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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
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女上司は新人ちゃんに恋をしたけれどパワハラとか言われそうで手を出せなくて悶える話

作者: 砂山 海

 私は片思いをしている。

 でも、それが叶う望みは薄い。


「水島係長。先程の資料を手直ししたんですけど、確認お願いします」

 私は後輩から四枚の資料を受け取ると、目を通し始める。読む前に眼鏡を直すのが私の癖。何気ない仕草の一つなのだが、どうもこれが相手からすれば威圧感を与えるらしいというのは気付いている。けれど私としてはやめるつもりもないどころか、むしろこれから真剣に相手をするぞと言うスイッチみたいなものだから、仕方ない。

 新卒で入社したこの中小クラスの商社で昨年、係長に昇進した。同期の男性陣はとっくになっていたし、もっと言えばより上にステップアップしていったけど、それを妬んだりはしていない。そういう社会だと思うし会社だと思うし、何より私はそこにエネルギーを費やしても意味が無いと思っている。

 それよりも仕事で認めてもらって、会社からすれば否が応でもこうして昇進させてもらえた方が嬉しい。慣習を実力でねじ伏せたような感じがするからだ。事実私は課の中で業績が常に一番か二番で、マイナス査定もないはずだ。

 つまり仕事は私の誇りであり、武器だ。お金も貰えて、心も満たされる。嫌な事ももちろんあるけれども、仕事をこなして周囲に頼られるという状況が楽しい。だからこそ、仕事に妥協なんかできない。私情を挟むなんて、もっての外。

「指摘して直してくれたとこはまぁできているけど、でも全体に読みにくい構成になっているのは直さなかったのかな。フォント一つとってもそうだけど、まず読ませて惹かせるように作らないと。これじゃ何を言いたいのか、何を注目して欲しいのかわかりにくい」

「す、すみません。急いで直します」

 怯えていた彼女は声も縮こまり、さっと踵を返して自分の机に戻って行った。その姿を見て私はまた、ちょっと落ち込む。いつもの事なのだが、いつも悲しくなる。

 自分ではやんわり優しくアドバイスをしているつもりで、叱責しているつもりはない。ただ、まだミスがあったのと、もう少し改良できそうなところがあったから伝えただけ。なのにあんな怖がられるのは……難しい。

 こんな私が勝手に恋をするのはともかく、誘うのも話しかけるのもなんて……。

 私はちらりとさっきアドバイスを送った後輩の隣の席を見る。そこには肩肘張りながら一生懸命にパソコンと向き合って調べ物をしている新入社員の子がいた。

 春日安奈、今年の四月に入社してきた新卒の女の子。入社三ヶ月目なのでまだまだ仕事は覚えている最中なのだが、その懸命な姿勢と例えミスしてもそれを挽回しようとする姿勢に好感を持っている人は多い。また少しぽちゃっとした体型のたぬき顔で愛嬌もあるため、私が見る限りでも色んな人に可愛がられているのがわかる。

 その輪に……私も入りたい!

 春日さんがここに配属された時、正に一目惚れだった。自分の人生でそういう事が無かったため最初は戸惑ったが、でもそれを受け入れるしかなかった。私好みの容姿と体型、そして何より声が良い。甘めの高い声は一歩間違えれば敵を多く作りそうだけど、彼女の場合は仕事に対する懸命さから許されたと言ってもいい。春日さんの方も三ヶ月もして少しずつ慣れてきたのか、何気ない雑談に参加するようにもなってきていた。

 でもそこに、私はいない。

 周囲の評価と私の認識に大きなズレが無ければ、私が行けばみなが委縮してしまって場が少し固まるのは目に見えている。若干の疎外感は否めないが、かと言って気さくな話題と愛嬌ある笑顔というのが苦手なので、それもやむなしか。

