巳龍 栖咋
十二国土の中でも、巳ノ国は飛び抜けて医療が発達した国だと言われていた。
もっとも、そういうのは大人ばかりで、この国から出た事がない子供には知り様もなかったのだが。
そう思うようになったのは、自分が「大人」になった頃だったと思う。
というよりは、この国以外には医療が乏しすぎる。
そう思ったといった方が正しいだろう。
国の中央の位置にある広い公園を北に抜けると、商店街が見えた。
陰国と近い位置にある巳ノ国は物流も盛んで、欲しいものは大抵この市場から手に入った。
態々他所の国の商人が買い付けに来る位で、巳ノ国はいつも盛んな声が響いていた。
商店街をしばらく歩くと、この辺りでは一番大きな病院の看板が見えて来る。
「総合医術・巳龍」
名の通り、外科、内科、精神科、脳神経…なんでも治せるという総合医術。
陽国でも片手で数えられる程の術者しかいない医術だ。
巳龍というのは医院長の名字である。
陽国において、一般には店に名字をつける習慣はなかったが、医療の場合は別だった。
元々、医者という人物が少ない陽国では、医療所にいる医師は改行した本人及び家族だけで運営している事が多い。
良い噂が広がると、患者は医者の名前を覚え、口コミで広げて行く。
店自体が名前である分、遠方の患者が見つけやすく、効率のいい商売道具になるのだ。
この医院の場合は、そんな事をしなくても、この業界で知らない者はいないだろう。
医院長、巳龍心楽。
計算されつくした、正確で迅速な彼の医術は、本国の医療を任される閑さでさえ、一目置くものだったのだから。
この国では医院を見かける事も多いが、「苗字」が名前になった医院は片手で数えるほどしかない。
もっとも、その様な「有力」な人材は本国で「天照神殿役員」として雇われる事の方が多かったから、何故、心楽が本国にいかず、ここで開業したのかと疑問視する声も良く聞かれた。
「心枢、どこにいる」
少し間を置いてから、それが自分を呼ぶ声だと認識した。
未だに、生まれた時に授かった、栖咋という名で呼ばれる方が多かったのだから仕方ない。
まだ名前を変えてから三年程しか経っていないから、周りの認識もついてきていない。
「字など、国に仕える者が請ければいいものではないですか」
栖咋の頃に父にそう切り返すと、心楽は笑いを漏らした。
「私が死んだ後に国に仕える事になったら、字もなしと笑われる」
そんな言葉に栖咋は首を捻る。
まだ心楽は三十代半ばで、栖咋は九つ。
そんな心配をするのはおかしい。
字は生まれた時に定められた場合以外は、遅くて十五位に貰う物。
何故、急く必要があったのか、当時の栖咋には解り様もなかったが。
基礎学科を終えた十三の時に正式に字に改名した。
教育に回る程、人材に余裕のない医療や、術を要する医者になるには、学院で学ぶより、
師匠や親御のもとで学んだ方がよしとされている。
就職という形でキリをつけるには丁度良かったのだ。
父から貰った本名も、字も嫌いではなかったから、特に抵抗はなかったが、やはり、呼ばれ慣れるには苦労しそうだ。
「ここです、父上」
隣り合わせに建てられた薬局の店番が心枢の仕事場だ。
仕事といっても、心楽に言われた薬草を調合して、患者に渡すだけだったし、薬だけを受取りに来る客も多くなく、合間に調合、薬草の勉強ができて恰好の場所だった様に思う。
「薬の調合は出来たか?」
「あ、はい。関節痛の患者さんのでしたよね?」
心枢は手元にあった台帳を広げて、机の脇に付いた引き出しを開ける。
毎朝渡される台帳には、必ず、ある1人の患者の薬の調合欄に足りない薬草の欄があった。
その1つを見つけるのが、心枢にとっては試験の様なものだ。
