黒い霧
たったの一薙ぎ。
硬度だけで見れば並みの武器では歯が立たないサラタンの天然の鎧が、まるで絹豆腐に箸を通すようになんの手応えもなかった。
佐伯は全身が奮い立つのを感じた。
そして、最初の勢いを落とすことなく標的に向けて弐の太刀を振りかざす。
目の前の怪物は、湖をさざめき立たせる咆哮をあげ、今しがた街全体を揺るがした巨大な鋏でそれを迎え撃つ。
まともに受ければ刀はおろか、人の形すら留めてはいられないだろう。しかし佐伯は確信していた。
「くたばりやがれ——!」
迷いなく振り抜いた斬撃は、その鉄槌もろともに、積尸気の死鋏を一刀両断した。死鋏を屠ると共にサラタン軍勢も、一斉に黒い霧となって中空へ霧散。
斬撃の余波で割れた水面が元に戻ろうとうねり、波打つ。
しかし佐伯は着水せず、波に揺らされた一畳分ほどの氷のイカダに上手く着地した。外壁の上に目をやれば、指に冷気を纏ったカレンが貴族らしい丁寧なお辞儀をした。
カレンは周囲を取り囲んでいた黒い帳を収束させ、自分の手元にだけ黒い日傘として残した。
その途端、割れんばかりの歓声が辺りを包んだ。
にわかに活気だって、当初戦っていた自警団や冒険者、街の職人らしき装いの者たちも我先にと湖に飛び込んだ。いつの間に用意したのか小舟を浮かべている者もいる。
目的はサラタン達の残したドロップアイテム。
普段ダンジョンに潜る者であっても、これだけの数を持ち帰るのは難しい。
当の佐伯はそんな争奪戦に参加することもなく、呆けたような顔で手の中の銘刀を眺め余韻に浸っていた。
戦場で振るったのはたった二振り。
だが相手は金剛不壊と称される装甲。
それらを難なく両断し、なお刃零れ一つない。
そして佐伯の思考は一つの有り得ない答えへと帰結する。
青銀に輝く刀身。
「これは——オリハルコンの——」
「ご名答でございます、佐伯様」
いつの間にか佐伯の後ろに小舟を着けて立っていたドロワが零れ出た言葉に相槌を打った。
細長いカヌーのような滑らかな船体は八角形を基調とした星形の幾何学模様が並び、小型ながら先頭には龍の頭を模した意匠が施されていた。
既にいくつかのドロップアイテムが積んであり、そのついでの迎えであることが些か腑に落ちない佐伯であったが、泳ぐのも億劫のため何も言わずに乗り移った。
佐伯が乗るのを確認して音もなく船が動き出した。魔法を動力にしているため、静かで揺れも少ない。
佐伯は流れる景色を眺めながら、自身の外套の裏に刀を収めた。
「——腹空いたなぁ。話の続きは飯を食いながらでいいか?」
まだ全てを信用したわけではなかったが、これでも魔術図書館の研究職に就く、研究者だ。看過できない謎がいくつもあった。
佐伯の問い掛けに、ドロワはふっと笑みを零した。
「もちろんでございます」
***
大広間に食器の鳴る音が響く。回転テーブルに並べられた色とりどりの中華料理に舌鼓を打つ佐伯とアウロラ。
「ん——! 極楽浄土ぉ~」
「おい……アウロラ、お前意味わかって言ってんのか?」
「よくわかんないけど幸せってことでしょ? そんなことよりさぁ、ドロワ《《ちゃん》》これめちゃくちゃ美味しいね! 今度作り方教えて」
「ふふふ、ほんと? もちろん何時でも来て! アウロラさん」
佐伯のツッコミを適当に流し、上機嫌な口調でドロワと親し気に雑談を始めた。佐伯は、ほんの十数分でこんなに打ち解けられるものなのか、と呆れ半分の小さい溜息をつく。
が、黙々と食事をする堀井を目に留めすぐにその思考を打ち消す。思い出されたのは堀井と初めて会った日のこと。
(いや、時間は関係なかったな……。まずは話を聞く。もう、何言われても驚かねぇ——)
食後に出された珈琲は香りだけで、その辺のモノとは違うのが判った。一口含むと丁度いい酸味と苦みが心地よく口内に広がる。
最初に沈黙を破ったのは堀井だった。
「その刀がどういうものかを説明する前に、少し俺のことを話そう。聞いてくれるか?」
少し間を置いて全員の顔を見回す堀井。皆が注ぐ視線を質問への了承と捉え続きを話し始めた。
「まず、俺の実年齢は今年で22になる」
「ブッ——!!」
堀井の一言目に、含んでいた珈琲を盛大に噴き出す佐伯。あたりに黒い霧のように珈琲が舞う。
「やだ、汚い!」
「まったく……はしたないですね」
「今布巾をお持ちしますね」
「……」
佐伯以外のものは特に驚いた様子もなく、堀井の言葉よりも珈琲を噴き出した佐伯に向かって反応を示す。
「いや、だって、さすがに老けすぎ……」
と、そこまで言いかけてハッと口を手で紡ぐ。
チラリと横目で堀井の様子を伺うが、堀井は平静を保っており特に気にした様子はないことに内心胸を撫でおろした。そして話題を転換する。
「つか、何で全員驚かねーの? まさか俺だけ知らなかった?」
その疑問にはアウロラが答える。
「あたしだって知らなかったわよ。ま、そーね。あんたたちの国じゃ驚くことなのかも知れないわね。でもエンバンティアにおいては見た目と年齢は結びつかないのが普通よ」
言われてみればもっともな話であった。エンバンティアに暮らす様々な種族は、見た目や寿命もそれぞれ大きく異なる。日本でいうところの一般常識的な概念や価値観は全く通用しない。
「……ちなみにアウロラは今いくつ?」
「あたし? 124だけど」
「くっそバb——」
***
「つ……続けてくれ……」
頭にタンコブの山を生やした佐伯が中断されていた話を元に戻す。隣では頬を膨らましてソッポを向くアウロラ。
「くはは!」
その光景に思わず笑ったのは堀井だった。涙目になりながら必死に笑いを堪える。屋敷に来てから初めての笑顔だった。
その顔を見て佐伯も安堵の表情を浮かべる。
「たく——好きだぜ、お前のその裏表のないところ、だから——」
堀井は佐伯の安堵の意味を理解していた。
事情を問い詰めることもせず、表情の浮かない自分に対して時折気にかけるような視線を投げかけてくれていたことも。今なお、友として自分の心配をしてくれているということも。
理解しているからこそ、その思いは心の中でより大きくなった。
「——だから、俺の話を聞いてくれ」
——だから、お前には話したくなかった、と。