「すみません水島係長、よろしいでしょうか」

 パソコンに目を向けながらそんな事を考えていると不意に呼ばれたので顔をそちらへ向ければ、春日さんがいた。彼女はやや緊張した面持ちで、でも笑顔を崩さずに立っている。

「どうかしたの?」

「あの、頼まれていた資料を集め終わったので、その報告に来ました」

 先日、彼女に渡しておいたUSBメモリが差し出される。主にここではコンビニに卸すティッシュペーパーやトイレットペーパーなどの紙類を扱っているため、春日さんには他社の同製品の値段と自社との比較、ならびに彼女の主観を含めた感想を記入するよう頼んでおいたのだった。

「ありがとう、後で確認しておくから」

 受け取る際に、ほんのわずかに指先が触れた。顔には出さないけれど、一瞬ドキリとしてしまう。けれど、こんなのはよくあること。一々意識する方がおかしいし、それに指先だから特別柔らかいとかそんな感触なども無い。

 けれど、どうしてだろう。恋に恋していた青臭い子供の様に、胸が高鳴ってしまう。

「よろしくお願いします」

 ぺこりと頭を下げると彼女は自分の机に戻って行った。私は指先に残るほの甘い感触を眼で追う事も堪え、彼女が触っていたUSBの温もりを探しながら仕事を再開するものの、いまいち仕事に身が入らない。

 こんなんじゃいけない。些細な事でいちいち反応していたら嬉しいけど、気持ちが浮ついてミスしてしまう。でもこのまま黙って何もしなければ、悪化していく一方だ。ならば何とかして多少コミュニケーションを取って仲良くなり、せめて緊張させないような関係に発展させたいけど、でも今の時代だから無理に誘えばパワハラとかって言われてしまうかもしれない。

 どうしたらいいのだろう……。


 それから何の発展も無いまま二週間ほど過ぎたある日の事、明日のプレゼンに備えるために私は集めてくれたデータを再集計してチェックし直していた。数日前に揃った段階で一通り目を通していたので問題は無いと思うのだが、念のためにともう一度見直していた。そうしながら、本番でどのように喋るのか自分の中でシミュレーションするのが私の習慣なのだが、途中まで目を通していた時に違和感に気付いた。

「ん?」

 提出されたデータの数字が何かおかしい。ズレているような気がする。一見すれば何の変哲もなさそうなのだが、確かに残る違和感。私はその違和感と言うものを人一倍大事にしてきた。

 違和感とはつまり、今まで日常的に積み重ねてきたものによって導き出される警告。それが無意識から訴えかけてくるもの。気のせいや勘違いで何事も無ければそれでいい。けれど、それを無視して失敗すれば私は大事なシグナルを故意に見落としたのと同然。

 私は元となった資料を最初から読み込んでいくと、それがデータは非常に似ているけど欲しかったものではないと気付いた。まぁ、これは最初に見落した私のミスでもある。今からならまだ手直しも出来るので、大丈夫だ。

 そういえばUSBどこ行ったかなと手元を見るが、無い。少し記憶を辿れば、昼前に春日さんに新規のデータをそれにまとめるようにと貸していたのを思い出す。

「春日さん、ちょっといい」

「はい、何でしょうか」

 声をかけると彼女はすぐに返事をし、自分の机からこちらへ顔を向ける。

「貸していたUSB、ちょっとこっちに戻して欲しいの。データでミスが見つかったから、手直ししたいので」

「わかりました」

 私はそのまま彼女を見る。どうせそれが無いと、今は何もできない。それに彼女の一挙手一投足を見て、わずかに焦り出した心を鎮めたかった。

 けれど彼女はなかなか席を立たない。キョロキョロと視線を動かし、机の引き出しを開けたり閉めたりしている。そこに不穏な物を感じ始めたが、まだその時ではないと想い留め、じっと座って待つ。その間も隣の人に小声で聞いたり、次第に大きくなる動きに心がざわつくけれど、耐えていた。

「あの、水島係長」

 真っ青な顔をした春日さんが私の前にそう言いながら立つ。今にも泣き出しそうな顔をしている時点で、事態を察する。けれどここはもう、彼女の口から報告をしてもらうしかない。それもまた、育成。

