第11章:偽りの応援席
あの日から、俺は栞さんに返信ができずにいた。
スマホを開くたび、画面に浮かぶ『相談したいことがあるの』の文字。
読むたびに胸が締めつけられ、画面を閉じる。
その繰り返しを、もう三日も続けていた。
(……なんて返せばいいんだよ)
「あなたが大企業の会長令嬢で、アオハルカゼの馬主だってこと、知ってしまいました」
そんなメッセージが送れるわけがない。
じゃあ、何も知らないふりをして
『大丈夫です! 電話しましょう!』
と返す……?
その軽さが、俺には出せる気がしなかった。
栞さんは、俺とは違う世界の人間。
俺が必死に働いて稼ぐ一ヶ月の給料より、彼女の家の庭木一本のほうが高い。
俺が一生に一度座れるかどうかの馬主席に、彼女は“いつでも”座れる。
なにより——
(俺は、勘違いしていたんだ)
俺と彼女が同じ地平にいるんだと、勝手に思い込んでいた。
(……いや、そんな風に考えるのは違う。栞さんは、そんな人じゃないんだ、そしてもう知られていることも分かっているはずだその上で相談しようとしてくれている)
そう、頭ではわかっている。
彼女が俺を対等に扱ってくれたのも、ただの競馬仲間として話してくれたのも、本心だったはずだ。
でも、一度“真実”を知ってしまえば、俺の心が元の位置には戻れなかった。
週末、気づけば俺は東京競馬場に来ていた。
アオハルカゼの次走が決まっているわけでもない。
ただ――
(……来るかもしれない)
そんな、ちょっとした淡い期待と来てほしくない期待が胸の奥で燻っていた。
そして、その期待は悪い期待の方向に現実になった、なってしまった。
パドックで馬を見ていた時だ。
「――高木さん!」
聞き覚えのある声。
振り返った俺の鼓動は、一瞬で凍りついた。
そこには、少し困ったように眉を寄せた栞さんがいた。
「……ひ、日高さん」
「よかった。会えた……メッセージ、見てくれたよね? 全然返信ないから、何かあったのかと……」
「あ、いや……すみません。仕事が立て込んでて……返そう返そうと思ってたんですけど」
自分でも呆れるほど陳腐な嘘。
それでも彼女は、疑うでもなく、ふっと柔らかく笑った。
「そっか。大変だったのね。お疲れ様」
その優しさが、今の俺の心には刺さる、刺さりすぎたんだ。
「そ……それで、相談って?」
平静を装う俺に、彼女はそっと声を潜めて近づいてくる。
ふわりと香る甘い匂い。
以前なら胸が跳ねたはずなのに、今はただ、
(俺とは違う世界の香りだ)
そんな事実だけが突きつけられる。
「もう知っちゃったと思うから相談したいの、アオハルカゼのことなんだけどね……次、どこを走らせるかで揉めてて」
「揉めてる?誰とですか?」
「うん。調教師、うん三田村調教師っていうんだけど、堅実に行きたいみたい。でも私はね……挑戦したいの」
挑戦。
その言葉に俺の心臓が小さく跳ねる。
「……G1へ続く道へのステップレース。」
栞さんの瞳が揺れる。
「無謀なのは分かっているの、でもね……あの子には、もう時間がないの。もし次も負けてしまったら……今度こそ、本当に……」
処分。
あの男の冷酷な声が脳裏に蘇る。
「……高木さんは、どう思う?データ派の高木さんの、客観的な意見が欲しいの。無謀……だと思う?」
彼女の目は真剣だった。
信頼して、頼ってくれている。
それが嬉しい、と同時にとてつもなく心が痛い、苦しい。
(……言えない、とても言えない)
俺のデータで言えば、アオハルカゼの格上挑戦は無謀でしかない。
勝率はほぼほぼゼロなんだ。
でもそう言えば、彼女の夢を折ることになる。
かといって
「挑戦すべきです!」
と無責任に言う資格なんて、俺にはない。
(負けたら……あの子は終わる)
その責任を、俺は背負えない。
沈黙する俺を、栞さんは不安そうに見つめていた。
「……高木さん?」
「…………」
(言えない。何も——言えない)
そして俺は、最も残酷な選択をした。
「……すみません、わかりません。俺には、俺にはその言葉の先にある責任が負えません」
「え……?」
「馬主でもない、ただのファンが口を出せる話じゃないんです……それは、日高さんと調教師さんで決めるべきことだと思います、本当にすみません」
“日高さん”。
あえて名字で呼んだ。
ほんの数センチの距離に、意図的な壁を置いた。
栞さんの表情が、すっと、痛いくらい静かになった。
「……そっか。……そう、だよね。ごめんね。変なこと聞いちゃって」
無理に作った笑顔。
その歪みが、胸にぐさりと突き刺さる。
「じゃあ俺、次のレース買いに行くんで」
逃げるように背を向けた。
「高木さん!」
呼ばれた声は、確かに強かった。
でも俺は、振り返れなかった、振り返ることができなかった。
人のいないスタンドの隅で、壁に手をつく。
「……最低だ、俺」
そう声に出した瞬間、さらに胸が軋んだ。
彼女を傷つけた。信頼を裏切った。
本当は、一緒に悩みたかった。
一緒に、アオハルカゼの未来を考えたかった。
『大丈夫ですよ。あいつならやれます!』
そう言って、背中を押したかった。
それなのに——できなかった。
俺と彼女の間にできた“事実”という名の壁が、
俺の口を塞ぎ、心を縛り、手を伸ばす勇気を奪った。
「馬主のお嬢様」と「ただのファン」。
そのどうしようもなく残酷な事実が俺の口を塞いだんだ・・・自身ではどうにも動かせない立場の差。
それが、俺たちが育ててきた場所を壊した、いや俺が壊したのかもしれない。
俺たちが一緒に笑った応援席は、もうどこにもないんだろうか。
残ったのは、偽りの距離と、痛いほどの沈黙だけだった。




