湖上の攻防
「おや、気が付きませんか?その刀――」ドゴォォォォォォン!!
巨大な爆発音にも似た轟音と地響きが、カレンの言葉を搔き消した。
「な……なになに!?」
いち早くテーブルの下に避難したアウロラが頭を抱えて混乱した声を上げる。
「街で何かあったのか!?」
音や振動の規模からして相当の衝撃であることは確かであった。
「とんだゲストがいたものですね」
カレンは特に慌てる様子も無く、溜息交じりにそう呟いた。そして佐伯の持つ刀を指して口角を上げる。
「佐伯さん、せっかくですからその刀の切れ味を試してみては?」
その時広間の入り口である黒漆の扉が開いて、この屋敷の使用人らしき給仕服の男が飛び込んできた。
「カレン様!街にモンスターが!」
***
夥しい数の人間大はある巨大な蟹のモンスターが、街の外壁を越えようと幾重にも重なり集まっている。
壁の上には迎撃用の砲門がいくつか備え付けられており、自警団のドワーフたちがその群れに向かって鉛玉を打ち込む。その度にバラバラと山の一部が崩壊するものの、迫り来るその勢いを止めることはできない。波が岸壁を浸食していくように黒い塊が這い上がってきていた。
その蟹たちが侵攻するちょうど真上の外壁上。その上空が漆黒の天幕に覆われる。それは帳を降ろすように周囲を取り囲みドーム状に広がると、日光を遮って囲んだ空間に影を落とした。外壁上の床に黒い渦が巻いて、カレンとゴーシュ、そして佐伯が姿を現す。
「暗いな……結界か?」
まるでその空間だけ日が落ちたようで、佐伯にとっては著しく視認性を欠く。加えて敵は黒い甲羅を持つ蟹のモンスターでは戦いにくいことこの上ない。
「ただの日傘です」
そんな佐伯の事情は意に介さないように、カレンはそう曰った。
「サラタンですか。対物対魔に高耐久の厄介なお相手ですね」
蟹のモンスターであるサラタンの持つ強靭な甲殻は、ミスリル製の剣を折り、魔法の攻撃も弾く、物魔の両耐性に優れた天然の鎧である。ドロップする甲羅は防具の素材としても重宝される。
しかし、対処法を知らぬ駆け出しの冒険者では、まず歯が立たない難敵。一体でも手を焼くそれらが、今まさに巨大な波となって押し寄せていた。
「あ、ちなみにあなたの相手は《《アレ》》ですから」
「は?」
降ろされた暗幕によって佐伯には何も見えない。
カレンは佐伯とゴーシュの背中に掌を当てる。その掌から光を発し魔法陣が描かれる。
「知覚共有、身体強化」
その瞬間、佐伯の見る世界が一変した。影に塗り潰された景色に、一斉に色を流し込んだかのように鮮明な視界が広がった。さらには群がるサラタンの下、湖の水面下に蠢く巨影の姿が見てとれた。他の個体とは比較にならない大きさ。
「ネームドか!!」
ネームドモンスター、それは本来種族ごとの名称で呼ばれることの多いモンスターの中で特異的に発生が確認された個体に付けられる選別呼称。そしてそれらは危険なモンスターとしてブラックリストにリストアップされるほどの怪物たちだ。
想定外の強敵ではあるが、佐伯はそれ以上に自身の昂ぶりを感じていた。
「雑魚は我々が相手するので、どうぞ思い切り《《振るって》》みて下さい」
カレンたちは既に、外壁を越えんとするサラタンの群れと戦闘を始め、蠢く黒い波を押し返していた。
ゴーシュは二本の青龍刀を巧みに操り、襲い掛かるサラタンの甲殻の隙間を正確に捉え、次々と屠っていく。
霧散するモンスターの黒い霧の中、カレンを取り巻くそれらは、まるで時を刻むのをやめた時計のように静止していた。黒い甲羅の表面を白い霜が侵食していく。カレンの放つ冷気が近づく黒い敵を白銀へと塗り替えていった。
彫刻のように固まったそれらを押し倒すと、ドミノのように崩れて霧となった。
それを見た佐伯は自身が対峙すべき怪物を見据える。
その時、湖面の水が大きく盛り上がり、飛沫をあげてそれがその全容を顕わにした。
災厄の元凶を視認して一気に佐伯の表情が沸き立つ。積尸気の死鋏と呼ばれる他の個体とは一線を画す存在。
その象徴たる巨大な鋏を外壁へと打ち付ける。大きな衝撃で街全体に地響きが伝わり、外壁の形が変わる。
あと幾度の攻撃に耐えられるだろうか。いずれ穿たれるであろうことは明白であった。
「グラタンだかピータンだか知らねぇが、俺は甲殻類アレルギーなんだ……よっ!!」
ぐらついた体制を素早く立て直すと、敵の総大将に向かって勢い良く飛び出す。
「身体が軽い――!?」
たった一足の踏み込みにも関わらず、カレンの施した身体強化は、自身が扱う普段の《《それ》》とは歴然の差を痛感する。
同じはずの魔法が全く別物のように感じられ、僅かに佐伯の表情が曇る。しかしすぐに戦闘に意識を戻した。
そのとき直下の水面から、複数のサラタンが佐伯に襲い掛かってきた。
その刹那、佐伯が翻った外套の懐に手を入れると、何もないその裏地から、閃光が迸るように白い柄に抜き身の日本刀が躍りでた。
そのまま空中で、旋風のように身体を錐揉み状に回転させると、迫りくる火の粉を一閃した。
音もなく、滑らかに、まるで風を切るかの如く通り過ぎた刃が、一点の曇りもなく煌き、後に黒い霧が宙へと舞消えた。