第55話 終焉の地――それは魔術師としての一歩
ザッ……
荒野の砂を摺る、敵の足音。
それは想像よりもずっと存在感をもって、彼女の接近を伝えた。
「フゥーーーー……」
そして、感じてしまう。その足音よりもはるかに大きく自身の体に響く心臓の鼓動を。
けれど、それを大きな深呼吸で無理やりに抑え込む。
「あんたを殺すためにこんな何もない場所で待ってたんだ。隠れてないで出てきたらどうだい? えー?」
飛行機ジャックの時に戦い、前夜祭の夜アイアスに路地裏で囁いた、あの女。
彼女は、過去の自分の象徴だと言ってもいいかもしれない。
そう、自分の、過去——。
これまで、自分の過去が黒歴史だなんて思ったことは一度だって、ない。
だって、あれは自分を形作る一部で、間違いなく自分自身なのだから。それを否定するのは、自分を否定するということだ。
でも、思うのだ。
その過去の自分のままではいけないと。
そこから、変わらないといけないと。
そう、思えたのだ。
マリーと出会って。
だから、アイアスは、駆けた。
過去の自分――命令に従うだけの自分。
そこから、成長するために。
「アイ・アステル・アス・マジックキャスト!」
それは、アイアスの解放序詞。
彼が初めて口にする、魔術師としての第一歩。
自らの魔力を世界に奉じる誓いの言葉。
——そして、彼自身のまぎれもない決意の言葉。
その言葉を口にしながら、アイアスはアンリに特攻を仕掛ける。
「は! 一人前に解放序詞なんて口にしちゃって! あたしがこの世で嫌いなタイプの人間が二種類いてねえ! ひとつはわがままで言うことを聞かないタイプ! そしてもうひとつはねぇ!」
アンリはすでに準備していたのであろう。魔術を迎撃するモーションを取る。
けれど……、こちらの方が、早い!
「そいつに分不相応なことをしようとするタイプだよぉ!」
「火よ!」
ボウッ!
小さな火の玉が、アンリの目の前で爆ぜる。それに気を取られ、アンリに一瞬の隙が生まれた。
そして、その一瞬で、よかった。
だって、魔術は、本命ではなかったから。
自分を形作っているのは、やっぱり、イヌビアで生きてきた自分だから。
——だから、一気に駆けた。
「ちっ! 小癪なぁ!」
バッと右手で目の前の火の玉を振り払う。その程度でかき消えるほど、些細な魔術だった。
けれど、それは、確実に、勝利の二文字をアイアスに導いた。
アンリが術式を叫ぶ。
「朝――」
いや、正確には、叫ぼうとした。
「喋るな」
その声は、冷たく、一瞬でアンリの脳に浸透した。
「か……ぁ……は……」
言われなくとも、喋れなかった。なぜなら、背後に回ったアイアスが、彼女の口にナイフを差し込んでいたから。
「俺の、勝ちだ」
「はけ! はけた!」
負けた、というような言葉を放ちながら、彼女は両手を掲げた。
降参のポーズ。
その姿にアイアスはナイフを首元に移し、尋ねる。
「マリーは、どこだ」
「……ふふ、ふふふ……ふふふふ! あははははは!」
すると、急に狂ったようにアンリは笑い出す。
「……おい」
「ははは……ホントぉ、甘くなったよねえ」
その言葉に、アイアスはギュッとナイフを握る手に力を込める。
「何、を……」
「……以前のあんたなら、すぐにあたしを殺していただろうって、そういうことさぁ……」
「……俺は、俺だ」
震えそうになる手に、もう一度力を込める。
アンリの言葉には、今の自分の心を揺るがせるような、そんな不思議な何かが備わっていた。
「例えそうだとしても、あんたは間違いなく弱くなったよ! そして、それは――致命的な弱点さ!」
待て、と叫ぼうとしたときには、すでに遅かった。
「凝固!」
乾いた大地にあって、それは異質で濃厚な土の香り。それが鼻をついたかと思うと、瞬間、アイアスの体を捕らえようとする。
「俺は――っ!」
けれど、アイアスは背後から迫る魔術に、すぐさま反応した。
常人であれば、決して魔術の発動から固定までに反応することなどできない。
けれど、今のアイアスにはそれができた。
なぜなら、負けるわけにはいかないから。
理由になっていないようなそれは、けれど確かにアイアスにとっての大きな力だった。
瞬時に、アンリと自らの体を入れ替える。
そこに、舞い落ちる黒土の奔流。
結果、土に覆われ動けなくなったのは、術者であるアンリだった。
「はぁ、はぁ……」
とっさのことに荒くなった息を整える。
自らの術で身動きが取れなくなったアンリが、「何故?」とでも言いたげにアイアスを見上げる。
「当たり、前だ」
勝負がどう転ぶかなど、分からなかった。
けれど、勝った今は、この勝利は必然であったような、そんな気がした。
しかし、立ち止まっているわけにはいかない。
時間がないのだ。
翻り、足早に立ち去ろうとしたアイアスを止めたのは、アンリの言葉だった。
「……何も知らないよ」
その言葉は、どこか寂しげだった。
「私を雇っていた人間からの連絡が途絶え、私に残ったのはあんたとお嬢ちゃんを殺すっていう、その使命だけ。……あんたを追ってここまで来たものの、それ以上は何も知らないよ」
その言葉を聞いて、アイアスはなぜ彼女の言葉が今までも、そして今も、これほどまでに自分の心を揺さぶるのか、わかった気がした。
「あんたは、俺みたいだな……」
「……なんだって?」
その言葉には、怒りが込められていた。
しかし、アイアスにはわかる。
それは、図星だったからだ。
「俺も、操り人形だった……。けど、あんたも、操り人形なんだ」
その言葉に、唾が飛ぶような勢いでアンリが反論する。
「違う! 違うね! 私は——っ!」
けれど、アイアスはそれを意に介すことなく続ける。
「俺は、操り人形はもう、やめた……」
その悲しげな瞳に、グッとアンリが喉元まで出かかった言葉を飲み込む。
「でも、お前は、きっと一生人形のまま……同情する」
彼女にも、すでにわかっていた。
自分が、力を誇示しようとするだけの、虚勢に満ちたハリボテの人形だと。
その姿は、アイアスがすでに過去に置いて来たものだ。
だから、アイアスは言った。
「お前は、ずっと、そこで俺を見ていろ」
それは、自らが新たな未来へ進むための宣誓。
そのための言葉。
アンリは、黙ってそれを聞いていた。
そこに、どこに隠れていたのか、オルトが現れる。
「そうそう、あなたに指令を出していた第十二席なら、この前死んだらしいですよ」
そして、目を細めて言葉を投げる。
「よかったですね。……あなたは、もう自由だ」
それを聞いた時のアンリの表情は、地面に向けられていてわからなかった。
彼女は、何を感じたのだろう。
……けれど、それは、今のアイアスには関係ないことだった。
「行こう」
敗れ去った一人の魔術師を置いて、アイアスはゼロセラの中心部に向かう。
マリーを、救うために。