「どうしたの?」

 努めて事態を察していないかのように、平静を装って問いかける。

「あの、すみません、USBが見当たらなくて……」

「失くしたって事?」

「……はい。あの、本当にすみません……」

「最後にどこで使ったの?」

 あのUSBは大事な物。色々なデータがまとめられており、無くなって一から作り直すとすれば膨大な時間がかかる。

「えっと、確か、私が調べものをまとめて、それで」

「じゃあ何でなくなるのよ」

「す、すみません」

「すみませんじゃなくてね、どうしてって訊いているの」

 頭を下げた彼女から涙がこぼれるのがわかった。私もかなり意地悪な問いかけをしているのはわかっている。けれどあれは大事な物だと前々から念押ししていたものだ。そういうのを簡単に紛失されるとなると、今後もそうなってしまう。それだけは今回だけで防ぎたかった。

「すみません……もう一度、探します……」

「早く探しなさい」

 胸が痛む、それでも怒りが静まらない。ミスなんて誰にでもあると慰めたい反面、この土壇場でそんな事をした彼女を、部下の失態を軽々しく許せない自分もいた。探せと言ったが、ここに来るまで色々探してからの報告だろう。きっと見つからない。だからこそ、私はもう次にどうすべきか、そして間違いなく来るだろうひどい残業を覚悟していた。

「すみません、本当にすみません……」

「もういいから。早く他社との資料を集め直して」

 結局、それは見つからなかった。私は極力怒りを抑えた声でそう告げたが、きっとそうは受け取られなかっただろう。色んなものを堪えるように奥歯を食いしばりながら、他の社員にも指示を飛ばす。そうして自分でももう一度データを拾いなおし、まとめていく。

 あぁ、これは今日中に帰れないな……。

 心の中でひっそり溜息をつくと私は先輩社員達に声をかけ、残ってもらうようにお願いする。さすがにこの量、一人では無理だから。彼らは苦笑いと二言三言の愚痴をこぼすと、作業に取り掛かってくれた。そして引き続き他の人にも指示を出し、通常業務と並行させて穴埋めをしていく。春日さんを横目で見れば青い顔をしていたが、今は正直これ以上のフォローは出来ない。

 気付けば時計は十七時を少し回っていた。作業の方にまだ全然目途がつかないけど、私は春日さんの方へ目を向けた。

「春日さん、もうあがっていいよ」

「え……でも、私のミスですから残ります。何でもしますから」

「いいから。まだ入社して日も浅いし、いつかまたこんな事態になったら残ってもらうから。その時にお願い」

 けれど春日さんは口を真一文字に結んだまま、動かない。

「お願いします。このままじゃ、申し訳なさ過ぎて帰るに帰れません。お願いです」

 本音を言えば、今は正直邪魔なだけ。好きとか嫌いとか以前に修羅場モードに入ってしまったため、戦力にならないならとっとと帰って英気を養って、明日の仕事をしっかりしてもらいたい。それにいちいち指示したり、教えたり段取り組む時間すらもったいない。

 だけど、この熱意を無下にしていいものだろうか。自分のミスとは言え、こうまで言ってくれる人材をけんもほろろにすれば、やがていなくなってしまうのではないだろうか。彼女には私も公も含め残って欲しいし、これは一つの勉強だと思えばいいのかもしれない。

 例え私の帰る時間が一時間遅くなろうが……涙を飲んで、育成させるべきなのかも。

「一時間だけ。それまで指示したデータを集めて」

「ありがとうございます」

 結局、あっという間に一時間が過ぎて彼女を帰すことになった。でも、これが丁度良い落とし所だろう。私は先輩社員達に缶コーヒーを渡すと、自分も一気に飲み干してパソコンと向き直った。

「お疲れ様でした」

 日付も変わりそうな二十三時四十分、なんとかデータを訂正させたプレゼン資料を作り終える事が出来た。夕食は摂らず、交代で缶コーヒーなどを差し入れてたけど、安堵と共に空腹が甦る。先輩方の顔も疲労が見えるが、互いに笑みは崩さない。今は仕事が終わった。ただそれだけを大事にして、帰りたい。

