心の先は
心とは一体なんなのだろう・・・?心臓?脳?魂?形はあるのか?存在はしているのか?分からない。知らない。ただ、彼女は確かにその存在を感じていた。
春先の暖かさから湿り気を帯びた風に移り変わる。季節は五月半ば、太陽の照りも水を帯びる空気も肌に僅かな不快感を与える。
この街は何処にでもある街。ただ、都会ではない。JR主要駅の周りに大型店舗や小規模な店が展開される。この場所を僅かに離れれば畑や田んぼや林が広がる。そして、ここには郊外型の大型店舗が存在する。人口は数十万人。本当に何処にでもある何一つ人を拘束する様な魅力がある訳でもない街。
しかし、そんな強い魅力が無くてもこの街に人は住んでいる。そう、ここが故郷であり強い魅力を霞ませる郷土愛が彼等にはある。
この物語はそんな普通の街に住む女子高生の物語。
朝日が日本を照らす。日本が動き出す。いや、現代の日本は多種多様の職業形態がある。だから、動き出すと言う言葉には語弊があるのだろう。ただ、学生には動き出すと言う言葉が当てはまっている。
この物語の中心人物である彼女。
【長谷川瑞希】
高校二年生。部活には入っていない。成績はクラス内で僅かに上位。肩までの髪。化粧は生まれてから一度もしていない。この現代では珍しい分類に仕分けられる。
家庭環境は至って円満。父と母と彼女。一人っ子なのだがペットはいる。コーギーで名前はもち肌と言う。
時刻は六時半を回った。彼女を夢の世界から引きずり出すのは枕元に置かれている目覚し。小さなベルが鳴る。彼女にはそれで十分なのだ。まどろむ意識でベルを止め目を開く。薄い緑のカーテンから柔らかい光が差し込む。小さい欠伸をし身体を起こす。
ベッドから抜け出て一階の洗面所へ向かう。歯を磨き顔を洗う。そして、ダイニングキッチンへと朝食を食べに行く。
「おはよう。」
「うん、おはよう。」
母だけだ。父は既に仕事に出かけた。短い挨拶をしトーストと目玉焼きを食べる。飲み物は冷たいレモネード。
食事の時間は十数分。それが終わると食べ終わった食器を流し台に戻し制服に着替える為に自分の部屋に再び戻る。
衣替え手前。膝より数センチ上のスカートを履きワイシャツの上からブレザーを着る。靴下は学校指定の紺色。脹脛の中ほどまでの丈があるものになる。その後、手鏡と櫛で髪を梳かす。化粧はしなくともこれくらいの身だしなみを整える行為はする。
時刻は七時半。乳白色のリュックサックを背負いキッチンにいる母へと玄関から声を掛ける。
「いってきます。」
その声に反応し小さな声が返ってくる。それを確認し彼女は家を出る。すでに青い空が広がっている。赤くも黒くもない。白い雲が単色の青にアクセントを加えている。
学校までは徒歩とバスで通学している。家からバス停までは徒歩数分。そこから、バスに乗る事十数分で学校前のバス停に到着する。彼女が乗る路線は朝の大混雑は無い。猶予を持って席に座る事が出来る。
ホームルーム開始時刻が八時十分。二十分弱の通学をしても十分に間に合う。部活をやっていない彼女は、早く通学する事もなくギリギリで通学する事もない。
校門を抜け校内に入り下駄箱にローファーを入れ上履きを履く。そして、自分のクラスへと向かう。小学生の頃から毎日変わらない動作で、最低でも残り一年は続く。
彼女のクラスは二階。二階には一年生の教室と図書室。それに職員室とパソコン教室がある。この上の三階には三年生の教室と音楽室と視聴覚室がある。ちなみに理科室や家庭科室などは一階にある。
階段を登り校舎の自分の教室へと向かう。廊下で話す女子やクラス内で騒ぐ男子。話題も様々で耳にしようとしなくても声の大きさから耳に入ってしまう。
そして、自分のクラスへと到着する。戸は開かれている。
「おはよう。」
小声で挨拶をするも返事はない。クラスメイトは運動部員以外は大方揃っているだろうに。だが、彼女はそれを気に留めない。何故なら毎朝同じ光景だから。挨拶も業務的なもので特定の人物に行っている訳ではない。
窓際の一番後ろが彼女の席だ。リュックを机の上に降ろし席に着く。そして、そのリュックから筆箱と本日の教科の教科書を机の中に仕舞い窓から外を見る。
彼女は何処にでもいる存在。ただ、この世界・・・この空間からは隔離されている。まるで彼女の席が異空間に位置している様にだ。周りの喧騒は耳に入るが残らない。彼女の世界とはそう言う世界ではない。しかし、彼女はクラスから隔離されている訳ではない。クラスメイトも彼女を認識しているし接し方も異質ではない。
ただ、友達と言うには僅かに違和感を覚える存在。ただの、クラスメイトと言う言葉が最も適切なのだ。
その原因を彼女は理解していた。誰よりも誰よりもだ。
彼女は普通だと言った。それはそうなのだが一つだけ普通ではない事がある。
一つの特殊能力。彼女にはそれがあった。よくアニメやゲームで見られる特殊能力とは程遠いが確かにその力は存在する。
彼女の特殊能力。それは人の心が少しだけ読める。もっとも、その能力は直接話している人にしか適用されない。
そう、これが彼女が唯一普通ではないところ。どれ程に人の心が読めるのかと言うと本当に僅からしい。例えるなら場の空気が凄く読める人がいる。その人よりも僅かに読める程度だ。
この能力は彼女が幼い頃からあった。彼女は元々元気の良い女の子だった。今とは正反対の性格だった。彼女が今の性格や立ち居地になったのにはこの能力が大きく関係している。
この能力は誰もが持っているものだと思っていた。だが、現実は違った。この能力は彼女だけのものだった。それをハッキリと感じ取ったのは小学五年生。誰もが迎える思春期の入り口。そこで、彼女は今まで親友だと思っていた人たちの心の声を聞いた。
その言葉は裏切りに近かった。もちろん彼女自身もその当時の親友に直接裏切りの言葉の意味を尋ねる。しかし、結果は単純なのだ。
惚ける。偽る。そして、心の中で蔑む。
決まってこれだ。また、親友を装う。無理もないだろう。心を読まれていると相手は知らないのだから。
こう言った出来事があり彼女は表面上でしか人と付き合わなくなった。今でも心は読める。ただ、表面所の付き合いなら裏切りに会う事もないし偽りの言葉も聞かなくて済む。心を閉ざしている訳では無いが心を交じ合わせようとも思わない。そんな考えを持つようになった。多分・・・いや、絶対に今後もこの立ち居地は変わらないんだろう。とは言ってもこの能力に恨みは無いし感謝も無い。この間々でいい。そう、この間々で。
窓の外の世界は変化を迎える。それは運動部が朝の練習を終えた事。つまりはホームルームの開始が迫っていると言う事。
運動部員が教室へなだれ込むと僅かな時間だが騒がしさを引っ張ってくる。ここで彼女は自分の世界から抜け出す。
前の席には女子。自分の横は男子。すでに彼等もホームルームの開始を待っている。会話は無い。それは互いに求めていない事と知っているから。会話をするとすれば業務的なものだけだ。
そして、ホームルームが始まり十五分で終わる。その後、一限目の授業が始まる。授業時間は五十分。全ての授業をこの教室で行う訳では無いが国語や数学などの授業はこの場所で行われる。
授業が始まると先程の喧騒が無くなり風と僅かな街の生活音とクラスメイトの小声。そして、授業を進める教師の声と黒板を叩くチョークの音。そんな空間になる。彼女は大学ノートに授業の内容を書き写し耳で授業内容を取り入れ頭で集約し脳に沈殿させる。
窓際に位置する彼女の席には開口一番の風がふんわりと髪の毛にじゃれ付く。
授業を受けている時の体感時間は人それぞれだろう。彼女が感じる時間は長くは無い。新しい知識を取り入れると言う好奇心が彼女にはあった。それは、失われたと思われていたもの。
こうして一限目の授業が終わり少しの休憩時間の後、二限目に入る。この授業も教室で行われ終わりを迎える。
この繰り返しでお昼休みになる。こうなるとまた喧騒が戻ってくる。学食へ行く者や購買へ買出しに行く者。彼女はお弁当を持ってきている。そして、当然と言うべきかいつも一人で食べる。教室内では仲のいい者通しで他愛のない会話をしながら
食事する光景。彼女と同じように一人で昼食を食べる者と様々だ。
窓の外を眺めながら安らかに食事を取る。大好きな時間だ。だから、一人の食事も悪くないし一人がいいとも思う。
食事は十数分で終わる。そして、その後はまた窓の外を眺める。毎日こう言った訳ではない。本を読む事もする。テスト前は復習もする。ただ、スマートフォンを操作する事はない。そこに嫌悪感を持っている訳でもないがそうしないだけ。
窓からは運動場が見える。その奥にはボールや目隠しを意味している深緑のネットがありその奥には個人商店と住宅がある。この個人商店はお好み焼き屋で放課後になると学生達のたまり場になる。
犬の散歩をする人。家先で話し込む女性。家の前を掃除するお年寄り。なんら珍しい光景でもないし、こう言った光景は見慣れている。しかし、見飽きることもない。
そうして、昼休みは終わり授業がまた始まる。昼食後の授業は眠気との戦い。彼女も少なからずそんな戦いを繰り広げている。角っこのから教室内を見渡すとすでに戦いに敗れた者がチラホラといる。そして、その敗者を救済する、もしくは気持ちの良い空間から引きずり出す者が一人だけいる。それは誰もが容易に感づく。午後最初の授業は仕方がない。
そして、その戦いは授業の終わりと共に終わる。次の授業もあるがそこに戦いはない。彼女は勝ったのだ。時々負けてしまう事もあるが今日は勝ったのだ。
こうして、また授業が終わった。そうなればまたホームルームをし本日の学業が終了する。とは言ってもこの後に本格的な部活動が待っているが彼女には関係がない。手早く片付けをし教室を出て下駄箱へ。
そこで、ある人物と出会う。声を掛けられる。
「瑞希。今帰り?」
「うん。」
声を掛けた人物は幼稚園からの幼馴染。
【寺田綾香】
彼女と同じ町内に住む綾香。薄っすらと化粧。肩甲骨までの髪。そして、明るい性格。吹奏楽部に所属している。綾香はハツラツとした女子高生。この一時しか経験出来ない時の流れを感じている。彼女とは違う。世界が違うと錯覚する程に。
昔からの親友。昔は仲が良かった。そう、すでに彼女と綾香の関係は過去形。今は友達と言う感覚を抱いていない。だが、
綾香は違う。過去の彼女を知っていて過去の出来事を知っているからだ。もちろん、能力の事は知らない。綾香の仲では今だ彼女は親友。だが、帰って来る言葉はいつも同じ。
「ゴメン、帰りに寄りたい場所あるから。それじゃあね。」
そう、これがいつもの言葉。部活が休みで彼女を見かけた時は必ず声を掛ける。
「一緒に帰ろう」
しかし、それが適った事は一度もない。だけど、いつか必ずと思い綾香は声を掛け続ける。
彼女は綾香の誘いを断り帰路に着こうとする。綾香の誘いを断る嘘は大体同じ。だが、今日は本当に寄り道をする。