薬草は数多く、組み合わせた時の効能の数を覚えるには、気が遠くなり目眩がしそうだ。
けれど心枢は、この試験が一番の楽しみだった。
その答えが間違いだろうが正しかろうが、父から教えられる答えは幾重にもなるからだ。
「父上、この患者さんの場合、更に十三番か、三十五番を少し混ぜては如何でしょう?」
心楽は少し意外そうな顔で言葉を返す。
「何故?」
「診察はしていないので、断定的ではありませんが…。
温熱による痛みもある様ですから、この調合を邪魔しないように、入浴等による熱の伝わりにくい十三。
または、冷え過ぎても良くありませんから、極度に温度を上げない三十五。
この2つのどちらか、かと思いまして」
「うーん…八十五だな」
「え?」
そんな数字の薬はなかった。
心枢は後ろに置かれた天井まで届く棚を見上げる。
一から横並びに並んだ棚は六十までしかない。
しかし、この他にもいくつか薬はあると聞いていた。
「…なんの薬の事ですか?」
「いいや、お前の提案の点数だ」
「え?私の?」
心楽は笑いをこぼして心枢の頭を軽く叩く。
「十三、三十五は、先にいれた八と相性が悪く、発熱性質を持つ。その場合、内に溜まった熱を和らげる二十をいれた方がいいだろう」
「あ!そうか…」
心枢は少し悔しそうに顔を歪める。
今のところ、この試験の正解率は七割。
一人で店を任されるには至らないが、上々の出来だ。
「まだまだ、精進が足りません」
「ゆっくり覚えればいい。医者になってから新たに覚える調合もあるからな」
心楽は二十と書かれた引き出しを開けて、中から小さな木の実を数個出すと、そのまま心枢に手渡した。
「お前は俺より物覚えがいい。成人する頃にはここも任せられる」
「しかし、私は、医術を覚える気にはなりません」
「…何故?」
「…医術は、人を救えない事を解ってしまうから」
すこし、心楽が顔を曇らせた。
「…それは間違いだ」
「…では、何故、父上は医術で人を救えましたか?」
「……」
心楽が顔を歪めたのを認識すると同時に、右頬に強烈な痛みを覚えた。
「お前に、何がわかるという!」
「…わかります。医術は無力だ。人の心も救えない。一時しのぎにかならない」
もう一度、痛みが追ってきた。
「…あの命を…救えなかったじゃないですか」
その言葉に心楽は息を詰まらせた。
言ってはいけなかった事だと、気が付いた時にはもう遅かった。
心枢は黙ったまま、店を飛び出す。
医術は無力だ。
右頬に残る痛み位は直せる。
しかし、記憶の中におかれた痛みは、消えていかない。
人の心の傷は、医術では直せない。
国の南になる小高い丘の上から、町を眺めていた。
豆粒みたいに見える人の群れで、救える人などほんの一握りしかいない。
「…心枢じゃないか」
ふいに呼ばれて、顔をあげる。
振り向くと、黒々とした馬の手綱を引いた礼薫の顔がみえた。
心楽は礼薫と仲が良く、二周り違う礼薫は小さい頃からよく遊び相手になってもらっていた「おじさん」だ。
四年ほど前に午ノ国の闘王に就任した礼薫は、巳ノ国に顔を出す機械が前よりも多くなって、顔を合わせる機会も多い。
「礼薫様、仕事ですか?」
「ああ。どうした、その右頬」
「父に打たれました」
「…なんでまた」
馬からおりた礼薫は心枢の横に移動すると、心枢の前髪をゆっくり指先で梳く。
「…私は父上の様にはなれません。人を本当に救えない医術など、私にとっては無意味なのです。…医術は人を救えない。人の心は直せない」
「…また、あの事を言ったのだな」
少しあきれ気味に礼薫が笑いを漏らす。
これで何度目になるのか。
