この一瞬に、かけてみたい
わたしは、土煙舞うグラウンドを駆けていた。別に大それた理由なんてない。ただ、わたしが速く在るため。一番で在るため。そのためだけに、わたしはわたしの全てを懸け、走っていた。
トラックの最終コーナー。五人だったはずのレースはとうの昔に終わっている。頂点を賭けて争っているのは、わたしともう一人だけ。すぐ真横を駆ける、わたしよりほんの少し背の高い影が、ひどく忌々しい。
(この女にだけは……っ!)
所詮これは陸上部内での練習で、模擬戦みたいなもの。たとえ負けたとしても、わたしのエースとしての地位は変わらないし、誰も責めやしない。
けど、わたしは負けたくなかった。「二人のエース」なんて認めたくなかった。わたしが一番速い。そうじゃなきゃいけない。彼女より遅くても、互角でもダメなんだ。
ラストスパートをかける。ここからは一瞬の減速さえ命取り。体勢を崩すことは死を意味する世界。コンマ数秒でいい。相手より速く。ただ速く。刹那の間、視線が交錯する。汗が弾け散り、わたし達はさらに加速。思考さえ後方へ置き去りにしていく。
レースはほんの僅か、わたしが追う形。諦めという名の死神が、首筋に冷たい刃を立てた。しかし、わたしはそんなことに怯まない。敗北の危機感に、全身の力は抜けるどころか、より強くなった。
(くっ……この女にだけは、負けない!)
思考は再度一点集中。今一度ゴールラインを見据え、全てのエネルギーをもって、駆けた。勝負は残り十歩。たった十歩で、全てが決まる。
無心の一歩が前へ出る。差は縮まらない。二歩目が前に出る。わたしの呼吸が僅かに止まった。三歩、四歩。地を蹴る脚に力が籠る。五、六、七! 最後の一瞬を、わたしは全力で生きた。
わたしが八歩目を踏み抜いて、九歩目を踏み出した時。
彼女はもう、十歩目を踏み切っていた。
「星野、お疲れさま」
先輩が、一着だった部員――星野ゆきにスポーツドリンクを手渡す。市販のものじゃなく、まめな性格の彼が作った特別製。二年前、先輩が一年生の頃に考案したもの(もちろん高校生の独断でなく、保健室の先生なんかにも協力してもらったらしい)で、今ではそのレシピ通りに作ったスポーツドリンクを飲むのが伝統になりつつあった。
「ありがとうございます。先輩こそ皆の面倒見てくださって、お疲れさまです」
「やっぱり終盤の星野は速いね。疲れが出るどころか、加速するくらいだ」
「あまり意識したことないんですけど。高宮先輩にそう言ってもらえると自信になりますね」
「逆に立ち上がりが少し不安だから、今後はそこに重点を置こう。今日はしっかり休むようにね」
「はい。ありがとうございました」
ゆきは整った顔立ちに汗を滲ませながらも、微笑を崩さずに応対していた。実際は疲労困憊のはずなのに、余力を残しているようにさえ見える。
先輩はそうやって、部員ひとりひとりにアドバイスをして回った。言葉を貰った部員達は各々柔軟とクールダウンをして、帰宅の準備をする。
何故か、先輩がわたしのところに来るのはいつも最後。今日もそうだった。
「吉岡もお疲れさま」
「あ、ありがっ……はぁ、はぁ、あのっ、すみませ」
「はは、いいよ無理しなくて」
わたしは息も絶え絶え、心臓も痛むほどで、会話なんてもってのほか。ゆきのスマートな応対を見ていただけに恥ずかしい。わたしだって、トラックの外では、それなりに女の子のつもりだ。
スポーツドリンクを受け取って、一気に流し込む。勢いをつけすぎて、いくらかはこぼれて服を濡らした。……トラックの外ではそれなりに女の子と言ったこと、撤回したい。
「ふぅ……すみません」
「いや。全霊を懸けている証拠だ」
「陸上くらいしか取り柄ないですから」
……中学の頃から誇っていたそれも、今ではゆきに及ばないけど。
冷徹な事実が胸を刺す。少しだけ沈むわたしを見て、先輩は真剣な表情を作った。それから、よくわからないことを言い出した。
「今日の走りを見て思ったんだけど、吉岡は全力で走ろうとし過ぎてるんじゃないかな」
「は?」
当然、全力で走った。それでもわたしは負けたのだ。
意味がわからないわたしに、先輩は諭すように言う。
「最終コーナーを過ぎた辺りで、追い上げてきた星野に少し抜かれただろ? あの瞬間、何を考えた?」
「そんなの決まってるじゃないですか。負けないように、弱気にならないようにです。ただ速く、全力で走る。それ以外は考えないようにしてました」
「……やっぱり。多分、差が開いたのはそれが原因だ」
「は?」
もう一度、失礼な声を上げた。けれどそれも仕方ないことだ。普段はわかりやすく教えてくれる人だけど、今日の先輩は意味不明すぎる。煽られているみたいだ。
「どういうことですか?」