バスに乗りいつも下車するバス停よりほんの少し手前で下車。ここには商店街がある。大きく過度な賑わいを見せる訳ではないが人の流れは活発で緩やかだ。
僅かにオレンジを帯びる空。大好きな色にはもう少しか。
「何か食べたいな。」
商店街に来たものの明確な目的はない。小腹が空く。そうなれば小さい頃から世話になっているお肉屋さんのコロッケを買わずにはいられない。味は言う事ないし大きさもだ。値段だって高校生のお財布には優しい。
【斉藤肉店】
彼女は斉藤さんと呼ぶ。斉藤さん付近に近づくと美味しそうな匂いが鼻を擽る。目の前に立つと涎が出る。心が楽しみと騒いでいるのだ。彼女は足早に斉藤さんに到着。やはり、涎が出る感覚がある。
斉藤肉店のご主人は斉藤さん。奥さんも斉藤さん。夫婦で店を経営している。小さい頃の彼女を知っている人物でもあり、他の人物よりも心を僅かに開く人物でもある。
奥さんが彼女を見ると微笑み声を掛ける。
「おかえり。コロッケ一つ?」
「うん。」
「毎度あり。今さっき揚げたからね。熱くて美味しいよ。」
「そうなんだ。ありがとう。」
短い会話をしてコロッケを受け取る。紙袋に入れられたコロッケは本当に熱い。コロッケ片手に商店街を抜け自宅に向けて歩き出す。商店街を抜けた所で少し冷めたコロッケを注意し食べ始める。
「いただきます。熱いけど何回食べても美味しい。」
心が沸く。こんな事でしか沸かない心。でも、美味しいものを食べて心が沸くと言うのは素晴らしいことで大人や子供に関係なく誰もがそうなる心の揺らぎである。彼女の身体の奥底で埃を被っていた感情が顔を覗かせる。
家に近づく度にコロッケは小さくなる。満足感は喪失感に徐々に変化を遂げるも絶望に満たされない。寧ろその喪失感がまた公転し満足感へと変化する。そこからはなだらかに坂を下って行く感じになる。
そうして、コロッケを食べ終わると同時に家に着いた。玄関を開けると夕食が出来上がる過程。見ないでも分かる。とてもいい匂いに鼻を誘惑される。
「ただいま。」
声を掛けるとキッチンから声が帰って来る。彼女は洗面所に向かい手を洗いキッチンへ行く。そこでは母がクリームシチューを作っていた。喜ぶ彼女。冷蔵庫の中にあるレモンティーをコップ一杯飲み制服から部屋着になる為に自分の部屋に向かい手早く着替えを済ませる。その後、夕食が出来るまでの間は部屋で本を読む。もちろんファッション誌などではない。洋服にまったくの興味が無いわけではないが人の心の声が聞こえる為に興味を失わせざるを得ない。見せる友達もいないから丁度いいと彼女は心に鍵を架けている。それでも洋服は必要だ。だから、半年に一度だけ洋服を買う。それは全国に存在し値段も手頃な店だ。
ベッドに寄り掛かり熟読する。そうしていると時間の流れは速い。ただ、その速さを感じるのはこの熟読と言う集中の世界から切り離された時だ。そして、その切り離しには色々な形態がある。自分を呼ぶ声だったり時を告げる時計の音色だったりとだ。今日はその中でも一番好きな切り離され方をされる。夕食の匂いと空腹感だ。その上大好物のクリームシチュー。この上がない事だ。
熟読している本にしばしの別れを告げ一階に降りると丁度父親が帰って来たところだ。
「ただいま。」
「お帰りなさい。今日は遅かったね。」
時刻は十九時に近い。父の平均帰宅時間は大よそ十八時より少し前だ。だから、この家の夕食の時間もそれより少し後に設定されている。
「今日は帰り際にバタついてね。お、今日はシチューか。」
玄関先をも包み込む幸せの匂い。彼女は両親の心が読めない。それは何故なのか分からない。ただ、考えている事はなんとなく分かる。父は先にお風呂の人。しかし、今日は食事だ。そんな読みはピタリと的中する。
「今日はお腹が空いたから夕飯食べてからお風呂に入ろう。」
そう言ってダイニングへ向かう。彼女の後から付いて行く。ダイニングの四人掛けのテーブルには既に食器がいくつか並んでいた。父に労いの言葉を掛ける母。父もそれを受け取り手をシンクで洗い配膳の手伝いをする。この家はクリームシチューにご飯。直接的にご飯にシチューをかける事はしないが一緒に食べる。この事については色々議論されている。ホワイトソースと一緒にご飯を食べたくないとか聞くがそれを根底から打ち砕く存在がいる。ドリアだ。彼の存在はまさにホワイトソースと言う存在と米と言う存在の間にある敵対関係を砕く存在なのだ。彼の上にはいつも布団の様にホワイトソースとチーズがいる。その存在を認めておいてクリームシチューとご飯の存在を認めないと言うのはナンセンスだとこの家の人間は思っている事からこの家ではシチューにご飯と言う光景は当たり前なのだ。お好み焼きの時もそうだが話すとキリが無くなってしまう。
「いただきます。」
家族で挨拶をし食事を始める。鼻腔だけで微かに感じていた存在を味覚と口腔内から直接鼻に刺激を与える匂いとなり料理の美味を感じる。そして、笑顔が生まれるのだ。そう、こう言った単純な事でいいのだ。難しい事はいらない。食事をし美味しいと感じ、食事をし楽しいと感じ、食材になってくれた命と生産者と運送業者と販売者と調理人に敬意を込め頂く。至極全うな事でありそれ以上にはならないだろう。ただ、それを忘れてはならないと感じる。
家族との会話は楽しい。この歳の女の子にしては珍しいのだろうか?いや、そうではない。こう言う女の子は全国にいる。
だから、彼女が特殊なのではない。ましてや、粗方の本心を言える相手だ。心に積もるストレスと言う堆積物を徐々に削り取るそよ風の様だ。
食事時の会話の中心は学校や会社の出来事だ。それを総括して聞いているのは母だ。この状況での彼女の存在はとても大きく大切なものだ。会話が散らばらないだけでなく見て測ったように適度に相槌と反対の言葉を混ぜ込む。これにより会話は楽しさと言う意味を持ちそこに自分達も浸る事が出来ている。
聞くと言う事はただ聞けばいいと言う訳ではない。賛同と反抗を使い分け相手の言葉を自然と引き出す事が聞くと言う事なのだと理解している。それは、身に着けようと思えば身に付けられるだろう。しかし、自然と出来ている者もいることは確かで彼女の横に座る母がその人物の一人だ。
楽しい時間は数十分で終わりを告げる。それには侘しさを感じない。そこで満足出来ている。そして、また迎えられるからだ。空腹を満たす美味い料理と気持ちをすっきりさせる会話で身体と心は満足する。そう、これ以上は望まないし望んでも得られないと分かっている。
「ご馳走様でした。」
挨拶をし自分の食器を流し台へと持っていく。それが終わると先にお風呂に入っていいかを確かめる。確認が取れ、今日は一番風呂。いつもは父が一番だ。彼女はパジャマを取りに部屋まで戻りまた一階に戻ってくる。
時刻は二十時。洗面所と脱衣所は浴室に繋がった二畳程のスペース。彼女は一つ一つ小分けされている入浴剤を選ぶ。
「今日は蜜柑の入浴剤にしよう。」
そして、服を脱ぎ浴室へ入りまっさらなお湯に橙で爽やかで僅かに甘い小さく細かい粒を注ぐ。沈み浮かび、そして、溶け合う。まっさらだったお湯に溶け込んだ橙が彼女の疲れを癒す。
「いい気持ち。」
鼻歌は歌わない。でも、気分はとてもいいんだ。今日は大好きな蜜柑と言う事もあるけれど、それだけではない。やはり、幸せな家庭にいると言う事をこの歳にして感じている。それは、彼女が特別と言う事もあるけれど実はこの歳になれば完全ではないが皆がそれを思っている。口に出さないだけでそう言うところがある。
彼女の入浴時間は若干長い。何をする訳でもないのだけれどこう言う時間が彼女にとっては大切だった。そんな、入浴も次が控えていると言う事で打ち切る。体を白くふわふわなバスタオルで拭きパジャマに着替える。そして、ドライヤーで髪の毛を八割程乾かしリビングへ戻る。
「上がったよ。」
「お、じゃあ次は僕が入るね。」
入れ替わりに父が入浴する。彼女は冷蔵庫から冷たいレモネードをコップに注ぎ何口かに分けて飲む。入浴で失った水分が補われた気がした。そして、もう一杯注ぎテレビ前に置かれたソファに腰を掛けバラエティを見る。
彼女は物静かで大人しいがバラエティが大好きだ。特に気に入ったお笑い芸人がいるとかそう言った訳ではないがバカらしくてテレビの世界の中だけで行われる無茶苦茶が好きなのだ。ニュースは毎日欠かさず見るがドラマは殆ど見ない。
就寝に着く数時間前は大体こうしている。一時間程前になると部屋に戻り音楽を聞き心と体を休ませる準備をする。そうすると疲れが残らないと彼女は言う。
しばらくバラエティを見ていると父が風呂から上がって来る。そして、軽い晩酌をする。大酒のみではない。晩酌をしない時ももちろんある、週の半分位はそうだ。
母の入浴はここから少し間が空く。夕食の片付けが済み一息付きそこから。その時間は彼女が部屋に戻る時間と重なる事が多い。そして、今日もその時間になる。彼女は就寝を言い部屋に戻る。
「おやすみなさい。」
「ああ、おやすみ。」
「はい、おやすみ。」
部屋に戻った彼女はベッドの上で軽くストレッチをし翌日の準備をする。それが終わるとベッドの横に置かれた年代物のコンポの電源を入れる。そして、部屋の電気を消しベッドに入る。ヘッドフォンを装着しリモコンの再生ボタンを押す。
大好きな音楽が流れてくる。何度聞いても嫌いになれないし飽きる事もない。
【久保田利伸】
彼女は彼の曲が大好きだ。ただ、大好きなアーティストは沢山いるがここ最近の彼女の就寝時の音楽は彼なのだ。
小さく歌詞を口ずさむ。真っ暗な部屋に月の明かりとコンポの電源ライト。目を閉じているからそれも感じない。五感の中ではっきりとした活動があるものは耳だけだ。遮断された世界で耳だけが世界を作っている。しかし、そんな世界も眠気と言う魔力には勝てずに活動を停滞させていく。その活動の停滞を察知しコンポの電源を落とす事が出来る時もあれば眠りの世界へと引きずりこまれてしまう事もある。今日は察知出来た。
「はぁ。」
小さい欠伸をし本格的な眠りに入る。眠りに入ってしまえば朝まで一瞬だ。眠りの時だけ人は時間を忘れられる。起きて活動している時はどれだけ集中していても時間と言う概念に拘束されてしまう。しかし、眠りだけは違う。意識が飛んでいると言う状況が作用していると言う事もあるがそれだけではない。やはり、眠りを魅力的にしているモノ。
【夢】
この眠りの時に見る無意識的で秩序の無い世界が人を魅了させ時間の概念を失わせているのであろう。悪夢や瑞夢それら全てが魅力的なのだろう。好きな人や遅刻する夢と形態は様々で実に面白い。ただ、この夢には欠点がある。それは瑞夢に限って途中で目が覚めてしまう。目が覚めて続きを見ようとしてもそうはいかない。その時限りの出来事で夢と言う良質な素材が持つ最大級の欠点だと感じてしまう。
そんな、夢の世界に彼女が落ちその数時間後にはこの家の人間もそこへ足を運び日本のある程度の人間もそこに着く。
そして、朝がやって来る。差し込む朝日と街の起動音。全て柔らかだが強情なのは目覚まし時計。決まった時間に音を立て彼女を夢の世界から引きずり出す。