普段は周りが羨むほど仲が良い親子なのに、ある事をきっかけ心枢は心楽を心の底から憎む様になる。
心枢は頭が良い。頭の中では整理できているのだ。
けれど、やはり「子供」である。
「本当に意固地だな、お前は。
姉上のことは、本国の閑叉先生も手の施しようが無かった。今の医術では救えなかっただけだ。現に今は同じ症例でも救えるではないか」
「…今では遅い。あの時でなければ」
心枢には3つ年下の紗咋という弟がいた。
片時も離れないほど仲が良く、両親より弟の方が大事だと心枢が真顔で行った時は、流石に礼薫もあきれ返った。
紗咋は、心枢が6つの時、原因不明の病で他界している。
当時は本国の医者が総出で調べてもわからない難病で、治療すらもろくに出来なった。
それにつけて、感染する可能性があった為、発病と同時に、紗咋が息を引き取り、埋葬されるまで、どこの病院で治療されているのかも知らさせれず、顔も合わさせてもらえなかったのだ。
「どうせなら、私も紗咋と一緒に死にたかった。物として扱うように最後を迎えた紗咋を、人間として見てあげたかった」
「…そんな事は口にすべきではない。お前も紗咋も、心楽の大事な息子に変わりは無いのだ。心楽は本当に駄目になってしまうよ」
「…え?」
「心楽はね、紗咋を最後まで救おうとしていたんだ。お前ならわかるだろう?原因がわからぬ病気を発症したものを「素手」で触る事が、患者にとっても、医者にとってもどれだけ危険か」
「…素手で…?」
「流石の閑叉先生も止められなかったのだろう。心楽は救いたかったんだ。でも、自分の出来る事も解っていた。
だから、心楽は一度として紗咋の身体を手袋を通して触った事はなかったよ。それが、心楽にとっては最高の治療だと、思っていたのだと思う。
もし、自分が感染し、最後に息絶えるとしても。紗咋は寂しいまま天には上らないと」
心枢は礼薫の言葉に唇を弱く噛んだ。
「でも、私は医者にはなりません。救われる事を期待されるには、耐えられない」
「…それはお前の事だ。私も心楽も、お前に強要は出来ない。だが…」
何か意味深な言葉で終わった礼薫の顔を見て、心枢は眉を潜める。
「…だが?」
「もし、天照大神からのご用命となれば、話は別だろうがな」
「まさか。父ならまだしも、私に目をつけるとは思えません」
「どうかな。次期五神の闘王選びは大分難航の様だ。子ノ国は志水奸がなるというしな」
「…あのじゃじゃ馬を?」
志水奸については同じ医療関係の間柄で良く知っている。
その力を認めないとは言わないが、心枢はその事実に驚愕した。
「闘王はどこか陰のある人物を選ぶとは聞くがな」
「でも、それでは私と智功は被りますよ」
「被ろうが、なんだろうが、決めるのは天照大神だ。まあ、どちみち、既に私から推薦してあるがな」
「ごっご冗談を。私には神を守る事など」
心枢の唇に指を当て、礼薫は小さく笑みを浮かべる。
「お前のその優しさは、南にとって重要だ」
「…やさしさ?」
「ああ。杏珠様には解りえない「男」の優しさがな。火遁を弟と思うには私とは歳が離れすぎている」
そんな礼薫の言葉に、心枢は思わず噴出した。
確かに、火遁と礼薫では兄弟というより、親子だ。
「…私は火遁の兄になれますか?」
「…お前次第だ。心枢」
□□□□
家に戻ると、周囲が騒がしくたくさんの人が出入りしていた。
「…なんだ?」
玄関先で辺りを見回す母、美咋の姿を見つけ、心枢が駆け寄る。
「どうしましたか、母上」
「栖咋!お父さんが…」
一瞬、本名で呼ばれた為か、言葉が良く解らなかった。
その場に崩れ落ちる母親の姿に、心枢は反射的にしゃがみこむ。
「どうしたというのです、父上が?」