 都会の明かりはまだ少し元気だけど、それでも夜はまぁまぁ暗い。電車に揺られ、降りた駅から徒歩で十分少々の場所にあるアパートまでの道すがら、私は空を見上げるのが日課だ。星は大して見えない。けれど、そのスモッグの先に思いを巡らせる。星座なんてわからない。でも、星や月を見るのは好きだ。

 その気持ちだけは社会人になった今も、きっと忘れちゃいけないものだ。


「昨日は本当にご迷惑をおかけしました」

 出社して早々、春日さんが歩み寄るなりそう言いながら頭を下げた。まだどこか寝ぼけ眼の私は驚いたが、それを顔に出さずまずは軽く笑い飛ばす。

「何とかなったからいいよ。気にしないで。ただまぁ、与えられている仕事はまだ少ないわけだから、そこをミスしないように十分気を付けて」

「はい、本当にすみませんでした」

 朝一から肩を落として机に戻る彼女を見て。同時に私の胃も心もキリキリと痛んだ。朝っぱらからあんな事、言いたくない。いやまぁ、多少は苦労したよなんて雑談で言いたいけど、でも私が言えばシャレにならないのもわかっている。だから隠す、誤魔化す。平社員の時は延々愚痴れたそれも、役職がつくと出来なくなるのが切ない。

 あぁ、でも……ほんの少しでいいから同調してもらいたい。強い事なんて言いたくないけど、そこはもう立場上言わないと周りに示しがつかない。それに何より、彼女を成長させられなくなってしまう。色々経験した実感としては、飴ばかりでは育たない。好きだからこそ、続けて欲しいからこそ、振るう鞭が辛すぎる……。

 あぁ、でも怖い上司とまた思われているんだろうなぁ。

 プレゼンは一応の成功を収めたものの、あまり気持ちがすっきりしないままお昼を迎えた。部署内の人達は歓びや安堵に包まれていたようだったが、こんな気持ちで俯瞰してみると何だか虚しさを覚える。とは言え、そこに水を差してはいけない。そう思って静かに事務所を出て少し歩いた時だった。

「あの、すみません水島係長」

 聞き覚えのある声に呼び止められ振り向けば、そこに緊張した面持ちの春日さんがいた。少し走ってきたのだろうか、若干息が乱れている。

「どうかしたの?」

「あ、いえ、ご迷惑では無ければお昼一緒にしてもよろしいですか?」

 望外の申し出に私は驚きこそすれ、喜びは必死に抑えた。こういうのを素直に出せないからよくないとわかっていても、どうも気恥ずかしさが優先して仮面をかぶってしまう。が、それでも少しだけ口元が緩んでしまった。

「迷惑なんかじゃないけど、いいの?」

「はい、もちろんです。それに、昨日のお詫びをしたくて」

「お詫び?」

 春日さんは神妙な顔でこくりとうなずく。

「はい。昨日の事で大変迷惑かけてしまったので、せめてお昼くらいはご馳走したくて」

「そんな事、考えなくていいよ。確かにまぁ、大変だったのは間違いない。でもね、そういう事でいちいちご飯奢ったりなんだりしていたら、最終的に貴女が嫌な気持ちにしかならなくなっちゃうよ」

「それはそうかもしれませんけど」

 沈みかけるその面持ちに罪悪感が湧き上がり、とっさにフォローしなければと焦る。

「まぁでも、一緒にと言うなら」

「だけど、今回は奢らせてください。気持ちなんです、お願いします」

 食い気味に急に盛り返してきた春日さんの勢いに驚き、私は思わず軽くのけぞった。

「……春日さんって、見た目以上に頑固と言うか、押しが強いのね」

「よく言われます。だからまぁ、何と言うか、そういう私も含めもっと知ってもらいたくて……」

 そうか、春日さんは彼女なりに私との接し方がわからず迷っていたんだ。確かに私も彼女の事はあまり知らない。ならばこれを機に、少し時間を作ってもいいのかもしれない。これをも無下に断れば、彼女からすればもう私との断絶を意味するかもしれないのだから。きっと、そのくらいの勇気を持って、誘っているのだろうから。