毎朝毎日同じ繰り返し。歯を磨き朝食を食べ通学する。そして、教室に入り聞こえない声で挨拶をし自分の席から外の世界を眺め授業を受ける。そして、一人で帰る。何も無い毎日だけどそれがいい。
そんな日々を過ごし季節は六月後半。梅雨の中腹へと差し掛かっていた。
ここ最近の梅雨はシトシトと言う訳にはいかない。想定範囲外の雨量を齎す事など珍しくは無い。雨がそれ程嫌いではない。しかし、全国の主婦や主夫と言った家事をする人にとっては憎き相手なのかも知れない。理由は簡単。洗濯物だ。まったくと言っていい程乾かない。乾燥機がある家庭もあるだろうが日本全国そうではない。よって梅雨は必要なのに嫌われ者と言う悲しい立場にいる。
この梅雨は彼女の世界を一つ奪う。窓から入ってくる風と外の世界だ。雨が降り込む事から当然、窓は閉められる。それによって人が発する体温がこの時期独特の湿度の温度を高め窓を曇らせる。そこだけが不満な点だ。
授業の全てが終わる。帰宅の時間になる。今日は久しぶりに寄り道をしようと決めていた彼女。足早に帰り支度をし学校を出てバスに乗り込む。今日も商店街。ただ、斉藤肉店ではなく書店が目的地。以前から読んでいた小説を読み終えてしまい新たな小説を求めやって来た。
【望月書店】
この商店街で唯一の書店。店はそれほど大きくないが品揃いはバツグンだ。参考書、週刊誌、漫画本、ゲームの攻略本と沢山置いてある。もちろんだが取り寄せも気軽に出来る。この街にと言うかこの商店街には欠かせないお店。
そんな、望月書店へとやって来た彼女。自動ドアが開き店内へと入ったところでレジカウンターの人物が声を掛ける。
「あれ?久しぶりだな。」
その客商売には似つかわしくない言葉の持ち主はこの望月書店の息子である。
【望月春幸】
彼女と同じ高校二年で小中学校までは同じだった。寺田綾香と同じく幼馴染の一人。図々しい性格なのか鈍感なのか定かではないが彼女の変化を物ともしない距離感で接してくる。ただ、土足で入り込んでくる訳ではなく昔からの延長線上での関係を継続させているだけの事だ。
そんな、彼に軽い言葉を掛ける彼女。
「今日は部活お休みなの?」
「うん、テストが近いからな。って言うか瑞希のところもそうだろ?」
「そうだと思うけど・・・。」
「ああ、そうか。部活入ってなかったな。」
この会話から分かる。そう、この望月春幸に関する事で大事な事が一つある。
彼女は彼の心が読めないのだ。
何時からなのか彼女自身も分からない。気が付いたら読めていなかった。その程度にしか分からなかった。だから、楽しさもあるが戸惑いもある。ただ、彼の言葉は真っ直ぐなのだ。そこが楽しさを生んでいると彼女は自覚していた。
「それじゃ本見せてもらうね。」
「はいよ。」
ぶっきら棒な返事を受け取り彼女は小説コーナーへと向かう。先ずは目に付いた題名の本を手に取る。その次はあらすじだ。この作業を何度も繰り返し運命の相手と言えば大げさなのかも知れないがその相手を見つける。時間が掛かるがこの時間が彼女は大好きでワクワクが止まらない。時の流れは感じなくなる。いや、正確に言えば普段からハッキリと感じているわけではないが更にそれは愚鈍化し時と言う概念を彼女から取り払うまでに至る。しかし、この愚鈍化には時の流れが確かに存在する。それは、運命の相手が早く現れる事もあればなかなか現れず結局は見つからない事もある。
彼女が小説を探し始めて一時間が経った。そこに彼がやって来て声を掛ける。
「いいのあったか?」
「う~ん・・・今日はダメみたい。」
「そうか。」
本日は出会えなかった様だ。それでも彼女には有意義な時間だった。現代にはインターネットを始めとする情報ツールが山の様にある。それこそソーシャルネットワークでお勧めの小説や売れている小説を検索にかければすぐにそれを教えてくれる。しかし、それではつまらないと彼女は言い彼もそれには納得している。
外は相変わらずの梅雨空。晴れていれば西日のオレンジ。彼女はこの光の中にある商店街の光景が大好きだ。人と人とが繋がり互いの生活を維持している。更にそこにあるものは、単に維持と言う無機質なモノだけではない。心が入っている。何かを買う時も何かを売る時も立ち話をしている時もそこには心が入っている。これは心が少しだけ読める彼女の独特の感性なのかもしれない。
「帰るね。」
「気をつけてな。今度は見つかるといいな。」
「うん。それじゃ。」
そうして望月書店を後にする。薄い緑色の傘を差し少し沈んだ商店街を歩く。人はいるもチラホラだ。雨だからしょうがないと彼女も納得している。こう言う時は屋根があるスーパーにみんなは行くのだろうか?こう言った考えを浮かべて消してをしているとあっという間に家に到着する。
「ただいま。」
そう言うと昨日と同じ様に返事が帰って来る。洗面所に向かい手を洗い少し濡れた部分をタオルで軽くふき取りリビングへと向かう。母は地方局が独自で制作し放送している夕方の情報番組を見ていた。夕食の仕度はしていないようだ。そうとなれば今日の夕食は外に食べに行くと言う事だろう。
「ただいま。」
「おかえりなさい。」
「今日は何を食べに行くの?」
「お好み焼きよ。」
彼女は少しだけ嬉しい。お好み焼きが好きなのだ。それを聞いて僅かにリズムに乗り階段を上がり自室で着替えを済ませる。父が帰ってくるのが待ち遠しい。母と一緒に情報番組を見て時間を潰す。
三十分程経った頃、父が帰宅する。母が今日の夕食をメールで送ったらしく急いで帰って来たようだ。リビングへ入ってきた父は少しだけ息を切らせていた。
「ただいま。すぐに着替えてくるから。」
「はい。それじゃあ私達も準備をしましょう。」
「うん。」
そうして、互いに準備をする。準備と言っても母と彼女は既に殆どが終わっている。やる事と言えば戸締りの確認と少しだけ持って行く荷物の確認。父は着替えを済ませリビングへ戻ってくる。息は整っている。全ての仕度が整い家を出る。車で十数分の場所にあるお好み焼き屋はチェーン店などではなく個人経営をしている店だ。彼女が小さな頃から通っている馴染みの店で二ヶ月に一度は訪れる。
車内では何を食べるか考える彼女。メニューの大部分は把握している。この何を食べるかと言う思考を持っている時、食事と言う行動を行う面での一つの楽しみと言える。飲食店のメニューは様々である。写真が乗っている場合や文字だけの場合とありどちらも好奇心をそそられ食欲もそそられる。
そんな事を考えているとあっという間に店に着いた。
【鉄板焼き屋じゅうじゅう】
分かりやすい名前だ。数十年経営し地元民に親しまれている。建物こそ新しくなったが味は昔のままだとこの地域の古参は言う。それには彼女も賛同する。しかし、そうは言っても十七年程の人生を送る彼女。この店はもっと古い。始祖の頃の味は分からないだろう。それでも、意識をはっきり持った頃と変わりが無いと実感している。
店に入ると丁寧な挨拶で迎え入れてくれる。そして、彼女たち家族を確認すると少しだけ談笑し座敷に案内される。
「さて、何にしようかな。」
「そうね、どうしましょう。」
父と母が食事を選んでいる。彼女にはそれは必要ない。車の中で決めていたから。
「私は、広島焼きとご飯のセットにしよう。」
「そうか、じゃあ僕は大阪焼きにしようかな。もちろんご飯も一緒に。」
「私は瑞希と同じにしようかしら。」
そうして、注文はあっさりと決まりしばし待つことになる。余談だがここの家庭はお好み焼きとご飯を一緒に食べる。いつかのシチューと同じだ。抵抗は無い。むしろ、抵抗をする人に抵抗感を覚えている。
しばらくして、注文の品が運ばれてきた。座敷には鉄板が付いていない為、調理された状態で出てくる。とてもいい匂いがする。ソースの少し甘く酸味を含んだ匂いに野菜と肉が炒められた時に生み出す旨みと言えばいいのか定かではないがその旨みの匂いを纏ったお好み焼きが鼻腔を刺激し空腹感と食欲を強制的に増進させる。隣に置かれたほかほかのご飯と白味噌の味噌汁も重要な要素なのだ。
「うん、今日も美味しそうだ。それじゃ、食べようか。」
「いただきます。」
「いただきます。」
挨拶をし食事を始める。先ずは味噌汁だ。一口だけ口に含む。出汁と白味噌の女性的な部分を堪能する。これで脳と口と胃袋が完全に食事の体勢を取る。広島焼きは薄い生地にたっぷりのキャベツ。そして、表面がパリパリになった焼きそばと潰された目玉焼き。彼らのコンビネーションは凄まじい。その凄まじさを更に格上げする甘めのソース。もう無敵だ。一口サイズに切り分け口に運ぶ。
「んーおいしい。」
思わず恵比須顔。こればかりはしょうがない。人間の条件反射とでも言えばいいのだろう。余り感情を表情に浮かべない彼女でさえ美味しいものを食べたときはこうなってしまう。父や母に目をやるとまったく同じ表情を浮かべている。そして、この美味しい食事に楽しさを織り交ぜるモノがある。会話だ。今日何があったとかそんな会話。単調で単純なモノだがそれで十分なのだ。複雑なモノはいらない。必要ないのだろう。きっと脳がそれを拒否し連想させないように制御している。更に楽しい食事の会話には善意の共通点がある。人の悪口がそこには無い。会話と言う行動には多かれ少なかれ多少の悪口と言うものが発生する。しかし、楽しい食事の中にはそれが無い。だから、本当の意味での楽しい食事なのだろう。
食べ進めるにつれ体は満足をする。しかし、それはこの旨みとの別れを意味し寂しさを生む。当然と言えば当然だろうがやはり寂しい。しかし、それは一時に過ぎない。最後の一口を食べる時には圧倒的な満足感が体中を巡っているから。
食事は終わりしばしの休息をし幸せの気分の中で店を後にする。車に乗り込み帰路に付く。車窓から見る外の世界は暗く水分を帯びている。そこに人が作り出した光が乱反射をしプリズムに輝く。何も考えず光の遊びを観賞する。その時間は短くても濃密で濃縮され安息を彼女に与えている。
車は家に到着する。帰ってきた。心地よい時間だった。家に入ると父とリビングで寛ぐ。母は風呂を沸かしに浴室へ。十数分で風呂が沸く。今日の一番風呂は父だ。彼女は次。急ぐ用事もないのでそのまま自分の入浴の順番になるまでテレビを観賞する事にした。やはり、風呂はすぐに沸き父が入浴をする為に席を外す。母と適度な会話をしながら待つ。そうして、十数分で父が入浴を済ませリビングへ戻ってくる。
「上がったよ。」
「うん、それじゃあ入っちゃうね。」
一言だけ告げ彼女は浴室へ向かう。服を脱ぎ入浴をする。僅かに汗ばんだ体に掛け湯をし湯船へ。全身の筋肉が熱を感じ緩む。すると、どうしても声が出てしまう。
「ふぅ、気持ちいい。」