「いいかな。人間の心や身体は、どんなに短い時間だとしても、始めから終わりまで全力を続けられるようには出来てない。全力を出すには、全力を超えるには、一度力を抜かなきゃいけないんだよ。特に勝負の世界では、自分の百パーセントを超えなきゃいけない正念場っていうのが必ずある。さっきのラスト十メートルみたいにね。そういう時、ほんの一瞬だけ力を緩めてから、力を爆発させるように意識する方が、結果的にいい動きになりやすい」
わたしの口から、ムッとした声が出る。
「……手を抜けってことですか?」
「というより、負けそうな時はちゃんと怖がれって感じかな。自分は負けない、この人には勝てるって無理に思い込もうとすると、余計なところに余計な力が入る。終盤吉岡が減速してたのも、スタミナ不足とかじゃなくて、そういう理由があるんじゃないかな。逆に星野なんかは、そういう精神のコントロールが上手いんだと思うけど」
先輩は先輩なりに、わたしの走りを分析してくれていた。年長者だから、ってことでなく、きっとそれは本当に正しい意見なのだと思う。心の片隅は、間違いなくそう言っていた。
なのに。どうしてかわからないけど、わたしは口を開き、お礼を言うどころか、その意見に反発していた。
素直に賛同したら、ダメだと思ってしまった。
「常に全力で走るのは、そんなにいけないことなんですか」
先輩は、決してそんなことを言ってるんじゃない。わたしが口にしてるのは、子供っぽく、理屈の通っていない、ただ感情を投げつけるだけの迷惑な言葉。屁理屈。
先輩は困惑していた。
「いや、それが吉岡のいいところだと思ってる。けど、勝負に負けたくないなら、がむしゃらな情熱だけじゃなくて、そういう細かい話もしないと」
「ずっと全力で走っても勝てなかったのに、力を抜いて走って勝てるはずありません!」
「……ああ言えばこう言うな、吉岡は。心配しなくても、それは手を抜くことにはならないぞ?」
それに、と先輩は付け加える。
「吉岡が星野みたいな終盤の強さを手に入れたら、誰も追いつけないと思うんだけどな」
先輩はわたしに期待してくれている。そんなの、考えるまでもないこと。
なのに、先輩の口からゆきの名前が出た途端、頭に血が上るのを実感した。苛立ちを苛立ちのまま、刺々しさを隠しもせず、先輩にぶつける。
「ゆきの話はいいです! わたしは彼女とは違います!」
「いや、それはそうだけど……なぁ吉岡、ちょっと星野に対するライバル意識が強過ぎないか?」
「そんなことありません!」
先輩はさらに何かを言いかけた。でも怒りに支配されたわたしは聞く耳なんて持っていない。
それは多分、ゆきへの対抗心や負けん気、勝てない苛立ちから八つ当たりしているだけなんだろうけど、とにかく。
「失礼します!」
わたしは先輩とそれ以上言葉を交わすことはなく、さっさとクールダウンを始めた。
余計な話をしたせいで、わたしがシャワー室で汗を流し、着替え終わる頃には、更衣室には誰もいなかった。
けど、校門の前まで行くと、そこに一人の女子生徒。しきりに前髪を気にしている。彼女はわたしを認めると愛らしく微笑み、少し頬を染め、小さく手を振った。
率直な感想を述べる。
「……ゆき。それは彼女か何かのつもり?」
「ふふ、紗由里の彼女はちょっと難しいかもしれないわね」
先に帰ったものと思っていたゆきが、わたしを待っていた。改めて、男女どちらから見ても可愛く、愛想はよく、頭がよくて運動神経が抜群。その上スタイルもいい。
天は二物を与えないというけど、四つも五つも与えられている。それが星野ゆきという少女。
「先帰っててよかったのに」
「ちょっと荒れてたから、気になったのよ」
「……どうせ原因はわかってるんでしょ」
「私に勝てないし、指摘された原因にも納得いかないから」
しれっと言う。わかっていながら、普通に接してくる。わからないフリすらしない。非常に性格が悪かった。
こんなでも憎めないどころか、わたしは彼女に好感を抱いているのだから性質が悪い。
夕闇の中、いつものように並んで歩き出す。
「力みすぎ、って言われたんでしょう?」
「そう。全力で走り続けるなって」
「紗由里は自分が走ってる動画を見た方がいいわ。特に、私相手の時のはね」
「そんなに?」
隣で走っていてさえわかるのだろうか? 頭が冷えてきたからか、ゆきの言葉は割とすんなり入ってくる。
「スタート前から殺気がひどいもの。あれじゃ身体が強張って上手く走れないはずよ」
「殺気って……」
「実際殺す気だったでしょう?」
「うん、まあ」
普段はこうして仲がいいけど、あの時は心の中で、この女、とか呼んでた。
ゆきは苦笑。
「これと思ったら突っ走るものね。いいところだと思うけど、猪とも言うわね」
「むー。それは言い過ぎ」
「ふふ、どうせ高宮先輩にも、まだ言ってないんでしょう?」
「?」
なんのこと?
