第二十九話
武田軍を敗走させた『富士川の合戦』から1ヶ月が過ぎていた。武田軍は東駿河から完全に撤退し日本軍は一先ずの駐屯する城を興国寺城にしていた。
「それで武田の動きはどうかね?」
「……気味が悪い程動いていません」
「恐らく、信玄が負傷しているからでしょう。武田家は信玄で持っている。そう過言ではありません」
「フム……」
「まぁ、武田が出て来ないならそれでも宜しいのでは? 問題があるとすれば……」
「……『北条』か……」
日本軍が東駿河の武田を追い出した事で相模・伊豆のルートを見出だしてしまう。そして相模・伊豆・武蔵等を領地として活動しているのが戦国大名の北条氏康が率いる北条氏であった。
この頃、北条は上総の支配権を巡って対陣する第二次国府台合戦を行っていたりしている。また、この合戦で北条軍は遠山綱景、富永直勝、舎人源太左衛門経忠等が討死しており有力な武将を失っていた。
「……北条攻めをしますか?」
「……今暫くは様子を見よう。まだ、東駿河の治安維持の事もある。但し、準備だけは進めよう。それと向こうから殴って来たら殴り返す」
「分かりました。その方向でいきましょう」
日本軍(島津隊)の方針は決まった。そこへ通信兵が駆け込んできた。
「伝令ェ!!」
「何か?」
「相良油田基地から緊急電です!! 相良港沖合いに輸送船と護衛艦艇が出現したそうです!!」
『ッ!?』
通信兵からの報告に島津達に衝撃が走った。我々の他にもこの世界に来た者達がいたのだ。
「し、司令ッ」
「落ち着くのだッ」
慌てる栗田少尉に島津はそう言い腰をあげる。
「我等司令部は直ぐに引き揚げる。それ以外は東駿河にて暫くは駐屯する」
『ハッ!!』
島津達は直ぐに相良油田に向かうのである。無論、和将達にも報告が行き、和将らも相良油田に向かうのであった。
「あれは……第十九号型掃海艇じゃないか!?」
数日後、相良港に到着した和将は停泊している2隻の掃海艇と1隻の戦時標準船を見る。他にも2隻の駆潜艇、駆潜特務艇6隻も停泊していた。
「隊長、これはもしかして……相良港に入港予定だった船団じゃないですか?」
「何? それは本当か水姫之?」
「はい。確か当初は鉄道で輸送しようとしていたらしいですが、2月の空襲の被害もあったので船団輸送に切り替えたんです」
「成る程。そいつらが此方に来たというわけか」
「その通りです」
そこへ二人の後ろから声がし、振り返ると50過ぎの海軍大尉がいた。
「第二十四号掃海艇艇長の山崎予備大尉です」
「失礼しました。相良油田基地陸戦隊隊長の葛城です」
「ハハ、敬語は構いません。少佐が現役ですから」
「そうですか……」
「元々は東北から北海道の護衛をしていたんですが……相良油田の基地化をするために急遽横須賀に呼ばれまして……そしたら相模湾を航行中に雨雲が飛来し雷にやられたと思ったら……此方に来ましてね」
「成る程。そういえば我々の活動に関しては……?」
「島津少将からお聞きしました。まぁ、あの戦争を少なくとも負ける事にしない為だったら戦国の世からやるしかありませんな。ハッハッハッ」
山崎予備大尉はそう言って豪快に笑う。
「海からの援護ならお任せ下さい。2門の12サンチしかありませんがやれるでしょう」
「頼りにしています。一先ずの問題は港の整備ですがね……」
「ですな。あぁ、それと輸送船の積み荷はまだ知らないでしょう? これが積み荷の書類になります」
「ありがとうございます」
和将は山崎予備大尉から書類を貰うと一目する。
1E型戦時標準船
『第六雲洋丸』
【積み荷】
五式七糎半戦車砲砲弾700発
十八年式小銃(500丁)及び弾丸50000発
十八年式騎兵銃(100丁)及び弾丸50000発
90式野砲砲弾700発(チヌと兼用)
二式十二糎迫撃砲6門及び砲弾1200発
短12糎砲砲弾400発
三八式実包(6.5ミリ)9万発
二十二年式村田連発騎銃(100丁)及び弾丸12000発