目を閉じ何も考えない。ただただ、温度と水圧を感じその世界に浸る。頭の中では幾つもの映像や音声が再生される。そして、消えていく。これの繰り返し。眠っているのではない。だから、夢とは違う。意識をはっきりと持っている。体や髪の毛を洗う作業も控えているのだが今しばらくはこのままで。時間にして十分程度だ。彼女は目を開く。意識は先程よりも鮮明になっている。一先ず湯船から上がり体と髪の毛を洗う。優しく優しくだ。それが終わると再び湯船に浸かり目を閉じる。今度は長くその世界に浸る。満足いくまでと決めているのだが体が追いつかない。心臓の鼓動が早くなるのを感じ彼女は目を開きその世界から身を引く。この次にこう言った世界に浸るのは眠りの時間だ。違うが似ている。意識を保ち続けられるか寸断されるかの差しかない。それも、いいと彼女は思っている。
風呂から上がるとリビングで冷たい麦茶を飲む。火照り乾いた体に染み込む感覚。
「はぁ、もう一杯。」
再びコップに注ぐ。今度は急いで飲み込まない。ソファに座りテレビを観賞する。母は彼女と交代で風呂へ入る。今度は父と二人。会話は少ない。父親は昔かたぎで頑固な人ではない。寧ろ逆である。柔和で温和な人だ。話さなくても間が詰まらない人なのだ。それは親子だからと言うのもあるがきっとそこだけではない。職場でも父はこう言った感覚を回りに伝染させているのだろう。彼女はこんな雰囲気が好きだった。のんびりとした時が流れている気がして。
しばらくして母が入浴を終えリビングへ帰って来た。そして、そこから親子三人でテレビを観賞し会話を楽しむ。そうしているといつの間にか時間は二十二時を向かえていた。
「もうこんな時間だ。僕は寝るよ。」
「はい、お休みなさい。瑞希も寝なさい。」
「うん。それじゃあお休みなさい。」
父と彼女はそれぞれ寝室へ向かう。母はまだやる事がある様だ。明日の朝食の準備やお弁当の準備。これをやっておくといざ朝食や弁当を作る時に時間の短縮になると母は言う。朝は何かと忙しいと言うのは本当だ。それは、寝起きと言う状態も大きく尾を引いているのだろうが遅刻と言うモノが緊迫感を心に与えている。その二つの物事が朝の忙しさの正体なのかもしれない。
部屋に戻った彼女はベッドに入る。部屋を暗くし音楽を聴く。一日の終わりはいつもこうだ。心がだんだんと静かになっていくのを感じる。心地いい時間だ。人の心を少しだけ読むことが出来る彼女。多分、他の人よりも気疲れが多い。そんな心の疲れを癒してくれるこの時間はとても大切だ。呼吸をゆっくりと大きくする。手先足先に溜まった熱がだんだんと体に流れ込み全身を暖かくする。夏はすぐそこまで来ているが夜は少し肌寒い。薄い夏用の布団を胸元まで掛け静かに優しく眠りの入り口に歩みを進める。
そうして、入り口まで来たところで音楽を止め本格的にその世界に突入する。彼女の好きな世界の一つ混合と反比例をし続けその瞬間だけが現実化する面白い世界。そして、この日もその世界とはすぐに別れる事になる。時間にすれば長時間だが体感的には瞬間だ。
梅雨明け待ち遠しいこの日は珍しく朝からスッキリと晴れ渡っていた。いつも通りの時間に起き、いつもと同じ工程をこなし学校へ。ここでもいつもと同じだ。自分の席で時間が来るまで大人しく外を眺める。そんな事をしているとあっという間にお昼休みになった。
「今日は久しぶりに晴れたから中庭で食べよう。」
彼女が外で食事をするのは珍しい。年に数回ある程度だ。この梅雨空続きの世界にぽかんと現れた青き空に心が躍ったのだろう。お弁当を持ち教室を後にする。目指す場所は中庭と呼ばれる場所。ベンチが数台あり思い思いの時間を過ごせるちょっとした癒しスポット。今日はきっと気持ちがいいはずと僅かに足早になる。
中庭に到着するのに掛かる時間は【掛かる】と表現するには程遠い。すぐに到着する。数人の生徒がベンチに座り食事を取ったり話していたりと多様な時間を過ごしている。運よく空いているベンチが有った。
「へへ、よかった。」
そこへ座り軽い伸びをしお弁当を開く。今日の献立は白いご飯に唐揚げにほうれん草のバター炒めにナポリタン。お弁当全体はどれも小ぶり。語弊を生む表現かも知れないが【女の子的】なお弁当である。
「いただきます。」
そうして、ゆっくりと静かに食べ始める。夏間近の風が吹きぬける。木陰に位置する彼女には心地よい。空を見上げると青と白。灰色ではなく青と白。濃密で爽快な時の流れは心だけではなく味覚をも向上させる。いや、正確に言えばこの世界で食事を取れると言う状況も好意的な感情と感覚の向上に拍車を掛けているのだろう。
「うん、おいしい。」
ポツリと独り言。時折、咀嚼をしながら青を見上げる。そこには不安や悲しみは無く只、突き抜ける爽快がある。心が安らぐ。そうしているといつの間にか食事は終わった。
「ごちそうさまでした。」
挨拶をし空になった弁当箱を包み袋へ入れる。時間はまだある。しばらくここでのんびりしようと思った時だった。
「瑞希?」
名前を呼ばれる。振り返らなくても改めて確認しなくても分かる。綾香だ。
「珍しいね、お昼ここで食べてたんでしょ?確かに久しぶりに晴れたからね。」
「うん・・・。」
綾香の周りには数人の女子生徒がいる。どうやら購買で昼食を買いここで食べる様だ。
「えっと・・・瑞希はお昼食べちゃったんだ。」
「うん・・・。」
「そっか。それじゃあさ、お昼休みが終わるまで何か話さない?」
綾香はぎこちなく誘導する。それは、綾香の優しさ。彼女が自分を避けていると知っていてもこうして半ば無理やりにでも何か行動を起こそうとする。しかし、答えはいつも決まっている。
「ごめん、もう戻らないと。それじゃ。」
「あ・・・うん、分かった。」
綾香の気持ちは分かっている。純粋に綺麗に彼女と繋がりたい。もう一度繋がりたい。だけど、それでも彼女は綾香を避ける。それには申し訳ない気持ちもあるがやはり根底にあるものは裏切られる不安。それは、とてつもなく強い存在となっている。
彼女は行ってしまった。そんなやり取りを見ていた綾香の友達は言う。
「綾香って長谷川さんと仲いいの?いつも誘っては断られてるよね。あの子ってなんか誰に対してもあんな態度だよね。」
少しばかりの悪口。
「でも、瑞希はいい子だから。悪気はないの・・・そう、彼女は悪くないの。」
綾香も青を見上げる。その青は綾香には眩しすぎた。
こうして数日が過ぎる。学期末テストを終えいよいよ学生全員が待ち望んだ夏休みに突入する。梅雨が明け本格的な夏の世界へと日本国内は入り込む。
蝉が朝早くから鳴いている。今やこの声が目覚しとなっている。しかし、休みと言うのはゆっくりと眠りたい。なので、この蝉の声はやはり不快となる。ただ、蝉にとってはとても大切な事であり彼女もそれを理解している。
時刻は八時過ぎ。彼女は目を覚ます。いつもと同じ様に歯を磨く。朝食も取るがそこはいつもと違いゆっくりと朝のワイドショーを見ながら食べる。頭では何をしようか考える。取り合えず出された宿題を全て夏休みの前半に終わらせようと。彼女は、今までずっと長期の休暇になると出される宿題を先に終わらせると言う優等生ぶりを発揮している。前半に全ての面倒ごとを終わらせようと誰もが決意する事なのだがそれを遂行できる人は一体どれだけいるのだろうと考えさせられる程に少数ではないだろうか。立てられた多くの決意はその志を成就できない。それは、長期休暇に秘められた魔力がそうさせているのだろう。
朝食を終え、部屋に戻り宿題に取り掛かる。音楽を流し心地よく鼻歌を歌いながらサラサラと進めていく。根を詰め過ぎないように適度に休憩を挟みきりがいいところで宿題を終える。正確なペース配分はできている。だから、心にも猶予が産まれる。
昼前になり彼女は昼食の仕度を手伝う。毎日とは行かないがやれるときはやる。学校がある時は、母は自分一人の食事を用意すればいいが今は夏休み。一ヶ月以上の休み。当然、作る量も増える。大変なのは分かる。だから、手伝える時は手伝おうと彼女は決めている。
「今日はチャーハンと冷凍餃子ね。えっと、餃子を焼くのお願いね。」
「うん。任せて。」
彼女の隠された特技。家族しか知らない特技。餃子の焼き方がとても上手い。餃子大臣と言う役職をこの家の中で任されている程にだ。あっという間に昼食は出来上がる。そして、あっという間に食べ終わる。
午後からは何をするのだろう。本を読むのもいい。しかし、彼女はこの夏、始めようと心に決めていた事がある、それは、彼女が大好きな存在である
【本】
そう、彼女はこの夏に自ら小説を書こうと決めていた。媒体は父からのお下がりのノートパソコン。どんな物語にするか、構成はどうするかとかはまだまだこれからだ。漠然とした小説を書こうと言う意識しか持っていない。それでも、ワクワクする。書き終えた時の事を想像してしまう。ただし、書き終えた事の想像は本当にやりきったと言う気持ちを持っているのだろうと言う安易なものだが。
部屋に戻りベッドの上に寝転がり窓から見える夏の空を見つめる。何処から何を得て話になるのか。それは、彼女の興味を引いたもの全てが話になりえる。頭の中は混雑地区と平穏地区で別れている。どちらの地区からもまだ声は上がらない。上がるのを彼女は待っているし気が付くべきだとそう思う。
こうして、寝転がり空を見ているうちに何時しか眠りについてしまった。眠りの最中に夏の暑さで汗をかきその汗が夕方の空気に冷却される温度差で彼女は目を覚ます。
時刻はあと数十分で夕食と言うところまで来ていた。
「あ、結構寝てたんだ。」
思いがけない睡眠を取った時に人は多少なりの後悔をする。ましてやそれが限られた短い休日だったら尚更だ。しかし、今の彼女に後悔はない。その大々的な要員は夏休みと言う事実。少数は脳内がスッキリとしていたと言う事だった。
「おなかは・・・空いてる。ハハッさっき食べたばかりなのに。」
若いうちは寝ていても腹が減ると言うのは本当らしい。適度に胃袋が軽く食物を求めている感覚がある。僅かだが夕食のいい匂いが彼女の部屋にも届いている。この匂いから察するに今晩は麻婆豆腐だろう。辛いものは苦手だが辛味がなさ過ぎても嫌だと彼女は言う。
リビングに下りると珍しく父が既にソファで寛ぎテレビを見ていた。
「あれ?今日は早いね。」
「うん、たまのラッキーってやつさ。ん・・・今まで寝ていたね。」
「なんで分かるの?」
「それは君が僕の娘だからさ。」
父はそう言い笑う。本当に何で分かったんだろう?父には彼女の様な特殊能力はない。いや、あってもなくてもこう言う事は能力とかそう言った類で片付けられるモノではないのだろう。しかし、今の彼女ではその考えやその感覚にたどり着く事はできないだろう。
父の横に座り一緒にテレビを観賞する。夕食の仕度は既に整っている。あとは大皿に麻婆豆腐が乗せられ運ばれるのを待つだけだ。