「わかった。そこまで言うなら、お言葉に甘えようかな。行き先は私のよく行く場所でいいかな?」

「はい、それでお願いします」

 中心部から少し離れているとはいえ、この辺もまだオフィス街の一角なので少し歩けば幾らでも食べるところはある。洋食屋、定食屋、中華レストランにイタリアンなどよりどりみどり。きっとそういう所が春日さんは喜ぶんだろうなと思いながらそれらを素通りし、着いた先はよくあるチェーン店のうどん屋さん。彼女を一瞥すれば、特に顔色を変えていなかったので、中に入る。

「あの、それだけでいいんですか?」

「えぇ、いつも食べてるやつだから」

 ここは食券制なので、券売機の前に立つと春日さんがさっと前に出てとりあえず千円を入れた。私が選んだのはいつものようにワカメうどんのみ。値段は四百五十円。出てきた食券を手にして彼女に自分のを買うように促すと、目を丸くされた。

「いや、その……もっと色々食べてもいいですから。遠慮なんかしないで下さい」

「んー、でもそんなに食べられないから。ほら、後ろのお客さんを待たせたらあれだから、早く自分のを選びなよ」

「あ、はい」

 彼女はきつねうどんとおいなりさんのセットを注文したようだった。ほどなく食事が出来上がると私達は席に着き、手を合わせる。

「あの、これじゃあ何なので、もう一度奢らせてください」

「一回は一回だから。もうこれで充分」

「……水島係長の優しさだとしても、それはちょっと」

「いいからほら、食べよ。食べて少し休んで、午後からまたやるよ」

 食事を終えると、また会社へと歩く。初夏の暑い日差しが、熱を持った私達の身体をうんざりするほど照り付ける。けれどどこか、私達はほがらかな気分だった。私自身そう強く思うし、春日さんもそんな雰囲気があったからだ。

 だってつい二時間前ならば考えられなかった、食事を一緒にするという行為。同じ釜の飯を食った仲とは言うけど、確かにそういうのはあるのだろう。食事中に大した会話は無かったものの、何となく親近感を築けた感覚はあった。えぇ、あくまでも私の中で。

「あの、水島係長」

 不意に呼びかけられ、私は春日さんへと目を向ける。暑さのせいで額に髪の毛が貼り付いているが、何だかそれも可愛らしい。

「ん、何?」

「こんな事になって言うのもあれなんですけど……私、係長とご飯食べに行けてすごくよかったって思っているんです」

 思いがけなかった言葉に、私はつい明後日の方向を向いてしまう。

「そう思ってくれたなら、良かった。私も嬉しいな。あのまま委縮されちゃったら、もったいなかったから」

「委縮だなんて、そんな。元はと言えば私のミスですし、それなのに早く帰らせてもらって……ううん、あの、今だから言いますけど」

 落ちかけた視線を再び立て直し、春日さんは私としっかりと視線を合わせた。

「私、悔しかったんです。本当に」

 しっかりとそう言った彼女の気持ちに思いを馳せながら、私は次の言葉を待つ。

「入社して浅い私を気遣ったのか、それとも本当に戦力にならないからなのか……どっちにしても、力不足だからですよね。もっと役に立ちたいとあの日、帰ってからずっとそう思っていたんです」

「そう思えるなら立派よ。大事なその心を忘れずに働いていれば、やがて結果はついてくるものだから」

「はい、ありがとうございます」

 頼もしい新入社員が入って来てくれたものだと思う反面、やはりどうしても仕事の話になってしまう。他の人なら昼休憩中くらいは仕事から離れ、他愛もない雑談から仲良くなれるような話を展開するのだろう。

