最期の席替え
最後の席替え
中学三年の冬。
残る登校日も、もう指折り数えるほどしかなかった。
そんな朝、僕の心臓はまるで中距離走のゴール直後のように、強く、そして早く脈打っていた。
僕には、想い人がいる。
若菜ちゃん──その名を心の中で呼ぶたび、胸がざわつく。
肩より少し下の癖っ毛を、両サイドでおさげにしていて、前髪は緩やかに右に流れている。
小柄で華奢な体格。膝より少し上のスカート丈が、僕の恋心を転がしてやまない。
中学一年の春、一目惚れだった。
けれどクラスが一緒になったことは一度もなく、三年でようやく同じクラスになれたときには、近所の神社を巡りながら、ありとあらゆる神に祈りを捧げた。
最後に訪れた神社のことは今でも覚えている。
夕暮れの境内に、木々の影が長く伸びていた。冷たい風が吹く中、僕は静かに涙を流した。
……安産祈願の神様だったけれど。
同じクラスになれたとはいえ、話しかけるきっかけなんてほとんどなかった。
唯一、オーラルイングリッシュの授業で一言二言交わしただけ。
──そして今日が、最後の席替えだ。
これまで幾度となく繰り返された席替えの中、彼女の席はいつも僕の後方で、授業中にその姿を視界に収めることさえ叶わなかった。
昨夜は、両親の会話も、いつも高圧的な姉の声すら耳に入らなかった。
夕食の味もわからず、宿題にはまったく手がつかなかった。
どうしても、彼女の姿をこの視力2.0の視界に収めながら、卒業を迎えたかった。
鼓動が、さらに早まる。
学級委員長が、いつものように軽い口調で言った。
「では、席替えを行いまーす」
……どうしてこんなに重く聞こえるのだろう。
一瞬だけ「くじ引きじゃない方法にしようよ」みたいな声が上がったが、結局は毎回通り、教卓に置かれた箱からくじを引くスタイルに落ち着いた。
一人ずつ呼ばれては、箱からくじを引いていく。
その間、委員長は手元の紙に番号をランダムに記入していった。
若菜ちゃんがくじを引く姿。
それは、まるで聖女が神託を受ける瞬間のように神聖な光景だった。
やがて、全員がくじを引き終えた。
委員長は手元の紙を手に、黒板に席順を記し始める。
前から順に名前が並び、クラスメイトたちが一喜一憂の声を上げる。
僕はまだ、自分のくじを見ていなかった。
そっと目を閉じ、この世のすべての命に愛を、そして先人たちの魂に敬意を込めて祈った。
──神様、どうか……。
深呼吸をひとつ。震える手で、くじの紙をめくったその瞬間、僕の脳内はフル回転を始める。
若菜ちゃんの真後ろ──それが理想だ。
後頭部を見られるだけで幸せだし、もしかするとふんわりと彼女の匂いが漂ってくるかもしれない。
……僕は変態ではない。ただ、好きな子の匂いを嗅ぎたいだけだ。
後ろ斜めの席──これも最高だ。
ノートを取る姿、真剣な眼差し、時折こぼれる笑顔。
授業が終わるたびに、きっと目が合う。
それが叶わぬなら、せめて真横でも──。
ふとした拍子に横顔が見える。
消しゴムを拾う。教科書を見せ合う。
奇跡が起きるかもしれない。
……いけない、欲張りすぎだ。
僕は身の程をわきまえている。
欲深き者に、神の祝福など届くはずがない。
──神は、そんな僕を見ていたのだろうか。
僕の席は、中央の最前列だった。
すべてが終わった。
どうして神は、僕にこのような試練を与えたのか。
三年間、真面目に勉強し、部活にも励んできた。
受験勉強だって、誰より頑張ったのに。なのに……なのに……。
血の気が引いていく。
教室の空気はやけに乾いて、視界はじわじわと暗くなる。
僕は、いつもより重たく感じる机と椅子を引きずりながら、教卓の前へと運んでいった。
──処刑台って、きっとこんな気分なんだろう。
チャイムが鳴る。
それは、僕にとって祝福のファンファーレになるはずだった音だ。
「Hello, everyone!」
オーラルイングリッシュのティーチャーが元気よく入ってくる。
でも、英語どころか、日本語すら耳に入ってこない。
ティーチャーの目が僕を見ている。怒りの気配がある。
僕は、力なく微笑んだ。
「Please put your homework on the desk!」
宿題?──そんなもの、やってない。やれる状態じゃなかった。
僕は、静かに言った。
「I haven’t done it.」
やってません。
「You need to be responsible!」
「No homework? Unacceptable!」
……先生の声がやけに刺さる。英語のはずなのに、怒りだけは伝わってくる。
けれど、もう失うものは何もなかった。
一通りの説教を受けて席に戻ろうとしたそのとき……ふと、教室の後方に目をやった。
同じ列の最後方。
若菜ちゃんが、口元を軽く押さえて──笑っていた。
……なんて、尊い笑顔なのだろう。
明日からも、怒られよう。
そう、心に決めた。