わたしが本気で首を傾げているのに、彼女は愉快そうに笑った。
「隠してるつもりだったの? 私じゃなくてもわかるわよ、あれじゃ」
「や、だからなんの話? 別にわたし、ゆきに変な隠し事とかしてないよ?」
「……え?」
「……え?」
なんだか、話が噛み合っていない気がする。
先に口を開いたのは当然、頭の出来がいいゆきの方。
「えっと……まさかとは思うけど、気づいてないなんてことは……」
「何に? よくわかんないけど、我ながらこの感じは気づいてないと思う」
「あー……そんなことがあるのね。紗由里なら仕方ないけど。似た者同士ね」
その頭の回転の速さで疑惑を確信に変えたゆきは、うんうんと頷く。
それから、とんでもないこと――それは多分、わたし以外には意外でもなんでもないんだろうけど、わたしにとっては心臓が飛び出るほど衝撃的なことだった――を至極真面目な顔で言った。
「紗由里。あなたは高宮先輩のことが好きなのよ」
「え」
何度も言うけど、わたしは驚いた。それはもう、人目も憚らず絶叫するほどに。
「ええええぇぇぇぇ!? そうだったの!?」
「そう。陸上部に入ってすぐの頃から」
「そ、そんなに早くから!? 冗談とかじゃなくて!?」
「ちょっと落ち着きなさい。他人事みたいな驚き方してるわよ」
いやだって。衝撃の事実だもん。
ひとつ、深呼吸。
「でもそんなはず……そう、だってそんな不純な気持ちがあったら、陸上に打ち込めるはずないし」
「だから向き合わないようにしてたんでしょう? 支障をきたすと思ったから」
でも……。
先輩は確かに優しいし、わたしの相談に親身になってくれるし、気遣ってくれるけど。顔を思い出すと恥ずかしくなる時があるけど。そういうのだとは思ってなかった。尊敬する先輩、みたいな。
口下手なわたしは時間をかけてそれを伝える。ゆきはやっぱり苦笑した。
「紗由里は変なところで頑固よね。自分の決めた一点を、何が何でも貫き通す。高校では陸上に専念すると決めたのだから、恋も勉強も二の次」
「べ、勉強はそれなりにしてる!」
「赤点を回避するための一夜漬けを勉強とは言わないわ」
とにかく。
「どうなの? 高宮先輩のこと、好きなんでしょう?」
「ん……」
先輩のことを考えながら、胸に手を当てる。鼓動が少し、大きくなった気がした。
……本当は、わかってた。全部ゆきの言う通り。自分に嘘吐いて、ごまかそうとしていただけ。
それでも、根っからの頑固な性格はすぐには変えられない。ああ言われたら、ついこう言ってしまう。
「でもわたし、ゆきみたいに可愛くないし、馬鹿だし、女子力とかもないし、名前だってゆきの方が可愛いもん……」
「私は関係ないでしょ。紗由里には紗由里のいい所がたくさんあるし、それは高宮先輩もちゃんとわかってるはずよ」
そんなことない。陸上一筋だったわたしは、先輩にとっては選手の一人でしかないはず。女の子として見てもらえるなんて、そんなわけない。
と、またわたしが「他人の意見を上手に受け入れられないモード」に入って、ゆきを困らせていた時だった。
「あれ、お姉ちゃん?」
「……美優」
三つ下の妹である美優と、ばったり遭遇した。
美優はしょげているわたしを見るや、スプリンター顔負けの速度で駆け寄ってきた。
「お姉ちゃん!? どうして泣いてるの!?」
「いや泣いてはいないけど」
「星野ゆき……あなたが美優の大事なお姉ちゃんを泣かせたんですね! やっぱりお姉ちゃんをたぶらかして、遊びだったって捨てたんだ! ちょっと美人だからって美優からお姉ちゃんを盗ろうとして! そうはいきません! お姉ちゃんは美優が守ります!」
美優はとてもわたしに懐いていて、何故かゆきに当たりが強い。今もわたしの腕に抱きつくようにして、敵意剥き出しの猫みたいにゆきを睨んで唸っていた。
ゆきは流石というか、飄々と受け流す。
「美優ちゃん。実は今日の練習で、紗由里は自信を失くしたみたいなのよ」