 これだから私は……なんて心中ひそやかに溜息をついた時だった。

「それでですね……これはその、何といますか……」

「どうしたの? 何か言いにくい事?」

 小首を傾げると、春日さんが少し照れたようにはにかんだ。

「あの、さすがに奢った額があれなので、やっぱりもう一度奢らせてもらえませんか。今度はお酒込みで」

「一回は一回って言ったでしょう」

「あはは、やっぱり駄目ですよね」

「でも、お酒の誘いは駄目とは言ってないけど」

 私が微笑むと、春日さんはその何倍もの笑顔を返してくれた。

「じゃあ」

「今週の金曜日の夜なら仕事もそう多くないだろうし、その時はどう? 奢りとかそういうのは無しにして」

「はい、わかりました。では、最初のお店くらいは考えさせてもらえませんか」

 個人的に飲みに行くのなんて、いつ以来だろうか。人とプライベートな約束をするのってこんなにも嬉しく、胸が騒ぎ、頬が緩むものだったろうか。じんわり温かいものが胸の奥から疼きにも似た衝動のように湧き上がる。

 相手から誘われたし、これはきっとパワハラとかには当たらないだろう。彼女から誘って食事を奢り、あまつさえ飲みに誘ってきたのだ。これを私の圧に対するものと言われたら、もう何もできない。

 だからもう、これに関しては余計な事を考えないようにした。

 いらない想像は春日さんに失礼なだけ。好きだからこそ不安になるけれども、不安ばかり立てて悪い未来予想図ばかり描いては楽しめない。それに、私は春日さんの事をよく知らないのは確かだ。だけど、そうして狡猾に人を陥れるタイプではないともわかってきている。

 だから信じよう、そして期待に胸を膨らませよう。


「ではお先失礼します、お疲れ様でした」

 あらかじめ仕事が少ないとわかっていたが、それでもなお事前に調整し、夕方の十六時頃には余裕を持って全体の仕事を終わらせるようにしていた。それこそ細心の注意を払い、完璧なアリバイをもってみんなにそう思わせるような一日に調整したのだ。

 それと並行し、課長や部長に対しては私自身の仕方のない残業がそれまでにあった事をそれとなくアピールしていた。だからこそ、終業一時間前での全体空白時間が生きる。上も下も、翌週の段取りを終えてもまだ空く一時間。その一時間は誰もがまったりと来るはずの無い電話やファックスにメールを待ちながら、スマホやパソコンでだらだらとネットサーフィンをして時間を潰していたのだ。

「はい、お疲れ様でした」

 そして定時。珍しく私が率先して立てば、新入社員達も俺も私もと立ち上がる。やがて私は春日さん達と同じように会社を出た。けれど私は振り返らず、肩を並べて歩かない。それは春日さんに事前に言っていた事。つまり一緒に歩かず、同じ店に時間差で入ると言う事を。間違いなくそれはまどろっこしく、滑稽だろう。馬鹿馬鹿しく愚かで意気地なしで、誰が見ても悪手極まりない食事への道。

 それでも春日さんは快く了解してくれた。私は申し訳なさと自分の弱さを痛感しつつ、何としてでもこの食事会を成功させようと一人意気込みながら、彼女が選んでくれた雰囲気の良さそうなイタリアンに入店する。

「五時半からの春日ですが」

「はい。お連れ様がお先に入っていらっしゃいますよ。こちらです」

 木目とレンガを組み合わせた洒落た店内は少し落ち着いた感じがして、こう言っては悪いが春日さんの年で選ぶには割と大人びた店だ。夕食には少し早い時間だけど、もうテーブルは半分ほど埋まっている。

「お疲れ様です」

 席に案内されると、春日さんが座ったまま会釈した。相変わらず人を安心させるような微笑みに、私も自然と頬が緩む。

「お疲れ様。ごめんなさいね、面倒な事をさせて。私も、これまでなかなか後輩とこういう機会が無かったため、何と言うか」

「いいんです、気にしないでください。何であれ、こうして水島係長とご飯を一緒にできるだけで楽しいんです」

 何ていい子なんだろうか。私が同じ立場だったら、こうも言えるだろうか。私は照れ隠しにメニューを開く。

「春日さんはここに来た事はあるの?」

「あ、いえ、実は初めてなんです」

 彼女もまた、はにかみながらメニューを開いた。

「この食事会が決まってから、係長に合うようなお店を探してて、何かここが雰囲気いいなぁって思ったんです」

「私は春日さんとなら、どこでもいいけどね」

「あー、もう係長ったら、そんなヤバい台詞言うんですからー」

 こうして和やかに始まった一次会のお店は料理はもちろん、お酒も美味しかった。最初はぎこちなく、主に仕事の話題で始まった会話も、次第に最近面白かった事などのプライベートにまで踏み込んで話せるようになっていった。

