使用上の注意をよく読み、取り扱いには十分注意してください。
「辛いのです」
ロイドはそう言って、その端正な顔をかすかに歪ませた、ように梶木には見えたが、もちろん、そう見えただけだ。アンドロイドに自我はない。少なくとも取扱説明書にはそう書いてあった。
なのに。こいつはアンロイドのくせに、どうしてこうも手がかかるんだ。梶木はそっとため息をついた。
「…分かるよ。俺にもそんな時はあるよ」
「違う、そうじゃない。そうではないのです」
梶木の気のない言葉を、ロイドが強い口調でさえぎった。振り返ると、ロイドががん見していた。目力がすごい。
「梶木さん、わたしはただ、わたしの話を聞いて欲しい。ダメですか」
「…ダメじゃない。聞くよ。聞くから話せよ」
どうしても今日中に片付けておきたい急ぎの書類がある。だが。
梶木は入力中の手を止め、くるりと椅子を回転させた。
ロイドはうつむき加減で、マグマップをこねくり回していた。しばらくそのまま、時間が流れた。パソコンのモーター音だけが、静かに部屋に満たす。郵便配達の原付がやって来て、走り去っていく。
「…すみません、上手く話せません」
「…お前、疲れてんだよ。ここんとこ、ずっと忙しかっただろ? お前にだって休みは必要だよ。今日はもう遅いから、先に帰れよ。後は俺がやっとくから」
「…わたし、疲れてるんでしょうか」
肩を落としたロイドが、ぽつりと呟いた。手にはまだ、マグカップを持っている。ロイドのお気に入りのロイヤル・アルバートのバラ模様。
「…梶木さん、わたしね、昨日の是枝さんのお話を聞いてね。いえ、是枝さんのお話、すごくよかったんですよ、よかったんですけど、なんだかとっても胸が苦しくなってしまったんです」
是枝というのは、昨日の午後、こちらの迷惑を一切顧みずに、近くまで来たからという理由だけで、事務所にやって来た、梶木の学生時代からの友人である。
現役バリバリの牧師であり、梶木とも面識のある、学生結婚した奥さんとの間に、小学五年生の男の子を筆頭に三人の子どもがいるイクメンでもある。
「お前もさっさと結婚しろよ。なんで結婚しないんだ? モテ過ぎると逆にダメなのか? もし相手がいないなら、俺が紹介してやるぞ」
是枝は、是枝のかもし出す空気をまったく意に介さず、ひとしきり神が祝福したまう結婚の素晴らしさを語って帰って行った。
部屋にいなかったはずのロイドがなぜ是枝の話を聞き知っているのかだが、おそらくお茶を出した後、またドアの外で立ち聞きしていたのだろう。盗み聞きするアンドロイドなんて聞いたことがない。しかも、そのことをこうして、隠そうともしない。
そんな規格外のロイドの行動に、知らないうちに慣れてきてしまっている梶木であった。
「アンドロイドのくせに、と思われるでしょうが、本当なんです。このあたりがなんだか、こう、痛いような、むず痒いような、もしも取り出せるなら、傷つけてもいいから、思いっきり掻きむしりたい、そんな感覚を覚えたのです。ええ、分かっています。是枝さんがお話してされたのは、とっても大切なことです。人間が生きていく上で、絶対に必要なものです。でも、わたしは、わたしは…」
ロイドの言葉が途切れた。梶木は、黙って待った。
「…わたしは、アンドロイドだから、どうやったって、そんなものは手に入らないんだなって思ったら、なんだか、もう、とっても、苦しくなってしまったんです、梶木さん」
ロイドが目を上げた。ロイドの透明な表情が、梶木のすぐそばで、梶木を見つめていた。
「…わたし、どうして、アンドロイドなんでしょうか、梶木さん。どうしてわたしはアンドロイドに生まれてきてしまったのでしょうか」
梶木が逡巡した後、重い口を開いた。
「…すまん。ロイド、分かってると思うが、俺にはどうもしてやれん」
いつもの無関心な声が返っていた。
「…当たり前です。わたしはあなたに何も求めていません」
自分から突き放しておきながら、ロイドのその言葉が、梶木の心にちくりと刺さった。
「なぁ、俺たちの会話って、いつも噛み合わないな」
ロイドが笑った、ように梶木は感じた。もちろん、アンロイドが笑うことはない。
「噛み合わない?そうですか? わたしはそうは思いませんが。じゃあ、もしも噛み合ったら、どうなるんです?」
返答に詰まって、梶木はロイドを見た。
ロイドは、マグカップを両の手に持ったまま、規律正しく立ち上がった。
「わたしは多分、疲れているのしょう。すみません、お忙しいときに、こんな訳の分からない話を聞いてくださって、あなたの寛容なお心に感謝します」
そのままドアへ向かって歩き出した背中を、梶木はじっと見つめていた。
「おい」
「はい」
色素の薄い髪が揺れて、ロイドが振り返った。
「お前、もしかして、俺に慰めて欲しい…訳じゃあないよな」
ロイドが即答した。
「まさか」
「…だよな」
失礼します、と一礼をして、ロイドは、ドアの向こうに消えた。