数分が立った。麻婆豆腐が運ばれる。そして、父と彼女は母に呼ばれ食卓に着く。声を合わせ挨拶をし、食事を始める。会話と言ったらなんだろう?特に大きな話題がある訳ではないが行う。そうして、食事は終わる。この後には入浴が待っているのだが食事休憩を予てテレビ観賞をする。胃袋が落ち着いたところで入浴をする。そして、部屋に戻り就寝。結局、この日は殆どの前進は無かった。それでもいい。彼女は焦りを感じたくない。のんびりと流れる風の様に意識を保ち話を書きたい。だから、全てが前進で無くてもいい。停滞も必要だ。後退も必要だ。しかし、全てが終わった時、全ての流れが前進であると思うだろう。それは、話に「終」の文字を入れた時に感じるのだろう。
そうして、数日が過ぎる。彼女は宿題を粗方終わらせていた。言い訳がましくなるがこれで本格的に小説作りに身を浸透させる事が出来る。そして、その浸透作用を生み出し最もな核となるモノを彼女は探す。それは、外への散歩と言う形で探索すると言う選択。
夏の真っ只中だ。当然、熱中症対策と日焼け対策を施し外に出る。行動範囲は自宅から1~2キロ圏内。殆どご近所と言う狭い範囲だ。しかし、そこには公園もあるしいつもの商店街だってある。
本日は公園。大きな公園だ。芝生広場や大きな遊具広場。日にちを問わず朝から夕方位までジョギングをする人や遊具で遊ぶ子供などで静かだが賑わいを見せる。そして、沢山植わっている桜の木。春には一大お花見スポットになる。
そんな公園をのんびりとキョロキョロと歩く。
「日陰は涼しいね。こうやって日陰を上手く作れれば冷房なんていらないのかも・・・。でも、私は現代人だから冷房に縋っちゃう・・・。」
彼女の言った事はある程度だが当たっている。よくお年寄りは昔は冷房なんて無かった。だから、冷房を使わない。と言う人が多い。それもそうだろう。今よりも少し前の時代。地球温暖化なんて叫ばなかっただろう。そして、地面もアスファルトではなく土だった。確実にこの現代よりも涼しかったはずだ。しかし、時は流れた。気候の変化は確実に人間の生活の変化と密接に関与している。つまりは、猛暑が多発すると言う時代になった。だから、冷房に縋ってもいいのだし縋るべきだと思っている。ただ、そこに縋りすぎるのも否定すると言う矛盾が頭の中では発生している。
「この暑さの中でもちびっ子は元気ね・・・。」
少しだけ昔を思い出す。本当に少しだけの昔を。
彼女は公園内を歩く。青葉が満載の桜の木の下を。芝生広場のベンチに腰を掛け昼食を取るサラリーマン。本当に面白い。この範囲だけでも国の縮図と言うモノが見え隠れする。彼女に取ってそれは揶揄ではなくただの興味。ぼーっと眺める。そして、脳内で思考する。この思考は彼女の意識と意思で行われているモノではない。脳の隅で自然と曖昧に行われていた。
「やっぱりスポーツドリンクの方が良かったかな?」
片手で飲める程度の水筒。中は冷たいレモネードだ。少しずつこまめに水分補給をする。一時間半程公園内を歩き帰路に付く事にする。お腹はペコペコだ。家には昼食が用意されているがコンビニの魔力には勝てない。
「えっと、コーヒー牛乳とお煎餅と・・・。あ、アメリカンドックがある。うん、そうしよう。」
そうなのだ、コンビニに於いて最も魔力を放つ物。それは、レジ付近にあるファーストフードだろう。唐揚げに始まりコロッケに至る。ましてや、寒くなると決まって登場するおでんと中華まん。このツートップは特に魔力が強い。彼女はコンビニに行くと必ずこのレジ付近の魔物の魔力に犯されてしまう。
買い物をし家までゆっくりと歩く。もちろんアメリカンドックを食べながらだ。
「あそこのコンビニはケチャップだけのがあるから嬉しい。」
コンビニでケチャップと言えば大体はマスタードも付いてくる。食べられない訳ではないが苦手なのは確かである。家に到着する頃に丁度食べ終わった。
「ただいま。」
玄関を開けるといい匂いがしない?いや、昼食は用意されている。だとすればと彼女は思考を巡らせる。そして、ダイニングキッチンへたどり着くと考えた通りのメニューが待っていた。
「お帰り。熱いから冷やし中華にしたわ。」
「うん、大好き。」
冷やし中華と言う夏限定の人気者。中華と名乗っているのに日本産まれ。ナポリタンとは親戚か?魅力が多い彼の最大の魅力はツンとした酸味。ただ、その酸味は心地よい。本当によく出来ている。そんな、冷やし中華が大好きだ。
「いただきます。」
「いただきます。」
ズルズルと音を立てて食べる。おいしい。つい先程アメリカンドックを食べたのにおいしい。錦糸卵とキュウリとハムとシンプルだ。あっという間に食べ終わり、彼女の午後が始まった。
そうして、こう言った毎日を過ごす。季節は八月になっていた。宿題も全て終わる。ただ、小説の方は思考が現実になっていない。それでも焦りはない。何故なら大切に大切にしたいと思っているから。
本日は八月四日。晴天なり。つまりは猛暑。だからと言って小説の素材集めをサボるわけにはいかない。とは言っても厚さには敵わない。本日は図書館でインスピレーションを耕す事にした。
図書館の中は別世界だ。暑さに犯されることもなければ蝉の騒ぐ声に耳を傾けることもない。静かで快適な空間がそこにある。人の心の声も静かだ。それは、本と言う媒体に集中しているからだろう。彼女は一人掛けの席に付き本を読む。小説ではなく歴史書だ。彼女の頭の中には歴史と言う題材を話にしようと薄く固まっていた。
時間はゆっくりと流れていく。集中して本を読む。彼女は歴史の世界と妄想の世界に耽っていた。そんな世界に来訪者が現れる。
「あれ?瑞希じゃん。」
「え?あれ・・・春幸君。」
彼女の世界の来訪者。望月書店の息子である春幸だった。彼も図書館に来ていた。
「宿題か?」
「違うよ。ちょっと暇つぶし?かな。」
小説の事は言わない。確かに彼にも見てもらいたい気持ちがある。しかし、それを言ったら期待をされ自身の焦りに繋がる可能性があるからだ。暇つぶしと言う言葉に春幸は反応を示す。
「そうか。だったらさ俺の宿題手伝ってくれよ。瑞希って古典とか得意だったよな?」
その申し出。どうするかと少し考えるも小説の方も焦る必要はない。快く承諾をする。
「いいよ。だったら向こうに移動しよう。」
「サンキュー。助かったよ。」
こうして広い席に移動し春幸の宿題を手伝う事になった。
「そうね、ここはレ点があるから。」
「なるほどね。それじゃ、ここはこうなる訳か。」
スラスラと宿題は進む。時間もそうだ。時報がなりあっという間にお昼だ。
「もう昼か。瑞希はどうするんだ?」
「私はお弁当持って来たから向こうで食べようと思ってるんだけど。」
「奇遇だな。俺もだ。ただ、どうせだから外の日陰で食べないか?ずっと室内にいると疲れる。」
「うん、いいよ。」
そうして、図書館に隣接している公園の日陰のベンチで昼食を取る事になった。
「何持って来た?」
「いつも通りのお弁当って知らないね。えっと、梅干のおにぎりと昆布のおにぎり。おかずは唐揚げとほうれん草のバター炒めにコロッケ。ただ、全部冷凍食品だけどね。」
「何言ってるんだ、冷凍食品は美味いじゃないか。自分で作ったんだろそれ。」
「詰めただけだけどね。」
「偉いよそう言うの。俺なんてコンビニのおにぎりとコンビニの唐揚げだぞ?」
「でも、それも美味しいよね。」
「まあな。それじゃいただきます。」
「いただきます。」
こうして食べ始める。食事の最中に一言二言会話をする。黙っている時間の方が長い。ただ、気まずくはない。平穏と言う言葉がしっかりと当てはまっている。風の流れる音。風が運ぶ清涼感。加速した時間はまた愚鈍になっていた。
決まった時間は無いが食事は終わりを告げる。少しの休息を取った後に再び図書館に戻り少しだけ宿題の続きをした。
時刻は夕方少し前になる。図書館を出て帰路に着く事に。
「今日はありがとな。」
「いいよ。暇だったし。」
「そうか。それじゃあ明日も手伝ってくれない?」
「え?いいけど図書館で?」
「そうだな、そうするか。」
「分かった。」
こうして、彼の宿題を手伝う事になった彼女。それは少し嬉しい出来事だった。しばらく歩くと分かれ道。彼女の家と彼の家の分かれ道。
「じゃあな。明日はよろしく。」
「うん、えっと・・・。」
何かを言いかけて止める。そして、改めて言葉をまとめさよらなを告げる。
「バイバイ。」
「ああ、じゃあな。」
別れる二人。背中を向けたままだ。夏の暑さは和らいだ時間。全てが心地良い。この時、彼女の頭の中から小説と言う言葉は消え失せていた。
家に着いた。夕食まではまだ少しある。汗をかいているので先に風呂に入る。ゆっくりと今日の事と明日の事を考えながら湯船に浸かる。鼻歌が自然と出てくる。気持ちは高揚してた。
風呂から上がると彼女は夕食作りの手伝いをする。本日の献立は親子丼だ。出来上がりはあっという間なので最終工程は父が帰って来てからになる。なので下ごしらえを済ましお味噌汁とサラダを作る。ここから数十分後に父は帰宅し食卓を囲む事となる。
全てが終わり彼女は部屋に戻ってきた。窓からは夏の夜の風が流れ込んでいる。春幸からの急な依頼で小説制作はまた愚鈍化を余儀なくされた。それでも数日の事なのだろう。
彼女は学校へ行っている時よりも少し遅い時間に眠りに付く。ただ、寝る前の音楽観賞は止めない。止められない。これは癖と言うか子守唄なのだ。
そうして、朝が来た。いつもよりも少し早く起きる。それはお弁当を作る為。もちろん春幸の分も。母親も喜んで手伝ってくれる。今日は彼女主体のお弁当。おかずは同じだが量が違う。おにぎりも大きい。そのお弁当を持って彼女は家を出た。
この日も太陽は元気一杯だ。彼女もそれに負けてはいない。子供の様にはしゃいで歩くという訳ではないが元気がいいと言う事は見て取れる。白いトートバックには筆記用具とその科目の教科書。通っている学校は違うが大体どこも同じような授業内容だ。何等問題はない。そして、大きなランチバック。二人分のお弁当が入っている。待ち合わせは図書館前でその時刻より少しだけ彼女は早く到着した。
「春幸君もう来てる。」
そう、彼女よりも早く来ていた彼。ただ、ほんの数分前に到着した。小走りで駆け寄り手短に話す。もちろん、お弁当の事も。その話を聞いた彼は笑顔を見せて礼を言った。
図書館に入った二人。今日は科目は歴史だ。指定された人物の中から一人を選びレポートを制作すると言う宿題だ。参考書を持ち寄り小声で僅かに会話をしレポートを仕上げていく。集中して作業を進めているせいかあっという間に時間は立った。
「おっと、昼のチャイムだ。」
「ふぅ、お昼までに大体は出来たね。」
「サンキューな。はー腹減った。」
「ね、それじゃあお弁当食べに行こう。」
そうして、外のベンチスペースにお弁当を食べに向かった。木陰のベンチで仲良く座って食べ始める。
「いただきます。」
「いただきます。あれ?このお弁当って。」
春幸はそのお弁当のおかずを見て気が付いた。そうなのだ。本日のおかずはすべて手作り。
「うん、今日はお母さんと一緒に作ったの。春幸君にお弁当を持っていくって言ったら張り切っちゃって。」
可愛らしく照れ笑いを浮かべる。春幸も笑顔になる。
「そうだったのか。なんか申し訳ないけどすごく嬉しいよ。どれも旨そうだ。」
