死霊の王は、亡国の姫君に傅く
「いざ、」という言葉を使いたくなったら、こうなりました。(遠い目)
悪いのは、意味も分からず歌っていた「ウ・ヴォイ」(うろ覚え)という曲が外国との懸け橋になりましたな美談以上にインパクトがあった、その曲の内容です。(真顔)
それは、何もかもを投げ捨てた人間だけが発する、喚声だった。
――いざ、戦場へ――
――戦場へ戦場へ戦場へ戦場へ戦場へ戦戦戦場へ場へ戦場へへへへへ戦場へ戦場へ戦場へ戦場へ戦場戦場へ戦場へ戦場へ戦場へ場へ戦場へ戦場場場へ戦場へ戦場へ戦場へ戦場へへ戦戦戦戦場場場場へへへ戦場戦場戦場戦場場場場へ戦場戦場へ――――――――
小さな小さな、国だった。
急峻な山脈を揺り籠に、周辺の不毛の地にはない奇跡のような恵みを、民が日々神に感謝し分け合うような、穏やかに時間が過ぎていく国。
生と豊穣を司る女神を奉じる国は、……今、亡びを褥に、二度と目覚めぬ眠りについた。
風さえ死に絶え、腐肉を食らう鴉も厭う沈黙が、亡国の有様を雄弁に語る。
払われぬ死臭に、燃え残りの油の臭気が合わさり、生者への拒絶を一層強めていた。
砂漠のオアシスのように、荒涼たる神の御座で人々の営みを支えていた、小さく美しかった箱庭は、侵略者が辿り着く前に自ら壊れた。
――いざ、戦場へ――
ろくな防具もままならず、粗末な武器とも言えぬ武装で、老いも若きも、文字通り一兵卒まで討ち果てた男たち。
その背にあった城壁の中は、彼らが打って出る前に、とうに空っぽになっていた。
立ち尽くす彼の後ろで、堪りかねたように部下が嘔吐く。
部下の勇猛さは、彼がよく知っている。
ただ、目の前にあるのが、歴戦の戦士さえ耐えられぬ、無残な光景であっただけだ。
女が死んでいた。
子供が死んでいた。
老人が死んでいた。
産まれたばかりの赤子まで死んでいた。
ある者は胸を刺され、ある者は首を裂かれ、ある者は縊られ、ある者は垂れ下がる縄の端に括られて――。
……戦場へ行けなかった者たちが、死んで死んで死んで死んで死んで死んで死んで死んで死んで死んで死んで死んで、死んでいた。
また、侵略者たちに奪わせぬためだろう。
しっかりとした造りだった道の舗装は念入りに砕かれ、休みなく働いていたはずの水車小屋は、焼け落ちて見る影もない。
あちこちでたなびく煙を見れば、民の生活に必要だったものは、ひとつ残らず台無しになっているはずだ。
そう、あまりに見事な、それは一国の自害だった。
と、小国の喪に服す亡都の静寂を、鎧兜が擦れる音や、重々しい靴音が塗り潰していく。
下っ端の彼から離れた場所で、目が痛くなるほどの昊の蒼さを切り裂くように、彼が誇るべき精鋭たちの、漆黒の軍装が列をなす。
黒地に月を踏む狼が描かれた彼の故国の旗は、はためく風がないせいで、力なく項垂れたままだ。
侵略者たちに、勝利を手にした歓びはなく、見せびらかしたい栄誉もない。
骸を曝す小さなお城に、攻城戦を指揮した将軍たちが向かう。
死者に捧げる花はなく、喪われた人々を悼む声もなく。
だが、まるで亡んだ国の葬列のように。
***
戦いよりも亡都の惨状に疲弊した部下を休ませ、死に絶えた街を、彼はあてどなく彷徨っていた。
上官から、利用できる物資の探索を命じられたせいだが、彼には徒労感が降り積もるばかり。
目に付く井戸には糞尿、民とともに家畜も丁寧に道連れにされ、倉庫らしき建物は徹底的に灰になっている。
――死と再生を司る神を奉じる帝国に、小さな国が従属を拒んだなれの果て。
ちっぽけな民の安寧と誇りの対価が、小国の滅びと彼らの無駄骨だ。
骨の髄まで染み込むような死臭と、つい最近廃墟となったばかりの街並みが、不死に狂った老帝の走狗を嗤う。
ふと、狂気に引きずり込まれそうな静けさに、ほんの微か、異質が混じった。
呼び止める何かに、彼は必死に耳を澄ませる。
小さな、小さな声に、鉛のようだった足が導かれた。
◆◆◆
「おかえりなさい、おとうさまっ!」
はじける笑顔は、光そのもの。
