〜あの子の瞳と月〜
人に優しくされるのは、慣れていない。
優しくすることも、誰かを想って笑うことも、できない。
けど、あなたが私を大事にしてくれるから。
そんなにも優しく、私をみつめるから。
一年前。
『はあ、はあっ…』
息をきらしつつも、よぼつかない足取りで路地の奥へ逃げていく男を追いかける。
午後五時。
空をどすぐらい鉛色の雲が覆っていて、夕方にしては薄暗い。
小雨が目に入ってつらい。
もう定時だから、このターゲットを殺してから今日は上がろう。
逃げ場がない隅に男はうずくまり、私をおびえた瞳で見上げる。
『た、頼む、見逃してくれっ…俺は、妻と息子がいる家に帰らなきゃいけないんだっ…』
『見逃してくれといわれても、あなた罪人ですし』
そういって刃物をかざせば、男は私にしがみついてきた。
『ざ、罪人じゃないんだ!俺は本当は罪を犯してないっ!しくまれたんだ、親友だと思ってたやつにっ…!』
聞き捨てならない言葉に、眉をよせ聞き返す。
『罪人じゃない?どういうことですか?』
『俺は本当は、女なんて殺してないんだ!たまたまその場を通っただけなのに、俺の親友が嘘つきやがったんだよ!おかげで俺は刑務所送りだ!!』
必死に訴えてくる瞳は、嘘だとは思えないほどの不安と、動揺と、純粋な色。
たぶん、この人が言っていることは、でたらめではない。
何年も殺しやをやってきたのだ。
その人が嘘をついているかぐらい、判断がつく。
『では、私が説明します。とりあえず、ついてきてもらってかまいませんか?まずはうちのボスに、事情を話します。そしたら、いったんあなたが殺されるということはなくなるでしょう』
私が彼の目線にあわせしゃがみこむと、初めて、男の顔に安堵の色がうかんだ。
『…あんたは優しいんだな。ありーー』
パアーンッ!!
私の横すれすれを、なにかが勢いよく通り過ぎ、男の脳天に命中した。
撃たれた男は目を見開いたまま、ガクッと首をたれる。
私はゆっくりと、拳銃をうった張本人を振り返った。
『…フウゲツ』
『なにしてんすか、ナツネさん。こいつターゲットですよ?なんで殺さないんですか』
ゆらりと立ち上がり、フウゲツをみやる。
『な、なんすかナツネさん。そんな怖い顔して。俺なんも間違ったことしてないっすよ』
衝動をおさえきれず、ひきつり笑いをしているフウゲツの襟首をつかむ。
『さっきの人は罪をおかしてない。無罪だ。今からその無罪を証明しに、ボスに会いに行くつもりだった』
『はっ?まじで?』
ぽかんとしているフウゲツの顔をみて、こいつは信じてくれると期待したとき。
『何いってんすか、ナツネさん。無罪とかありえないっすよ。つか、疑われるようなことするから悪いんですよ』
さあっと、雨音が強くなった。
私はフウゲツの襟首をつかんでいた手を、ゆるゆると離す。
ーー今さらながらに、理解する。
こいつは私より若くても、れっきとした殺しやなのだと。
『じゃ、行きましょ、ナツネさん。たしかみせしめのために、遺体はそのままにしとくんでしたっすよね?』
無邪気な、曇りのない瞳で私を振り返るフウゲツ。
『…あんたは優しいんだな』
さっきまでそこにいた、あたたかい声が、耳にこびりついてる。
遠ざかっていくフウゲツの背中が、雨の悪い視界のせいで、よくみえない。
『……違う…』
あご先から、ぽたっとしずくが落ちた。
私は、優しくなんてない。
罪のない人すらも、守れなかった。
それから、私は殺しやをやめた。
ボスにも、仲間たちにもぎりぎりまでしぶられた。
けれど、おまえが必要なんだという彼らの言葉に、何も感情をもてなかった。
そのころから、笑うことができなくなった。
何人も殺めたこの手で、今度は私の大切な人を助けてもいいのだろうか。
ただただボスに従って、「わかりました」を発してきた口で、笑ってもいいのだろうか。
「殺し屋としての水響にも、メイドとしての水響に出会ったとしても、俺は同じ事をおもったと思うよ。心もみためも、きれいな人だなって」
雷が一瞬、私たちを照らした。
それが最後とでもいうように、いつのまにか雨はやんでいて、部屋は真っ暗になった。
なにをいっているのだろう。
私が、きれい?
何人も殺めてきたこの手が。
泣いてすがりつかられても、表情一つ変えないほど思いやりがないこの心が。
私は、大っ嫌いなのに。
「…失礼ですが京真さま。こんな私に、きれいだなんてお世辞を言わないほうがいいですよ。そういうことはもっと大切な方にーー」
そこまで言って、ハッと口をつぐむ。
案の定京真さまの顔が、険しく変わった。
「…俺がどれだけ水響のことを大切に思ってるか、よくわかってないようだな。こんなにも態度にだしてるのに」
距離を近づけてくる京真さまからじりじりと後ろに遠ざかる。
と、とんっと壁にぶつかり、腕で逃げ道もふさがれた。
「俺がどれだけ言っても、水響は自分を大切にしないもんな?」
「っ、京真さま…。は、離れてください。ほかの使用人たちがそろそろ見回りに…」
たぶん私の顔、真っ赤。
距離近いし。
京真さまの顔も声も鋭いのに、それは私を想ってくれての優しさだから。
「さっきの言葉、訂正しろ。…水響なら、簡単に俺の手なんてふりほどけるよな?」
そういって、間近でにいっと意地悪く笑う京真さま。
ぐっ…と息がつまる。
もしかしてお返し?