「係長もそういうの好きなんですねー」

「お客様、ラストオーダーの時間となります」

 けれど緊張とお高めの値段という事もあってお酒もようやく緊張をほぐしてきてくれた頃に、時間となった。私達は顔を見合わせ、意思確認をする。

「二軒目、私の知ってるお店でいい?」

「はい、もちろん」

 そこに冗長な言葉はいらなかった。既にある程度の信頼関係と興味を抱けているため、もっと話がしたかったからこそ自然に誘い、ありのまま受けてくれた。それがもう嬉しくて嬉しくて、これまでにないくらい胸が疼く。

「二軒目ってどんなとこなんですか?」

「ワインバーだよ。ワインの他にも少しはあるけど、もし苦手なら別の店にするよ」

「いえ、そこがいいです。私、ワインは詳しくないけど飲めるので」

 これが男同士なら、肩でも組んで歩くのだろう。もしくは同性でも気さくな人ならば、ぐっと抱き寄せるくらいはするのかもしれない。私も気持ちではしたかった。でも、そういうキャラでもなければ、好きな人にそんな事をノリでできるほどの度胸も無い。

 だから作った大人の笑みで歩く。三十二になって係長と呼ばれ、身に付けたのは上手な愛想笑いと心の隠し方。そのため距離感の詰め方が分からなくなってしまった。誰かと夜の街を飲み歩き、無邪気な笑顔の見せ方を。

 対して、春日さんはそれがとても上手だ。こんな私にも明るく楽しそうに、実に嬉しそうに笑う。他の人からすれば反応しにくい事にすら、楽しそうに笑って彼女なりの意見を添える。こんな事は男女問わず勘違いを起こしそうだし、彼女が人気者なわけも改めてわかった。

 夜風がほんのわずかに酔い覚ましをしてくれた頃、二軒目が見えた。

「いらっしゃいませ。二名様ですか?」

 薄暗い照明に照らされるのはクリーム色の壁を赤いレンガであしらえたような店づくり。ワイン蔵をイメージしているかのような店内はそう広くないけれど、宵の口のためか八割方埋まっている。私達は二人用の席に通されると、まずはメニューを開く。

「係長、私はホントに詳しくないので、お任せします。同じのをお願いしますね」

「わかった。何かつまむ? チーズとか」

「それも含め、お願いします」

「じゃあ、白でいい?」

 この店は国別でおススメを出してくれるので、ワインは好きだけど品名までは覚えられない私のような人にはすごく楽だった。一般的にはフランスワインなのだろうが、私は最近好きで飲んでいるジョージアのワインをお願いした。

「わ、美味しいんですね。なんかフルーツみたいな感じで、美味しい」

「馴染みはあまり無いかもしれないけど、結構いいのよ」

「係長はやっぱりそういうの詳しいんですか?」

 身を少し乗り出し、興味津々と言った感じで笑みを浮かべる春日さんは照明のせいもあってか、とても綺麗だ。

「あまり詳しい方ではないと思うけど。ただ好きで飲んでいるだけで、詳しい人ならどの種類のブドウがとか、どこそこの産地のはどうとか、これは当たり年だとかわかるみたいだけど、私にはサッパリ。あとね」

 目の前のお酒に勇気をもらうように、私は一口だけ傾けた。

「二人きりの二次会だから、役職呼びじゃない方が嬉しいな」

 願望がこうして言葉になるなんて、やっぱり酔っているみたいだ。普段ならばこんな事、パワハラだと不安になってしまう。押しつけや強要など、敏感に反応してくる人は多い。たった一言の失言が全てを奪いかねない時代、不安になって当たり前だろう。