ふわふわとした白金の髪は、大事に大事に梳られ、幼いながらも蕾の先を楽しみにさせる面を華やかに彩る。
晴天よりなお青い瞳は、きらきらと煌めいて、小さな少女の溢れんばかりの喜びがよく分かった。
「――帰ったぞ、オレのお姫様ぁ~~~~~~っ!!!」
感極まった野太い叫びとともに、少年をここまで連れてきた男が、愛娘を抱き上げ、白桃のような頬に無精ひげを押し付ける。
傍目には、幼い姫君と人攫いといった組み合わせである。
しかし、きゃっきゃと嬉しそうに笑い声を上げる少女が、男にどれほど大切にされているのか、少年にはよく分かった。
元々、逆立った赤茶の髪の、騎士らしく逞しい身体つきをした男は、貴婦人には近づき難い見た目に反し、奇矯なところはあるが気の良い人間であった。
お姫様を守る騎士になりたかったと、侵略先で孤児を拾った挙句、お姫様には王子様! と、継承権は低いが帝孫である少年を引き取っても各所から見逃されるぐらいには、裏表のない男なのだ。
「アンジェっ!
お父さまはな、アンジェの王子様を拾ってきたんだっ!!」
「ほんとうっ?!」
「……」
身分は低いが、武名鳴り響く騎士の斜めにかっ飛んだ台詞と、陽光をまとめ上げたような少女の瞳に、少年は閉口する。
少年は、男に拾われた訳ではない、正確には、帝都から放逐されたのだ。
少年の父親は老帝の不肖の末子、母親は戯れに手を付けられた男爵家出身の侍女であった。
少年が、いてもいなくても変わりのない皇族であったからこそ、帝国の端も端、辺境の領主の入婿として、帝都からほっぽり出されたのだ。
義父の腕から降ろされた少女が、少年に向かって、稚い仕草でぺこりとお辞儀をする。
皇族への儀礼もへったくれもない少女の動作は、しかし、不思議と気品めいたものが漂っていた。
「はじめまして、おうじさま。
わたしのなまえは、アンジェラです」
「どうですか、殿下、オレのお姫様は?」
親バカ全開で、誇らしげににっかと笑う騎士に、少年はなんとも言えない笑みを浮かべた。
――小さな姫君を護るように、老若男女問わず無数の人影が少女を取り巻く。
陽の下では半透明な者たちは、皆、一様に少年に暗い眼差しを向けていた。
そこに込められているのは、おぼろげな幻影であっても分かるほどの憎悪だ。
死と再生を司る神に仕える皇族は、地上に留まる死者を視る目を持ち、死者を統べる。
老帝を果てない不死への渇望へと追いやった神の恩寵は、その双眸を潰さぬ限り逃れられぬ呪いでもあった。
死者たちの無言の断罪を、少年は静かに受け入れる。
積み上がった亡者たちの怨嗟は、他の国々を踏みにじり続けた少年の血族すべてが負うべきものだ。
死を恐れるあまりに、いっそ死者になり替わろうとする祖父の妄執は、生者と死者の無念を繋ぎ、あるいは、死者の力を借りて今を生きる民を護る皇族の責務とは相容れない。
老帝への反逆を企てる父親によって、帝都から逃がされたと理解していたから、少年は、それ以上自分の血から目を背けるわけにはいかなかった。
帝都の宮廷にて洗練された仕草で、皇子様は、亡霊たちに護られた少女の前に跪く。
帝都の魑魅魍魎の目を逸らすために部屋に閉じ込められ、病的に白く細い少年の指先が、みんなから愛されているお姫様の小さな手に、そっと重ねられる。
養父である騎士には、今までお姫様らしい扱いをされたことなどないのだろう。
絵本から抜け出したような王子さまの振る舞いに、幼い姫君は愛らしくほっぺたを染めていた。
「――はじめまして、僕のお姫様」
亡霊たちの服装から、小さなお姫様と彼女を取り巻く死者たちの素性を、少年は察する。
――生と豊穣を司る女神の恩寵を欲した老帝は、長閑で美しかった小国を滅ぼし、しかし望んだものを得られなかった。
老帝の狂気から唯一逃れた宝物に、まだ年若い死霊の王は、優しい口付けを落とした。
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