「よかった。お母さん喜ぶよ。」
「ありがとな。それに、瑞希もありがとう。」
お礼を言われると妙に体がムズムズする。それは、彼の心が読めないと言う事もあるのだろうか?心が読める人の中には社交辞令で述べている人も大勢いてそれを否定する訳でもないが、やはり心が読めてしまうとどうしてもお礼と言うものに僅かばかりの警戒心を抱いてしまう。
「うん、この厚焼き玉子旨いよ。俺は甘いのが好きだからドンピシャ。」
「あ、私もそうなの。甘い方は美味しいよね。」
「そうだよな。ただ、俺のクラスは甘い派が圧倒的に少ない。」
「確かに出汁が効いてるのも美味しいけどね。」
厚焼き玉子の次はおにぎりだ。ちなみに中身は梅干しと昆布で海苔はパリパリ感を楽しみたいので後巻きスタイル。
「うんうん、このおにぎりも旨い。やっぱり梅干しだよな。コンビニでおむすびを買うってなったら梅干しは外せない。」
「私はツナマヨもだけど。今日は海苔がパリパリだけどしっとりも美味しいよね。」
「それすごく分かるよ。なんか良いんだよなあれ。」
食べ物の好みが近い。それは、彼と彼女がごく一般的な人間だからなのだろうし幼馴染だからと言う事もある。楽しい食事の時間はあっという間に終わりを告げる。少しの休息を取り再び館内に戻り残りを片付ける。全てが終わった。
「サンキュー。助かったよ。」
「いいよ。」
現在の時刻は十五時過ぎだ。少しだが時間はある。
「瑞希は時間大丈夫か?」
「うん、なんで?」
「ここまでしてくれて何にもお礼しないのも悪いだろ?だから、時間があるなら商店街だけど何かごちそうさせてくれ。」
そんな申し出だった。彼女には断る理由も無いため喜んで受け入れる。
「いいの?私、たっくさん食べるよ。」
少し意地悪く言ってみる。
「う・・・そう?ま・・・まあ、大丈夫。」
「アッハハハ嘘だよ。でも、お言葉には甘えさせてもらいます。」
そうして、二人で商店街へと向かう。図書館との距離はそこまで離れていない。のんびりと歩く。適度な話をしながら歩いているとあっという間に商店街へと到着した。彼は彼女の前に立ち手を広げ言う。
「さて、どうする?お惣菜だったら田所さんでコロッケとかメンチだったら斎藤さんだよな。お菓子は安藤さん。どれでもいいぞ。知ってると思うけどみんな美味いからな。」
「それじゃあコロッケと鶉の卵のフライに白あんの最中。」
それぞれのお店で買える食べ物だ。彼の言う通り全部美味いし大好物だ。彼は彼女の言葉を聞くと笑ってうなずく。
「いいチョイスだ。俺もそれにするか。」
「ごちそうになりますね。」
そうして、それぞれの店での買い物を済ませ商店街に設けられた休憩所で買って来た物を食べる。
「いただきます。」
「どうぞ。うんうん、やっぱり斎藤さんのコロッケは絶品だ。」
またここで会話をする。少ない食べ物だ。しかし、会話を織り交ぜ軽食と言う名の食事を楽しんでいると彼女は気が付いた。
「なんだか寂しくなったね。」
「気が付いたか。そうなんだよ。この商店街にもさ時代の波ってのが押し寄せてるんだよな。」
そう、彼女はやっと気が付いたのだった。彼女の心にあった商店街と現実世界の商店街は全く異なっていると言う事に。今まで全く気が付かなかった。大好きな商店街の変わり様にだ。彼女の脳内にあるのは煌めいていた記憶。賑わっていた商店街。もちろん、今だって賑わってはいる。ただ、それは過去の世界と比べるには余りにも空しい。気が付かなかったと言う事実と煌めきが解かされていると言う事実。何より人の礎が薄れてしまったこの場所に心が寂しくなった。
「そうなんだ。私気が付かなくて。」
悲しそうな表所を彼は読み取る
「とは言っても数年前よりは良くなったんだぞ。みんな頑張ってどうにかしようってさ。」
「・・・。」
彼女は何も言えない。ここにはよく来ているのに気が付かない。そんな彼女に言う資格が無いとさへ感じていた。それが正しい感覚のか間違った感覚なのかは誰にも分らない。
「これからが勝負って感じかな?俺はまだ高校生だからそこまで役に立てる訳じゃないけどさ。」
はにかむ彼に彼女は少しだけ劣等感を感じてしまった。だけど、それは彼の前向きな希望をそこに見たからだった。
「その気持ちが・・・気持ちが大事なんだよきっと。」
俯いて言葉を発した。この時の心は悲しみや罪悪感などではなく恥ずかしかったからだ。
「ハハハッそう言ってもらえると素直に嬉しいな。ここのみんなもその言葉で喜ぶし力が出るよ。」
無邪気に笑うその顔は夏の鬱陶しさを払い飛ばし夏の爽やかさを育んでいた。そうして、数十分が過ぎ少しだけ夏の赤に黒が混じりだした。
「もう帰らないと。」
「ん、そうだな。すっかり話し込んじまった。楽しかったか?」
「うん。」
そうして彼女は彼と別れる。気持ちはウキウキと跳ねているが足取りはゆっくりとそのウキウキを噛み締める様に。家に着いてからも気持ちは弾んでいる。夕食がいつもより美味しく感じられお風呂も心地よかった。こんな気分で小説を書いたらどんなに素敵な物語が出来るのだろうかと想像するも彼女の小説の骨格であるテーマは何も決まっていない。そこだけがとてつもない痛手ではあった。
「・・・。」
机とパソコンのに陣取る。背もたれに体重を掛け天井を見つめる。そこで考えるのは今日の出来事だった。彼の事や商店街のことが頭の中をグルグルと輪廻する。そうしていると落ち着いてきたあの高揚感が蘇ってくる。それをしばらく繰り返す。
「・・・。」
何も発せずじっと天井を見つめ輪廻を楽しんでいると急激に出口にぶち当たった。突然だった。彼女の見る目ている天井が煌めきと共に弾け高揚感で熱を持っていた脳内の温度が急激に低下する。そして、何をすべきかを瞬間的に悟る。目の奥にチカチカする小粒の塊が光り彼女は言葉を発した。
「・・・これだ。」
一言ポツリ。体を起こしパソコンの画面に目を向けキーボードを僅かに叩く。
「うん・・・これだ。」
全ては瞬間だった。あれ程霧掛かっていた世界に突風と灼熱が流れ込んだ。そうして、その世界は蒼天に恵まれる。鳥が羽ばたき優し風が吹き込んだ。
なんだか嬉しかった。楽しかった。そして、彼女の人生において薄れていた希望と言う言葉と形がはっきりと感じられた。
彼女は言葉を失う。発する言葉を失う。今の世界にある音は彼女の言葉以外だ。それでいいしそうなって当然。この音の感じられない世界は夜中まで続いた。
翌日も彼女は朝から音のない世界で自分の世界を表現する。朝から夕方。そして、夜までだ。もちろん食事や風呂など生活動作に至っては世界から脱する。これはあの世界に浸りすぎない様にする為の意識的に起こしている行動だ。その意味は世界の分別でありその分別があの世界への懐かしさに拍車を掛け世界を広げるリズムを産んでくれるからだ。
こうして、数日が経った。今日は登校日。夏休みの中で一日だけある日だ。授業は無く何の為にあるのかはよく分からないが行かないと言う選択肢はない。静かにいつも通りに自分の席に居ればいい。その間もあの世界を頭の中で作っていけばいいと考えていた。
彼女の予想通り静かに席に着き世界を考えている。周りはここまでで何があったのかとかそう言った話をしているのだろうが耳には入らない。彼女の耳に届くのはこの日が終わる音。それは、声なのか単純な音なのかは定かではないがそれのみが彼女の耳に入ることだろう。
想定道理と言うのか待っていたのかこの日を終える音が響き彼女はこの場から逸脱した。いつもの通りバスに乗り商店街を目指す。
時刻は昼過ぎだ。だから、お腹も減る。今日の昼食は商店街のお惣菜巡りと決めていた。顔なじみの店で色々な惣菜を買い込む。もちろん一人で食べる訳ではない。家にはこれまたお腹を空かせた母親がいる。彼女の分も買わなければならない。だから全ての買い物が終わった時はそこそこの大荷物になっていた。
「少し重いね・・・。」
ポツリ呟いた時だ。背後から声を掛けられた。
「瑞希?」
振り返るとそこにいたのは綾香だった。
「・・・。」
何も言わずにジッと・・・。
綾香は近づく。彼女は距離を取ることはしないが歩み寄ろうともしない。
「そんなに食べるの?」
「違うよ・・・お母さんの分もあるの。」
「冗談よ。今から帰るんでしょ?だったら途中まで一緒していいかな?」
「・・・ごめん。」
「そっか・・・。」
そうだった。これが決まりだった。彼女の気持ちは・・・心の中にある思いと言葉は分かっている。それでも、自分の心は頑なに動かないし開こうとはしなかった。
熱の世界を静かに歩く。暑さが支配しているこの世界で彼女は暑さを感じていない。それは、涼しさでもない。そこにあったのは、冷たい塊だけ。それも、家へ戻り母親の顔を見ればその塊も溶けて何も残らなくなる。
少し遅い昼食を済ませた彼女は黙々と小説を書く。日課と言えば堅苦しくなるがそれ程までに彼女は憑りつかれていた。時間を忘れてずっとずっとカタカタと言う音が空間に日響く。小説の憑依を覚ましてくれるのは決まって夏の夕刻の冷たい風。
その風を肌が自動的に感じ取り意識を取り戻す。
「何時?もうこんな時間なんだ。そう言えばお腹空いたもんね。」
鼻を利かす。仄かに漂ってくる夕食の匂い。匂いに特徴のある食べ物、カレーとかではない。ただ、空腹を呼び起こす匂いなことに違いはない。少しウキウキしながら階段を降りるとすでに父が帰っていた。
「ただいま。」
「おかえりなさい。今日は早かったんだね。」
「うん。」
この人はいつもそうだ。まっすぐに家に帰ってくる。本当に時々だ、同僚との食事をしてくるのは。家族を大切に思っていてそれでいて家が大好きなのだろう。なんとなくだが母が父を好きでいると言う事が分かる気がする。それは父が母に対しての気持ちも理解している証拠である。
談笑をしながら食卓を囲む。好きなことをやっているが凝り固まった鈍い感覚がこの時間でリセットされる。この後に待っている入浴で更地に戻った思考に新たな思考を与えてくれる。そして、産まれた感情と感覚と思いを言葉にして綴る。眠気と言う逆らえない波が襲ってくるまでは。寝ている間ももしかしたら物語が出来ているのかもしれない。しかし、それについては目覚めたと同時に忘れ去られる。いや、忘れ去ると言う感覚さえもない。夢を断片的に思い出しそれが、自分の物語で生きていくかどうかを薄っすらと考える。それだけが出来る事。
幾日が過ぎた。彼女の物語は中盤から終盤へて差し掛かっていた。
彼女の物語・・・それは、窮地の商店街を少しでも救いたいと願う男の子の話。彼は衰退していく大好きな商店街の状況を少しでも良くしたいと奔走する話。懸命で純粋で真っ直ぐな男の子のお話。そして、それを支える人。その繋がりを彼女は紡いでいた。
また、数日が経った。物語は終盤。
「ふぅ。あ、今日は一人だったんだ。ご飯買いに行かなきゃ。」
そうして、夕食の買い出しに向かう。今日は少し離れたスーパーマーケットに向かうことにした。
「今日は何か作ろうかな?]