 でも今、それを飛び越えて仲良くなりたいと思っている。

 何と呼ぼうとも常識の範疇であればいいのだが、それでも役職で呼ばれるのは壁を感じてしまう。今は会社の飲み会ではないし、仕事中でもないのだから、せめて……。

「わかりました。では、水島さんでいいですか?」

「うん、それでいい。ありがとう、春日さん」

 そんな私の不安や願望を春日さんは笑顔一つで包み込む。それにつられ、私も微笑む。あぁ、今日だけで何度これが繰り返されただろうか。何度救われただろうか。人付き合いが下手な私を、年下の春日さんが柔らかく導いてくれる。好きになっている人にそうしてもらえるなんて、私は幸せ者なのだろう。

「ところで、勘違いだったら恥ずかしいんですけど」

 彼女も口をうるおすと、すっと身を乗り出して私と視線を合わせた。それが何だか、照明の加減のせいなのかどうかわからないけど、何だか艶っぽく見える。

「水島さん、私の事結構見てますよね」

 バチンと心臓を叩かれたような衝撃が走るけど、私は誤魔化すようにワイングラスに口を近づける。

「そりゃあ、こうして二人きりなら」

「あ、いえ、今じゃなくて。仕事中にです」

 気付かれていたのか……。いや、まだ隠せる。

「それは上司として仕事に困っていないかだとか、ちゃんとやっているかなとか、そういう感じで見たりする事が多いから、そのせいかなぁ」

 こうして逃げるから、私はいつも逃すのだろう。それを認め受け止め、なお相手に問いかける事ができれば、私の人生はもっと彩り豊かなものだろう。でも、できない。それは性分であり、成功体験の少なさ故。だからすっと春日さんの瞳の輝きが失われるのもわかるし、この広がる失望にも慣れている。

 あぁ、そうだ。何度も見た、失望の眼。

「そうですか。それはなんか、ちょっと寂しいです」

「と言うと?」

「こっからは酔ってるせいにして結構ですけど、私は水島さんの事が好きなんです」

「え?」

 驚いた後に言葉を繋ごうとしたけれど、出てこなかった。何を言っても嘘のような気がして、とっさに言い表せない。まだその好きがどういう意味を持っているのかわからない。私が欲している好きは普通に考えれば無理だとわかっている。だけどあれこれ反応すれば、それが見たくない形で露見してしまう。

 だから私は絶句し、目を丸くさせてしまったのだった。

「そんなに驚く事ですか? だってすごく聡明で、頼りがいがあって、優しくて」

 あぁ、やっぱりそういう事か……。

「それでいて」

 グラスを手にしながら、春日さんがにやりと口元をゆがめた。

「可愛くて、一緒にいたいんです」

 怪し気に目が光る、その唇がやけに艶っぽく見える。私はその言葉が何を意味するのかすぐにわかったが、まだ自分を出すのをためらってしまった。

「春日さんはその、そういう気があるの?」

「えぇ、そうですね。でも、水島さんもそうなんじゃないんですか? 多分ですけど、そんな気がします」

 一挙手一投足、一言一句が不思議な力を持って心に響く。ゾクゾクとする心と身体の芯。私はその春日さんの小さな笑いにすっかり魅了され、でもわずかに抵抗をする社会人としてのプライドで微笑み返す。

「どうかな……色恋なんか忙しくてすっかり忘れちゃったから」

「えー、じゃあ私が思い出させてもいいですか?」

「自信満々なのね」

「えぇ、好きですので」

 はっきりそう言う彼女に私の心はすっかり高揚していた。薄暗い照明に映えるとろんとした瞳にぽてっとした瑞々しい唇。わずかによれた前髪をかき上げるその細い指に、酔いもあってか眼を奪われる。このまま、流されてみたくもある。

 それでも、最後まであがいてしまう。それは臆病からなのか、それとも幼稚な私の駆け引きなのか……。

「じゃあ、思う存分試してみてよ」

 余裕ある大人の笑み。そんな仮面をつけようとするけど、そんな私を見透かしたように春日さんが微笑んだ。

「えぇ、わかりました。ノンケの方はそんな風に言わないので、思う存分試させてもらいますね」

 その嗜虐的な眼差しに私はぶるりと震え、じわりと熱くなったのを誤魔化すように薄く笑いながら白ワインを傾けた。

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