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ノベラボ

#000002

作者: 安井優


 朽ち果てた教会で、男女は見つめあった。


 何百年という長い歴史の中で風化し、崩れ落ちた天井からは燦々と陽射しが降り注ぎ、ステンドグラスが美しくきらめいていた。いつからそこに生えているのか、白と黄のユリは、教会に風が吹き込むたびに柔らかく揺れる。退廃した石材が空気中に散乱し、チラチラと光を跳ね返す。その様子は、その場所をどこか幻想的に仕立て上げていた。

 祭壇さえ原型をとどめておらず、そこにいるはずの神の姿もないというのに。


 ――愛を誓うには、いささか廃れすぎている。

 だが、二人にはそれで良かった。


 女は左手にギチリとグローブをはめ、その手をぎゅっと握りしめる。拳を引き、男を見据えると、相対する男もまた、体を右へと逸らせた。女には見覚えのない、彼のガントレット。それが、やけに切なく、冷たく、銀白に反射した。


 かつて愛した男を前に、どうして平常心でいられようか。

(殺してやる)

 女の気持ちはただその一言に尽きる。いや、正しくは。彼との甘い記憶が呼び覚まされる前に……、彼への憎悪が悲しみに変わってしまう前にケリをつけなければ、その情に自らが殺されてしまうだろう。そういう思いであった。



 だからこそ彼女は、その一歩目をためらいなく踏み出した。

 ――男へ向かって左掌底。右腕は男のガントレットに阻まれたが、左手は綺麗に彼の顎を捉えた。

(わざと殴られているの?)

 そう思ってしまいたくなるほど、あっけなく一発目が決まる。続けざまに、右、左、右。腕を繰り出し、二度目の左掌底。それも再び男を捉える。続く右ストレートも男の顔へ。男の体がヨロリと後退する。


(どういうつもり……?!)

 思わず怒りがこみ上げる。目の前の男の強さはこんなものではない。それは、彼女が一番良く知っていた。何度となく訓練で組み合ったが……、女は頭をよぎる記憶を消し去るように、左足を勢いよく踏み込んだ。


(これも避けないの?!)

 どうして。女は自らの右足に感じた衝撃に目を見開く。男の顔に回し蹴りが決まったのだ。今までの彼なら避けていた、と余計な気持ちが心を通り過ぎ――「っ!」

 女の眼前で閃光が瞬く。バツンッ! と耳障りな音が弾け、女の体には電流が走った。

(スタンガン……!)


 まさかそんなものが仕込まれていたとは思わなかった。女の知っている男は、そういうものを嫌う人間だったのだ。だが、それもすべて作り上げられた偽りの仮面ということか。

 女はすぐさま男との距離を開ける。残留した電気は、グローブからバチバチと放電を繰り返す。女は内心で舌打ちをすると、麻痺した右手を軽く振り払った。


 男は、素直すぎるほどまっすぐに自分へと向かってきた女に、思わず笑みを浮かべた。

 変わらない。何もかも。訓練の時も、それ以外も、いつだって彼女は、自分に対して正面から向き合うのだ。

 ……そう。彼女を裏切った今でさえ。

 真正面、足元へと滑り込んできた女の払い蹴り。

 それを易々と跳躍してかわし――

「くっ!」

 男は、背後からとびかかってきた女の左ストレートを甘んじて受ける。体は右へと吹き飛ばされ、背中に衝撃が走る。

 男はその痛みを、神が与えた罰だ、と思う。


 十字架の道行も、今や意味をなさない。

 男は支柱と壁の隙間を、全速力のバックステップで下がる。下がる。下がる。深く、狭い奥行きが支配する空間には、もはや光も差し込まず、迫りくる彼女の顔さえも満足に見ることは出来ない。彼女は常人離れしたステップで、壁を、支柱を蹴りつけ、男の延髄目掛けて右足を放つ。

(三角飛び蹴りも、様になったじゃねぇか……)

 男もただでやられるわけにはいかない。彼女との最後の逢瀬を、少しでも長く楽しんでいたかった。

 息をつく暇も惜しんで、バク転を一回。だが、いくら教会が縦に長い構造とはいえ、これ以上は壁が来る。

(チッ)

 男が歩幅を詰めようとスピードを落とした――その時。

 女の高く蹴り上げた右足が、男の体を空へと放りだした。


(終わってない!)