私が京真さまの言うことをきかないから…。
「そ、その言い方はずるいです…」
私が京真さまを拒むわけないってわかってて、きいてるんだ、この人。
彼をちらりと見上げると、京真様はんぐっと息をつまらせた。
そのとき窓から、屋根の上に人が座っているのが小さく見えた。
見覚えのある姿に、思わず声が出る。
「あっ…」
「え、どした?」
隙ができたから、ぱっと京真さまから離れ、扉の方へとかけだした。
「すみません京真さま!用事を思い出しました!先に夕食を召し上がっていてください!」
「はっ!?ちょっ、水響!?」
パタパタと駆けていく私の後ろで、京真さまが一人、大きな息をついていたような気がした。
ひゅーっと風が吹く中、俺、晶相花鳥は、貴堂家の屋根でひとりごちていた。
あたりはもう真っ暗で、俺の真上には、銀色の球体がぽつんと存在を示してる。
満月を見上げれば、ちょうど気持ちいい夜風が、俺の前髪を持ち上げた。
……ナツネさんの色だ。
俺が憧れた、何者にも染まらない瞳。
冷たいように見えて、本当は上から優しく月光を照らしてくれてる。
俺たち部下にとっては、ナツネさんはそんな存在だった。
ちょうどナツネさんのことを考えていたとき。
「フウゲツ。そこで何をしてるの?」
今一番ききたいと思っていた声が急に聞こえたから、驚いてばっと振り向く。
「ナツネさん…気配消さないでくださいよ、びっくりする」
「京真さまが狙いのようではないようね?」
俺に話しかけてくれながら、ナツネさんも俺の横に座る。
急に憧れていた人と近い距離になって、心臓がうるさくなってきた。
「正解っす。俺、今日はナツネさんに用事があってきました。…俺、殺しややめようと思います」
俺が真剣な顔でそう言えば、めったに見ないナツネさんの驚き顔と目が合う。
「そうなの?じゅうぶん急なのね」
「はい。…いや、俺にとっては、急ではないんです。ずっと、心の中でモヤモヤしたままで……。けど、やっと今日、けじめがついたんです。もうボスにも話はつけてきました」
「そう…」
ナツネさんはふと悲しそうな顔をして、真上の月を見上げる。
「俺は、ナツネさんにずっと憧れて、あなたを目標にして殺し屋をつづけてきました。でも、こんな方法じゃ、俺の大切な人は守れてないかもってーー。あなたの主人に言われて気づいたんです」
ナツネさんが、月から視線を俺に変えた。
「あの人は、俺の手をーーきれいだと、強い手だと、言ってくれました。俺、そんなこと言われたの初めてで、あんときはテンパってたんですけど…。殺しやをする以外にも、俺の姉ちゃんを守れる方法はあるよなって、気づきました」
俺の姉ちゃんは、今は病院で入院している。
両親もいないから、俺が稼いだ金で、姉ちゃんの入院費をだしてるんだ。
けど、殺しやなんてしなくても、俺には他に、もっと別の道がある。
そう思わせてくれた。
俺はスクッと立ち上がって、ナツネさんを見下ろす。
「ーーあの人に、お礼を言っておいてください。直接は、なんかちょっと恥ずかしいので。俺も来週から高校にまた行こうと思ってます」
無表情だけど、誰よりも優しい色で、俺をみつめてくるナツネさん。
「…ええ。伝えておくわ。フウゲツも頑張って」
「はい。じゃあ俺、そろそろ行きます。今までお世話になりました。また会うことがあるといいです」
「そうね」
くるりと後ろを向き屋根を降りようとして、ナツネさんを振り返る。
「それと。ーーあの人は、ナツネさんにとって、自慢の主人ですね」
ナツネさんはゆっくりと瞬きをして俺をみつめーー。
ふわりと、微笑んだ。
「ええ」
実感がこもった声音。
初めてみたナツネさんの笑顔に、俺は言葉を失った。
「フウゲツ?どうしたの、疲れてる?」
心配そうな声で聞かれたから、慌てて距離をとる。
「あっ、いえ、ナツネさんの笑顔、初めてみたから…」
「えっ?」
ナツネさんは驚いて、ぱっと自分の頬をさわる。
俺はぷっとふきだして、月を背景に声をあげた。
「ナツネさんにとって、あの人は特別なんすね」
「っ……」
ナツネさんの顔が、じわっと熱を帯びる。
だけど、何も言わずに、眉を下げて、口をとじた。
「…じゃあ、ほんとにさよなら」
俺はこれ以上、ナツネさんの顔を見てられなくて、とんっと屋根を蹴った。
「あっ、フウゲーー」
後ろから聞こえたナツネさんの声から逃げるように、俺は屋根から屋根へと飛び移って、貴堂家から離れた。
なんとか自分の家のアパートについたから、カラ…と窓を開ける。
俺はそのまま窓に座ったまま、また夜空の月を見上げた。
「…あんな顔されたら、勝ち目なんてねえだろ…」
くしゃっと髪をかきあげる。
俺のナツネさんへの感情は、先輩への憧れと、もう一つ。
「…きれいだな…」
指で月をはさんで、つまむようにしてみる。
こんなことしたって、月が手に入るわけでもねえのに。
誰のものにもならないと思ってた。
だから、いつか思いを伝えるのは、まだ先でいいやってのんきなことを考えてた。
けどいきなり、俺にはなんの相談もなしで、ナツネさんは姿を消した。
だから必死に追いかけたんだ。
好きだから。
手に入れたいから。
「…ばかみてえ…」
俺のつぶやきは、大きくふくれあがったカーテンの音にかき消されて、消えた。
続く