出来合いの総菜ではなく自炊する事にした。野菜を品定めし献立を考える。とは言っても特別に料理が上手な訳ではない彼女。自分が作れるレパートリーと相談しながら悩む。トマトを見る玉ねぎを見る。答えは出た。
「本日のメニューはオムライス。」
玉ねぎを買い物カゴに入れる。人参もだ。卵とケチャップは家にあるからあとは鶏肉だけ買えばいい。それと、お菓子を少々。レジを通しバックに詰める。そして、店を出る。
「曇って来た。まずいな傘持ってないから・・・早く帰ろう。」
走りはしないが早歩きよりも僅かに遅い速度で家路を急ぐ。家までの距離が半分程になった時だった。
「あ・・・降って来た。」
夕立。ポツポツではなくザーッと言う強い雨だった。
「雨宿りしなきゃ。」
既に結構濡れているがこれ以上濡れない様に雨宿りをする事にした。ちょうどいい軒先がある。急いで駆け込む。
「ふぅ・・・濡れちゃったけど・・・。」
そう言いながらハンカチで腕と首を拭く。髪を濡らす水滴を払い落ち着く。空を見るとどんよりと黒い雲が張り付いている。しばらくの間はすっきりとした空との対面はお預けの様だ。
ザーッと言う雨の音。そして、そこから生まれるこんな時だけの特殊音響。それを楽しむ。雨は嫌いじゃないけど突然としてやってこられると困るものがある。少し経った時だった。彼女と同じようにこの軒先に飛び込んできた人がいた。
「あ・・・。」
「ん?瑞希か、奇遇だな。」
「うん・・・奇遇って言うか凄い偶然って言うか・・・。コンビニ?」
軒先に飛び込んできた人物は春幸だった。
「そうだよ。瑞希はスーパーか。急な夕立だもんな参った参った。」
「本当にね。でも、夏の夕方は仕方ないよね。」
「そうだけどさ・・・何も俺が買い物に出てる時に降らなくてもって思うけど。」
「それは、私も同じ。」
雨は降り止まない。二人の会話はたどたどしくも弾む。
「昔もあったな。」
「あったね。」
「俺と瑞希と綾香の三人で遊んだ帰りに土砂降り。軒先で雨宿りしたっけな。」
「その時は暇つぶしにしりとりしたよね。」
そんなに遠い過去・・・世界ではないがとても遠く感じる彼女。少し悲しくなった。
「夢中になってたらいつの間にか雨が上がってさ。なんだかその時って雨がもう少し降ってくれたらなって思ってたよ。」
「そうなんだ・・・確かに楽しかったね。」
「なかなか止みそうにないし・・・しりとりやるか?」
春幸は恥ずかしそうに彼女に提案してみる。彼女の答えは簡単だ。
「いいよ。」
そうして、会話の代わりにしりとりで言葉を交わすことになった。小さく小さい声でお互いに言葉を投げかける。雨の音にも声はかき消されない。互いの耳が言葉を全てつかみ取ろうと無意識に働いていた。
「たんぽぽ。」
「ぽ?ぽ・・・ぽ・・・う~ん。」
彼女は「ぽ」で悩む。そんな時間を過ごしていると雨が上がる。
「あ・・・上がったな。」
「あ・・・本当だ。」
「どうする?このまま続けるか?」
春幸の問いかけに少し考え答えを出す。
「ううん・・・宿題にさせて。なんだか今日はそうしたいの。」
「そうか。それじゃ次会ったときは綾香も混ぜてやろうな。」
「・・・・・・うん・・・きっとそうする。」
そうして、雨上がりの別れを経験した。彼女はウキウキした気持ちとしっとりと濡れている気持ちの両方を抱えながら家路についた。
入浴を済ませた後、買って来た食材で予定通りオムライスを作る。自然と鼻歌を交えて。
「よし・・・なかなか上手に出来たかな。それじゃ食べよう。」
彼女自身の評価が高いオムライスを食べる。そして、食事を終えるとまた日課である小説を書く。
何故だか今日は気分がいい。スラスラと物語を形成する言葉が生まれそれを形にしていく。こんなことは初めてだった。涼しい風が部屋に流れ込み肉体的にも心地良さを与えている。ただただ、静かに心の高揚を噛み締めそれを形にしていく作業。
何かに支配されている様でもあるし支配を求めている様でもあった。
物語は終盤だがどんな展開が待っているのかは彼女自身も分かってはいない。ただ、スラスラとその物語は進んでいく。それに連れて彼女のウキウキとした気分は平熱まで下がる。見えない終わりと見えてない終わりが薄っすらだが見えてきたからだ。そんなことが頭の中でつかみ取れると彼女の熱は平熱以下になる。
「終わっちゃうのか・・・。」
ここからは親の様に・・・子供が巣立っていく姿を見守る親鳥の様に静かに静かに丁寧に慎重に物語を作っていく。風を肌で細かに感じる。気温にも敏感に反応する。しかし、それは同時に鈍化しているとも言えた。
「・・・。」
物語は春風に入る。新しい季節を迎える。出会い・別れ・始まり・・・そうした初々しく瑞々しい淡く煌めく時に流れを映した。それはいったい何なのか・・・簡単だった。
「・・・。」
雨の日・・・物語の彼は雨を避ける。そこにやってくる女の子。自身の夕方と重なる。いや、勝手に重なった。意識しないところでそう紡いでいった。
「・・・。」
自分で生み出した物語。生み出した人物たち。彼らは自らの意思を持っているかの如く動きそこに息を根付かせていた。そうなんだ。そうなっていた。だから、この次の展開は彼女にも予想できなかった。
彼は彼女に恋をしていた。そして、雨の逃げ道でゆっくりと怖がりながら丁寧に言葉を紡ぐ。涙さえも堪えながらも真っ直ぐに純粋にそれでいて少しだけ軽快に愛と言う言葉は相応しくない恋と言う言葉で心を伝える。とてもとてもロマンチックなひと時を彼女もその世界に入り堪能する。物語の彼女の答えはどうなのだろう?それを知るすべはない。
何故なら・・・。
「・・・あれ?私・・・泣いてるの?」
意識出来なかった。感覚がなかった。数滴、頬を伝って口に入り涙の味を感じて気が付いた。そこで視界がぼやけていたことも初めて気が付いた。なんだと言うのだろう・・・この感覚は・・・。分からないし理解できなかった。溢れ出す涙はどう止めたらいいのだろう?彼女にはそれを知るすべはない・・・。ただ、この涙は嫌な感情ではなかった。不思議と安らぎふわふわして切なくなる感情に支配されていた。それは感じ取れたのだ。そこだけは感じ取ったのだ。
しばらく手を止め涙を只々流す。風は優しく熱い。彼女の体は冷徹で火照る。天井を見つめ只々微動だにしない。スイッチが切れた家電の様だった。
「よし・・・。」
スイッチが入る。涙の足跡は頬にハッキリと残っている。それを大切に拭うことなく物語を押し進めていく。
カタカタと響くだけの音。その音だけが響く。彼女は憑りつかれ世界に入り込み物語を創り上げる。その
間も只々涙が流れている。そして、この物語が終わりに近づくに連れ彼女は気が付いた。
この感情は自分の中に昔からあったものだと。
それを確かに感じ取った。そうしたら何かが楽になった。そして、ずっとずっと物語が終わるまでその感情と共に手を繋いでいたかの様に安らかだった。
彼女の手が止まった。それは全てが終わった印。そう、物語は完結した。読み返すことはない。何故なら全てを覚えているから。全部知っているから。だから、読み返す必要はない。
そして、ここで涙を拭い天井を見つめ声にする。
「私は好きだったんだ。ずっとずっと春幸君のことが好きだったんだ。そうなんだ・・・そうなんだね私。うん・・・やっと気が付けた。」
嬉しくて嬉しくて目を閉じて口角を上げて声を出さずに笑う。何かから解放された。燻っていた気持ちは燃え尽きて新しい芽が出た。それを大事に育てようと彼女は思った。
そして、幸せな気持ちを持ったまま夏は終わりを告げる。今日からはまた高校生に戻っていつも通りの生活をする。ただ、前よりも気持ちは軽かった。
二学期が始まる。彼女はいつもと同じ。教室の後ろで静かに暮らす。でも、考えるのは外の自由ではなく心の内の淡い思い。ただ、そんな淡い思いが消える事となる。それは、放課後に起こった。
「瑞希・・・どう?」
綾香が同じテンポで声を掛ける。当然、彼女の答えは決まっていた。
「ごめん・・・。」
「そう・・・。」
この時だった。彼女はすぐに異変に気が付いた。寧ろ何故今まで気が付かなかったのか・・・。
声が聞こえない。心の声が聞こえない。
いつもは聞こえる声が全く聞こえない。激しく動揺する。綾香は俯いている。悟られてはいけない。何故かそう感じ足早にその場を離れた。帰りのバスの中でも全く人の心が聞こえない。昔からあった感覚と能力が失われた。それは全身にジトッと嫌な汗をかかせる。それと同時に呼吸も乱れる。一体何があったのだろう?
