第12章:空白の終末
あの日以来、栞さんから連絡が来ることは、一度たりともなかった。
俺のスマホのトーク画面には、返信しなかったメッセージと、彼女からの最後の言葉が並んだまま、時間だけが積み重なっていく。
まるで、俺たちの関係が終わってしまったことを示すかのようだ。
次の週末も、気づけば俺は競馬場にいた。
何かを期待しているわけじゃない。むしろ、会わないために、いつもと違う場所、違う時間を選び、こそこそと歩き回っていた。
(……俺は、何をしてるんだんだろうか)
避けているのか?それとも探しているのか?
自分の心がどちらを向いているのか、何が何やら自分でもよくわからなかった。
いつもの席に戻ってきて座り、競馬新聞を広げる。
赤ペンを握り、馬柱に印をつける。
いつも通りのルーティンのはずなのに、どの文字もどうも頭に入ってこない。
(この馬、前走の勝ち方が良かったな。……栞さんなら、どう言うだろう)
(この騎手、最近調子いいよな。……好きだったっけか)
どんな思考も、最後は必ず彼女へ辿り着いてしまう。
「……だめだっ。ぜんっぜん集中できない」
そう声に出すと新聞を閉じ、ぼんやりとターフを眺めた。
目の前には鮮やかな緑、白いラチ、吸い込まれそうな青空。
かつては、この場所に来るだけで、心が軽くなった。
平日の疲れも、将来の不安も、全部洗い流してくれる——そんな俺にとっての聖域だった。
でも今は違う。
目の前の風景は、まるで色褪せた古いポスターのように平坦で、どこにも奥行きがない。
「……ああ、そうか。最近鮮やかに色をつけてくれてたのは、あなただったんだなぁ」
独り言が風にさらわれて消える。
栞さんと出会ってから、俺の世界は確かに鮮やかになっていた。
一人の時の競馬も十二分に楽しかった。けれど、けれどあの時二人で見ていた競馬は、
その何倍も何十倍も色鮮やかに見えたし楽しかった。
勝てば笑い、負ければ肩を落とし、レースの度に小さなドラマを共有して。
そんな当たり前の時間こどが、どれほど幸せだったのか。
失って初めて痛感するなんて、俺は本当に愚かだ。
いや本当は失う前から気づてはいたんだろう、手を伸ばす勇気を出せなかっただけだ。
その日は、一度も馬券を買わなかった。
買う気がどうしても起きなかった。
レースが始まっても、歓声はどこか遠く聞こえてくる。
どの馬が勝ったのかも、よくわからない。
俺の空いてしまった心の穴には、寂しい風だけが吹いていた。
かつての俺の聖域は、「空白」へと変貌していた。
家に帰っても、虚しさだけはついてくる。
テレビをつけると、最終レースの中継が始まるところだった。
『直線コース! 外から人気の~~の産駒が——!』
興奮した実況が、空虚な部屋に響く。
(……~~の産駒か。アオハルカゼも、父は結構良い血統の馬なんだよな)
俺はリモコンに手を伸ばし、テレビを消した。
静寂が戻る。
何もする気になれず、ベッドにバタリと倒れ込む。
目を閉じると、浮かんできたのはあの日の栞さん。
俺の言葉に揺れた、悲しい瞳。
無理に作られた、力のない笑顔。
「……なんで、あんなこと言っちまったんだ」
後悔が胸の奥で暴れ出す。
“ただのファン?”
“口を出せる話じゃない?”
違う、そんな話ではなかった。
彼女は、俺を「ただのファン」ではなく、
競馬という同じ夢を共有する「仲間」として見てくれていたんじゃないのか。
肩書きじゃない、立場でもない、
“高木健太”という一人の人間を信じてくれた。
だからこそ、責任とか関係なく俺の意見を聞きたかったんじゃないのか。
俺は、その想いを、自分の劣等感とちっぽけなプライドで踏みにじった。
「……すみません、わかりません」
あの一言は、彼女を拒絶するには十分すぎる刃だった。
(……謝りたい。今すぐにでも、謝りたい)
勢いよく起き上がり、スマホを掴む。
震える指でメッセージを打ち込んだ。
『先日は、本当にすみませんでした』
だが、送信前に指が止まった。
(……これを送って、何が変わるんだ?)
(許してくれるのか? いや、それ以前に……俺に許される資格なんてあるのか?)
(今さら連絡して、どういう顔をすればいいんだ)
俺は打った文字をすべて消去した。
送る勇気は、どこにもなかった。
その夜、夢を見た。
アオハルカゼがG1レースを走っている。
俺は必死に叫んでいた。
「いけぇぇッ! アオハルカゼ!!」
隣には栞さんがいて、俺のほうを見て笑っている。
『私たちの夢、叶うといいわね』
その瞬間、アオハルカゼが突然コースから外れて走り去る。
どんどん小さくなり、やがて見えなくなる。
気づけば栞さんの姿も消えていた。
広い競馬場に、俺だけがぽつんと立っていた。
「……っ!」
汗びっしょりになって目を覚ます。
心臓が警告のようにドクドクと鳴っていた。
窓の外はまだ闇。
「……もう、終わりなのか。何もかも……」
その呟きは、静まり返った部屋に吸い込まれるように消えていった。
空白の週末は、悪夢という形で幕を閉じた。