「軽々しく呼び捨てにしないでください! 深く傷ついたお姉ちゃんは、美優が慰めるんです! もうこれは結婚するしかありません! 部外者は去れ!」
無視。
「だから、紗由里のいい所を教えて、自信を持たせてあげて」
「ふふん! なるほどそういうことでしたか。簡単なことです! 美優が一番お姉ちゃんのいいところを知ってるんですからね! 指をくわえて見ていなさい星野ゆき!」
美優はくるりと振り返る。
「お姉ちゃんはもちろん陸上やってる時が一番かっこいいですけど、意外と家庭的で、料理ができるのが美優的にポイント高いです」
「美優がやらないからでしょ」
「それに、面倒見もいいです」
「それも美優が甘えただから」
どれも半ば仕方なしにしていることばかりだった。自主的にしてることなんか一個もない。
美優も気づいたか、少し方向性を変えてくる。
「うーん、でも美優思うんですけど、妹がそうだからって、なかなか出来ることじゃないと思います。普通はもっと癇癪起こしたり、愛想尽かしたりするかと」
「……いや、そう思うなら少しはやってよ」
えへへ、と美優は笑った。こんな風に笑ってくれるならいいかな、なんて思ってしまうわたしは甘すぎると思うし、美優もそれをわかってるから遠慮なく甘えるんだろうけど。
最終確認を取るかのように、ゆきは美優に訊いた。
「美優ちゃんから見て、紗由里は魅力的?」
美優は――わたしの内面を一番近くで見てきた妹は、胸を張って答える。
「もちろんです! 身内贔屓を抜きにしても、かなりレベルが高いでしょうね! 家ではジャージだとか、洒落っ気がないとか、そんなのは些末なこと! 結婚してほしいです!」
「だってさ、紗由里」
「二人とも……」
なんだか、そんなことで褒められるだなんて思ってもみなかった。そんなの、強みだなんて思ってなかった。誰にでもある、誰にでもできるようなことだって。
陸上だって、きっと同じだ。上に行かなきゃって意識ばっかり強くて、高い所ばかり見て。自分の弱さを受け入れたくないから虚勢を張って。わたしが持つ本当の強さも、一緒にわからなくしてしまっていた。
先輩の言っていたことが脳裏をよぎった。負けそうな時は怖がれ……負けそうな時は負けそうって思わないと、負けてるんだって認めないと、無闇に足掻くだけになってしまう。追い抜くために本当に必要なことは何か、わからないまま。
「……美優。わたしの荷物持って、先帰ってて」
先輩にきちんと謝らなきゃ。
「お姉ちゃん? どこに行くんです?」
「先輩のところ」
「先輩……高宮悟ですか!? どうして……はっ、まさか!」
「そのまさかよ、美優ちゃん」
ゆきが楽しげな顔で美優を抱えあげる。インドア派で体重の軽い美優は軽々持ち上げられた。じたばたともがいているが、身体を鍛えているゆきの拘束から逃れられる気配はない。
「おのれ謀ったな! 放しなさい星野ゆき! お姉ちゃんを高宮悟のところにだけは行かせるわけにはいきません!」
「ふふ、一度言ってみたかったのよ。紗由里。ここは私に任せて、早く行きなさい」
「ゆき……ありがとう」
わたしは二人に背を向け、駆け出した。きっと先輩はまだ学校にいる。最後まで残って、片付けなんかをしてくれてる。選手であるわたし達が、少しでも早く家に帰れるように。
もう、間に合わないかもしれない。なんなら明日だって、直接会わないで伝えたっていいのかもしれない。……それでも。
走り出し、一度だけ、振り返る。
「美優もありがとう! 今度何か美優の好きなもの作ってあげる!」
それだけ伝え、返答を待たずに再び駆けた。たった一言でも、謝りたい。今、すぐに。
「いや、ちが、そんなつもりじゃ、お姉ちゃん……カムバーック!」
――心地いい。
速く走ることは、気持ちのいいことだ。足が地を蹴る度、身体がぐんぐん前へ行く。はじめは風に乗って、やがて風に溶けていく。