家路についた彼女は一旦休むことにした。もしかしたら夏の疲れかもしれない。そう思いこの力が戻ることを祈り浅い眠りについた。
数時間後に目を覚ます。彼女は髪を軽くとかし身なりを整える。そして、心の声を聞く為に近所のコンビニに向かう。適当な商品を手に取りレジへ並ぶ。会計の時はいつも聞こえる。彼女の番だ。店員さんがバーコードリーダーで清算を始める。
ダメだ・・・。まったく心が聞こえない。血の気が引いた。現実に心が聞こえなくなっている。
「・・・お客さん?」
店員さんに呼ばれ我に返る。
「200円になります。」
「あ、はい・・・えっと。」
どうやら何度か呼ばれていたらしい。不信な目を向けられていた。慌ててお財布からお金を取り出し支払いを済ませ足早に店を出る。そして、足早に家路につく。
家に帰ると母が買い物から帰って来ていた。
「あら?コンビニで買うならスーパーで同じもの買って来たのに。」
「ごめん・・・。」
「今日は麻婆豆腐よ。好きでしょ瑞希は。」
「うん。ごめん・・・ちょっと疲れてるから休むね。」
「あら?夏バテ?まあいいわ。ご飯になったら呼ぶから休んでなさい。」
母は元気。彼女は動揺。部屋に戻り制服のままベッドに突っ伏す。
「なんで・・・。」
恐怖・・・全てが体を支配する。恐怖しかない。一切の感情は無い。歯がガタガタと小刻みに音を立て震えが起こる。心が読めない。恐怖・・・あれだけ心が読めることが嫌だったのに今はどうだろう・・・。
布団を頭から被ってもそれは消えない。布団の中に居るのに体は冷たい。体温を失った。
時間が経った。消えない恐怖・・・このままで居たい。落ち着くまでは。それが来ないかもしれないが今はそこに縋るしかない。ただ、彼女の性格上、母親に心配を掛けたくない。もちろん心が読めると言う事は知らない。そう言った心配ではなく夏バテと言う言葉が発した心配だ。だから、布団から抜け出し食事を嫌でも取り笑顔で接しなければならない。苦痛だがそれだけはやらなければならない。
無理やりの笑顔を作り食卓に着く。悟られない様に懸命に懸命に・・・。
「おいしそう。」
わざとらしく言葉を紡ぐ。母はニコニコとしている。お腹は減っていないがやはり食べない訳にもいかない。食事を始めるも味はない。麻婆豆腐と言う濃い味を感じられない舌。やはり心が安定していない。かなりの不安定。それでも何も感じなくても母と他愛のない会話をし日常を造り上げる。苦痛の時間ではないがそれと近いモノがある。ただ、それを誰かの罪にすることは出来ない。だから、只々耐える。今は耐える。
そして、食事が終わる。手短に風呂に入る。そして、部屋に戻り布団の中で重圧に押しつぶされる。もしかしたら調子が悪いだけ・・・体の調子が悪いだけで聞こえない。そう思い込もうにも心臓は鼓動を緩やかにはしてくれない。速く速く一定に動く。苦しく自然と息が上がる。疲れていることは確かだが心と体がこの調子では休めない。時計の針が無限に響く。心臓の音も響きを止めない。彼女が自然と眠りに着いたのはとても夜遅くの事だった。
次の日を迎える。
完全に寝不足だ。体が重い。朝起きてすぐに心臓がまた速くなる。そう・・・どうなったのかは家族以外の他人に会わないと分からない。期待もあるし不安もある。どちらに転がるのかは分からないが彼女は今まで生きて来た中で大幅な期待を持たない様にしている。しかし、今回はそれに縋りたかった。結果だけ簡単に言おう。声は聞こえない。全く聞こえなかった。
心臓が割れる音がする。全く何も耳に入らない。苦しくて世話しなくて何も分からない。彼女はずっとずっと下の世界を見つめていた。
今日も偽装の笑顔。部屋に籠る。でも、不安を悟られない為に日常を演出する。それは彼女の壊れかけた心に小さな衝撃を与え続けていった。
時が流れた。彼女は笑わない子になっていた。最も学校ではそうなのだが家でもそうなってしまっていた。
家族はその異変に気が付きつつもその年齢特有のモノだと思い必要以上には関わらない様にしていた。それがありがたいのかそうではないのかは彼女には分からない。どん底の床に這い蹲って生きている。今の彼女そう言う存在。
季節は更に流れる。外の世界はすっかりと秋めいた。彼女はどうだろう・・・未だ心は季節を先取りしていた。この頃になると周りも更に彼女に硬化していた。ただ二人を除いて・・・。
「瑞希・・・。」
「・・・。」
綾香も何か分かっていたし分からないでいた。ただただ、戸惑っていたがそれでも何かできないかと模索していた。そんな心は既に彼女には読み解くこともできない。だからこそ、つらく寂しい。ヘドロの海に浸かっている様だった。しかし、そんな海を浄化する人物がいる。そう、春幸だ。恋心を抱く彼女。彼の前では素直になり、心が安らぐ。
「う~ん・・・ここは?」
「ここは・・・こう。」
暮らしている学校は違う。あの夏以来だ、本を買いに行く以来勉強を手伝う様になっていた。この時は本当に穏やかそのものだった。しかし、この時が続く訳ではない。帰り道はいい。楽しい気分で帰れる。しかし、家に着きしばらくすると不安が襲い再びヘドロの海へと叩き落される。だからこそ、彼に会っていたい。ずっと隣に居たいと思う。それを思い始めていた。その事が現実になった事を考えると少しの間だけ海は浄化される。
彼女はずっとずっと考えていた。心を読める力の事を・・・。みんなにあると思っていた。全ての人が当たり前の様に持っている物だと思っていた。ただ、読めない人もいる。それも当たり前だと思っていた。だから、彼女は正直だった。本当に真っ直ぐの子供だった。だけど・・・だけどね、それは違った。心を読めると言う便利な能力は誰も持っていなかった。偽り、憎しみ、蔑みを読み取った時にこの便利な能力は不便な能力へと変った。そこから彼女は心と自身を厚い扉の中へと押しやった。綾香の悔恨も分かっていた。しかし、そこに馴染むことが出来なかった。許すとかそう言う問題ではなかった。そんな厚い扉の中にも入り込める人は何人かいた。知っての通りだ。しかし、今はどうだ・・・?彼女は扉を開け放った訳ではない。それなのに心は聞こえない。だからずっとずっと考えていた。
「・・・。」
翌日。この日は曇っていた。学校を終え商店街へ向かう。その途中に冷たい雨が降り出した。
「・・・。」
傘を持っていない彼女。雨宿りをする。そして、思い出す。
「前にもあったね・・・。だったら。」
少し濡れた制服。胸のリボンをきゅっと握る。夏のあの日・・・隣には彼がいた。
「こうやって雨が降って・・・空を見て・・・雨の終わりを待っていたら・・・アナタがやって来た。」
嬉しく幸せになった。温かくなった。心と体がぬくもりを持ち自然とほほ笑む。小さな微笑みだ。
「しりとり・・・結局忘れちゃうんだもん・・・。はぁ・・・。」
あの日以来止まったしりとり。
「会いたいな・・・しりとり・・・やりたいな・・・。」
ポツリ・・・。
「あ~忘れてた・・・確か・・・なんだっけ?」
「・・・え?」
声に驚く。恐る恐る顔を上げてみる。・・・春幸だ。彼が隣にいる。いつから?分からないけど・・・分からないしたくさん聞きたいことはあるし話したいけど彼女の答えはすぐに決まった。
「ぽ・・・だよ。」
「あ~そうだった・・・え~とポトフ!」
「ふ・・・ふ・・・フカヒレ?」
「れ・・・れも・・・あっぶね・・・れ・・・。」
彼女の望みは叶ったのかな?雨の音が小さく心地よく彼の言葉と声をエスコートし彼女の届ける。幸せで平穏だ。その時間はしばらく続いた。
「あ~もう降参・・・。流石に本読んでるな。言葉が途切れない。」
「そう・・・?でも、君は本屋さんでしょ?」
「う・・・痛いところを突くね。」
ここから伸びやかな会話が始まる。彼女はこの時考えていない。自分の能力について。頭の片隅にすら存在していない。彼の横にいて彼の話を聞いて彼の色々な表情を見るのが好き。そうなんだ・・・どこまでも彼に恋をしているんだ。彼の心はどうだろうとか思わない。只々単純に自分の心が彼に恋をしているだけで良かった。
雨が上がる。終わりの時を迎える。寂しいけど大丈夫。温かいから。
「あ・・・とそうだった。瑞希に言わないといけないことがあった。」
「ん?」
少しドキッとした。髪の毛を耳に掛け言葉を待つ。
「あのさ、お前・・・綾香とどうなの?」
「え?綾香・・・?」
「そう・・・俺はお前たちに何があったのかは薄っすらだけど知ってる。ただ、それはすごく昔の事だし・・・。」
「うん・・・怒ってないよ。もう過去の事だから・・・。」
「半分本当で半分嘘だな?」
「え?」
「分かるよ。どれくらいの付き合いだと思ってるんだ・・・。アイツは何も言わないしお前も何も言わないだろ?だから、俺から言える事は少ない。」
「・・・うん。」
「綾香を受け入れてやれ。アイツは寂しそうだった・・・。今のお前もものすごく寂しそうだ。俺と話してた時じゃなく綾香の話になった途端だ。お前やアイツが負い目に感じている事がまだあるのなら・・・それを解消する事も出来るはずだ。」
「・・・。」
「瑞希・・・今度は三人でしりとりやるぞ・・・。俺の勉強も見てもらう。だから・・・心を許してやれ・・・。」
「・・・。」
そうして、二人は別れた。
彼女は考える。力が失われた事を・・・。ずっとずっと考えてヘドロの中に居る。しかし、只々答えは出ない。この力を持っていた理由も分からないのだから当然かもしれない。彼の言葉がずっと頭を回る。ずっとずっとずっとずっと・・・。そうしていると心が安らぎ落ち着き力の意味を根底から揺るがせる。
「・・・。」
「・・・・・・・。」
「・・・・・・・・・・。」
時計の短針がどれだけ動いたのだろう・・・。
「・・・そうだよね・・・。」
彼女は何かを決断する。そして、ヘッドフォンを手に取り音量最大で音楽を聴く。そして、眠りに着くのだった。
そして、数日が経った。
この日は中間テスト前・・・部活などはない。
「綾香お疲れ。」
「うん。・・・ふぅ・・・帰って勉強しなきゃ。」
下駄箱から靴を出し履く。そして、玄関を出る。すっかり寒い。
「寒い・・・。」
ぶるっと身震いをする。長い髪が風に遊ばれる。空には白い月薄っすらと輝く。オレンジをまとい始めた太陽と混在する。
「にしてもお腹空いた・・・。何か買ってこうかな?」
一人で呟き歩く。そして、校門を出る。
「・・・あの・・・。」
声がするも自分じゃない。覚えがある声だけどよくある。歩く。
「あの・・・綾香・・・。」
小さく弱弱しい声だ。ただ確実に自分を呼び止めている声だ。そして、分かった。感じた。
「瑞希?」
振り返る。そう・・・そこには小さく震える瑞希が立っていた。ゆっくりと近づく。そして、向かい合う。彼女は俯いている。
「・・・。」
綾香は何も言わない。
「あの・・・あのね・・・。」
弱弱しい声を必死に振り絞る。優しく待つ。
「・・・くれる・・・?」
すごくすごく小さい声で世界に飲み込まれる。綾香の耳には届いたのかな?
「・・・顔を上げて。」
上げた顔・・・目は潤んで唇は緊張で震えるし頬は硬直してる。
「・・・。」
「・・・。」
視線を合わせる。数秒・・・。そして、綾香は微笑んで言う。
「もちろん!!」
その言葉。彼女の暗い世界・・・悲しみの世界・・・その言葉が・・・たった一言の言葉が負の堆積物を一斉に浄化した。
黙って並び手を繋ぐ。再び顔を合わせ言った。
「ありがとう。」
「ありがとう。」
世界は秋から冬に移り行く。いや・・・この国・・・日本は。この街も変わる。その速度はゆっくりだ。彼女も変わる。それはゆっくりだ。彼女の能力は一体何だったのか・・・それは誰も分からない。この能力によって得たモノや失ったモノ。そして、もう一度得たモノ・・・それは多く少ない。彼女がこれから見なければならないモノは簡単だ。それは人の心。その先・・・心の先を見つめるだけ。
~心の先は END~