母の言葉は言葉になりきっていない。
礼薫が人ごみの中から1人を捕まえる。
「どうした、何があった」
「心楽様が、薬草棚が倒れてきて…その下敷きに」
周りは声1つ1つまともに聞き取れない騒々しさなのに、その声が頭の中に突き抜けた。
周りの音がピタリと止ったように思えた。
「…どういう…事だ?」
「辛うじて一命は取り留めてらっしゃいますが…意識がありません」
血の気が引くとはこういう事を言うのか。
頭の天から徐々に、赤い線が下がっていくような幻覚が見えた。
程なく、家の中にいた大勢の人影は影を顰め、心と静まり返った寝室の中に敷かれた布団の上にはただ、静かに息をする心楽が横たわっていた。
生きてはいる。
しかし、心楽にはなんの反応も無い。
奥の部屋では、母親が閑叉に付き添われて、横になっていた。
顔をゆがめた閑叉が口にしたのは「意識の回復の期待は出来ない」という言葉。
あえて「絶望的」という言葉を選ばなかったのは、閑叉にとって心楽の存在の大きさだろう。
医学的にも、弟子としても、失うには大きすぎる存在だ。
「…罰でしょうか」
「心枢?」
「私が…死にたかった等と口にしたから」
「…そうじゃない。心枢。人間はとても小さく、弱い生き物だ。
私は医術を否定する気はない。だが、人間という物は最初から生きている時間も決まっている。いつ死ぬかは最初から決まっているのさ」
「…礼薫様」
「その時間全てを全てが健全で揃って生きている人間はそう多くは無い。いつまで生きるか知らないから、その途中で自ら切ってしまうものもいる。逆にきろうとしても切れない物もいる。全て、その人次第という事なんだ」
「…それじゃあ、父上は?」
「…こうして、心楽が選んだ事なのかもしれない。まあ、そうだとは言い切れないが。
だが、一つだけいえる事がある」
礼薫の言葉に、心枢は黙ったまま顔を上げる。
「心楽は、お前に医術を学ばせる為にこうなったというわけではないという事だ」
「え?」
「医術は無能ではない。という事を言うわけではないと思う」
「それには私も同意だな」
後ろから聞こえた閑叉の声に、心枢が振り返る。
「心楽は、お前自信が正しい道を見極め、歩いていって欲しいと思っていると思う。
父としての意見に囚われず、まっすぐにな」
「…閑叉先生」
「心楽の事は私にまかせろ。全てがうまくいくとは言い切れないが、出来る限りの事をしよう。かつて、心楽が、大事な物を命をかけて守ろうとしたようにな」
無意識に涙がこぼれた。
この言葉は全て父が築き上げてきたものだ。
どの道を歩きだしても、誰にも後ろ指を刺されない。
今更気付いても、伝える術が無い。
何故、父があの時、”心枢”という名前をくれたのか。
今更気がついても、何も出来なかった。
□□□□
「診療所を締めるか」
「私では、治療は出来ませんし、するつもりもありませんから。母上も店には出れる状況でもありませんし」
「…それもそうだな」
「でも、礼薫様」
「ん?」
「薬剤の方は続けようと思います」
心枢の言葉に、礼薫は少し意外そうに首をかしげた。
「私にはまだ覚える事が多い。数年、閑叉先生の下に仕えようと思います。
私が戻ってきた時に、この店で、この陽国という国の色んな人の「心」が救えればいいなと思います」
そんな言葉に、礼薫は小さく笑みを浮かべた。
「待っているよ、心枢」
「…はい」
心枢、二十四歳、巳ノ国闘王就任。
静かな風か吹き抜ける丘の上に小さな墓標が立っている。
「父上、私は貴方がどう望んだかは解りません。けれど、私はこの道を行きます」
目をゆっくり閉じて、そのまま天を仰ぐ。
「私は、陽国を…火神を守ります。命をかけて」