会えませんか』
送信ボタンを押した時、俺の胸の奥で何かが確かに動き出した。