 女を追い立てるのは、今までの経験。男の体勢が整う前に、とさらに足を踏み出す。が、男は速かった。彼女の知る本来のスピードで、伸びた彼女の手を阻むように、すぐさまガントレットをかざす。女も反射的に右手首を体へ引きつけたが、接触は避けられず。ガントレットとの衝撃が腕全体に走る。鈍い音が静寂に響く。

(やっぱり……あなたは……)


 視線が交錯する。

 男の淡いグレーがかった、オリーブの瞳。

 心臓を一突きで貫いてしまうような、鋭い眼光。

 その奥に揺らぐ、わずかな悲哀。


 ――出会わなければ良かった。


 次の瞬間には、二人の間を電流が切り裂いた。

 空気を震わせた小さな稲妻に、女の右腕は再び痙攣した。思わずその衝撃に体がよろめく。男が、そんな女の隙を見逃すわけがない。男の左足から繰り出された前蹴りに、攻守逆転。女は側面の壁際へと追いやられる。目の前に迫るスタンガン。

(何度も同じ手にはかからないわよ!)

 女はとっさに身をかがめ、直後、爆風が右耳を掠める。老朽化した壁の表面は崩れ、粉々になった石材が舞う。それだけの威力で放ったのだ。スタンガンはすぐには抜けない。


 その一瞬。

 ほんのわずかコンマ数秒。


 女は男の首を掴み、全体重をかけて前へと押し倒す。壁を強く蹴った足を体へと引き付け――(ここだ!)

 男の鳩尾を左足で踏みつけた。


「ぐっ!!」

 男は思わず声を上げた。じわじわと鈍い痛みが広がる。初めて女を抱きかかえた時はその軽さに驚いたものだが、こうも勢い良く全体重を一点にかけられては、男の体も悲鳴を上げる。

 視界には、ゆっくりと目の前を通り過ぎていく、彼女の美しい脚部。

(あぁ……。本当に、惜しいことをした……)

 男はその健康的な流線形に手を伸ばす。本気でつかめば折れてしまいそうな足首。無防備な彼女のそれは、いとも容易く彼の右手に収まった。

「ぁっ?!」

 油断していたのか、それとも、彼女も何かを考えていたのか。喘ぎ声のような、女のひっくり返った声がこだました。


 一回、二回、三回……。自らの平衡感覚が失われていきそうなほど、激しく女の体を回す。彼女の体が長椅子とぶつかり、木片が飛び散る。美しい教会のステンドグラスが、まるで万華鏡のようにクルクルと、男の世界を変えていく。

 男は、自らの犯した罪を数える。……そして。

 その罪と決別するかのように、彼女に最も良く似合う――光の射す方へ、その体を力いっぱい放り投げた。


 ダァンッ!

 低く響き渡る、発砲音のようなそれは、彼女が壁にぶち当たった音……ではなく、彼女が壁に足をつけ、その体を支えた音だった。


 衝撃で空気が巻き上がる。

 ぶわり、と甘く濃厚な香りが辺りを包む。優雅で、上品で。それでいてどこか胸を締め付けるような、瑞々しく鼻にツンと刺す香り。芳しく、豊潤でありながら、一瞬後には消えてしまう刹那の香り。

 二人は自然と思いを馳せる。

 初めて出会った日。互いに笑いあった時間。重ねた体。幸せな記憶。いつかの約束。

 ――二人には不釣り合いな花束の、その白と黄の美しい色彩。

 風が吹く。花が舞う。

 祝福の鐘の音が聞こえたような気がした。


(綺麗だ……)

 男は、思わず口角を上げた。


 ――壁を蹴った女。舞う花の、最後の一片が彼女の髪から名残惜しそうに離れると、女の両手は男の首元を掴んでいた。男の体は、グイ、と後方へ引きずられ、勢いそのままに教会の入り口へ。男の足や背中が床に打ち付けられようと、女はそのスピードを落とすことはない。

 だが、男も最後の粘りを見せる。女の温度が離れるその一瞬にも、沈痛な面持ちを浮かべてしまうというのに。無理やりに体をひねり、彼女の腕を振りほどき、素早く床を蹴りつける。高い天井に向かって四肢を投げ出すと……真下に女の姿が見えた。


(まさか、最後まで俺を追いかけてくるとはな)

 男がふっと笑みを浮かべた瞬間。

 彼女は、まるで天へ吸い込まれるかのように、男のもとへとその手を伸ばしたのだった。


 最後の邂逅。

 視線が交わることはない。

 男の首根っこに、女の手がかかる。

 やがて、男の体は地に叩きつけられ、女は静かに着地した――。



 濛々と上がる塵埃。

 男が立ち上がることはもうない。

 女は横目に、男が息を止めたであろう場所を見る。

 女は涙すら流さない。

 女は、祈りすらささげない。


 だが、それで良かった。

 ――この教会には、愛を誓う神すら、いないのだから。


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