速く走ることは、気持ちのいいことだ。風と一つになるのは、空を飛んでいるよう。見えない何かに強く優しく背を押され、自分の意思で駆けている感覚さえ失われていく。行きたい場所へ、行くべき場所へと、わたしが行くんじゃなく、世界の方が連れて行ってくれる。
走ることが好きになったのも、陸上を始めたのも、短距離を選んだのも、この感覚が好きだったから。
そんな大事なことさえ、今の今まで忘れていた。見えなくなっていた。
一刻も早く先輩の下へ行かなきゃいけないのに、まるでそれがついでみたいに、今は、走ることが楽しくて仕方ない。
間に合わない。そんな弱気がまだ頭の中にいて、「だから頑張れ」と励ましてくれる。わたしが決めたことを、弱気こそが後押ししてくれる。考えてみれば、それも当然。だって、それもまた、わたし自身なんだから。
ごめんね。今まで敵だと思っていて。
見知った道を抜け、制服が乱れるのも気にせず、来た道を戻っていく。そうして校門の前にたどり着いた時、その人はそこにいた。
「……吉岡? 忘れものか?」
「せん、ぱ、はぁっ……はぁっ」
情けなく息を切らす。走ることは楽しい。それを思い出しても、つい全力を出そうとするところは変わらないみたいだった。
でも今は、一瞬でも早く伝えたい。
「先輩、さっきはすみませんでした!」
「さっき?」
「先輩の言ってたこと、正しかったです! なのに反発したりして、本当にごめんなさい!」
必死に、がむしゃらに伝えた。謝罪だからっていうか、わたしが言いたかったから。
先輩はきょとんとする。
「ああ、そのことなら気にしてないけど……それだけ?」
「え?」
それだけかと訊かれれば、それだけ。
指摘され、冷静になってみれば、本当に明日で良かったのではないだろうか。なのになんでこんなに急いで来てしまったんだろう。
「うぅ……」
相変わらず周りが見えていない、猪突猛進な性格が恥ずかしい。これではゆきに猪と呼ばれても反論できない。
思わず両手で顔を覆うわたし。愉快そうに笑う先輩。
「はは、吉岡らしいな。別に気にしてないから、吉岡も気にするな。……っと、用が済んだなら行っていいか?」
「先輩、急ぐんですか?」
「ああ。部活終わってからでいいから二人で会えないかって、クラスの女子に言われててさ。話したいことがあるとかなんとかで」
「え……それって」
鈍感なわたしでも、すぐに気づいた。その人、先輩のこと……。
なのに、当の本人は首を傾げてのほほんとしている。どうして気づかないんですか!
……けど、どうしよう。
先輩は「また明日な」と言い、わたしに背を向けた。このままじゃ、先輩はその人のところに行ってしまう。決まったわけじゃないけど、その人と付き合ったりするかもしれない。……ううん。なんとなくわかる。先輩のこの顔は、その人を憎からず思ってる顔。その人も先輩にとって、魅力的な人なんだ。
子供っぽくて、洒落っ気もなくて、陸上馬鹿のわたしなんかとは比べ物にならない、理想の女の子みたいな人に違いない。先輩もわたしのことなんか、全然……。
心臓が、きゅうと締めつけられる。
「……でも」
でも。やっぱり負けたくない。
美優が贔屓するほど、女の子らしくない。ゆきには何もかも及ばない。魅力的な女の子になれる自信なんかこれっぽっちもない。今ここで何を言えばいいのかなんてわからない。先輩に好かれるようなものなんて何も持ってない。誰かに勝てる勝算なんて思いつきもしない。持っているものなんて、美優とゆきがくれた、身内贔屓な過大評価だけ。
「先輩っ!」
だけど言わなきゃ。わたしが勝負できるのは、今しかないから。
なんの準備も根回しもない、愚直な伝え方しかできないけど。好きな気持ちも、誰かのものにしたくない独占欲も、諦めも劣等感も嫉妬も全部籠める。虚勢を張らない、本当の本当に、これがわたしの全力。
わたしは、この一瞬にかけてみたかった。
たとえ魅力がなくても、先輩の一番になるには、今しかないから!
「わたし、先輩のこと――!」
――先輩がくれたアドバイスは、やっぱり正しかった。