九二式7.7ミリ実包3万発
ベ式機関短銃(20丁)及び弾丸15000発
油田採掘資材
東京重機工業の社員15名(相良油田基地武器弾薬製造施設での弾薬製造のため)
「小銃や砲弾もさながらベ式があるのは嬉しいですね。それに社員もいるのも良いですな」
「おや、ベ式は無かったのですか?」
「ありますけどス式とかもあるのでね」
「成る程」
和将の言葉に山崎予備大尉は頷く。海軍は戦前、特に第一次上海事変(1932年)以前から陸戦隊に導入されており、むしろ陸軍より機関短銃の運用は長けていたのである。また、上記の第一次上海事変でベ式機関短銃の有用性が証明された事で日本における国産短機関銃の開発に繋がる切っ掛けになっており、後に開発配備された一○○式機関短銃もベ式の影響があるのである。
なお、和将が持っているのもス式自動拳銃であったりする。
「相良港が使えれば燃料タンクの製造もしたいですがねぇ」
「社員に無理は言えませんから。それはそうと社員達は大丈夫ですか?」
「堪える人はいますが、相良油田基地にいた社員達と協力してやってます」
軍人なら割り切れるかもしれない。が、社員は民間人であり精神的にはキツイだろう。実際、数人の社員は仕事に打ち込む事で家族の事を割り切ろうとしていたのである。
相良油田基地は彼等と合流した事で更なる戦力が向上する事になる。だが、武器は分配されるが基本的な武器は改良型ドライゼ銃となっている。
これは小銃や弾丸の予備が無いからであり砲兵工廠等が転移してきたら話は別だが、その為基本的な主力小銃は改良型ドライゼ銃なのである。
また、社員の中でも反射炉の製造に詳しい者がいたので基地周辺で反射炉が作成中でもあったりする。他にも九州筑豊方面にも商人(元織田家お抱えの商人等)や堺の今井宗久等を通じて石炭の仕入れをしており艦艇の航行も今のところ問題は無かった。(第『十九号』型掃海艇は石炭重油混焼の為)
それはさておき1565年12月27日、甲斐では療養中であった武田信玄は年を越える力が残っておらず躑躅ヶ崎館にて世を去ったのである。
「ゴホッゴホッゴホッ!! ……無念じゃ……ゴホッゴホッゴホッ!!」
「兄上ッ」
「信廉……暫くはお主が武田家を継げ……」
「……では成長したら五郎を?」
「そうじゃ……四郎が生きて……いや、義信がおれば……ゴホッゴホッゴホッ!!」
「兄上ッ!?」
「紙……筆を……」
咳き込む信玄、口から血が噴き出る。信玄は布団を血で汚しつつ渡された紙に筆で書き込み、書き込み終わってから横たわる。
「……にっくきは日本軍……奴等だけは許しては……」
「兄上ッ!? 兄上ッ!?」
信玄はそう言い残して世を去ったのである。そして遺言に記載されていたのは以下の通りであった。
・後継者は五郎(史実の仁科盛信)
・五郎が元服までは武田信廉が武田家の当主
・自身の死を三年間は隠蔽する事
信玄が死去してから信廉は家臣団と遺言を確認し、遺言通りに五郎が元服するまでは信廉が武田家当主となるのである。
なお、死去に関しては直ぐに情報が他国に知られた模様であった。信玄の死去に喜んだのは信玄に国を攻められ取られた大名達であり死去に悲しんだのは『越後の龍』との異名がある上杉輝虎(後の謙信)でありただ悲しむだけであり直ぐに切り替えて日本軍と接触しようと画策するのである。
そして1566年の年が明けた。和将は岐阜城にて水姫之らと年越しを迎えた。
「今年は良い年にしたいものだな」
「今年に天下統一したいですね」
「岐阜を取るのに数年我慢したからなぁ」
1月1日の朝、和将らは新年の挨拶をしつつ餅つきをする。なお、餅をつくのは虎姫であり捏ねるのは和将であった。
「行きますッ」
「おぅッ」
「オラァッ!?」
『えっ、怖……』
そんな掛け声と共に餅つきが行われるのであった。
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