第二十八話
「さ、着いたよ」
や、やっとか……。
軽い身のこなしでヒョイッと馬車を飛び降りルナさん。
その後にゾンビのようにヨタヨタとよろめき降りる俺とシーナ。
「うう……前でもあまり変わらないような……」
シーナの言うとおり、風が当たっても気分が改善するような気はしなかった。
「そりゃそうだよ。一度酔っちゃったらもうね……何しても良くはならないよね」
最悪だ、この人。
ケラケラと笑うルナさんに思わず恨みがましい視線を向けてしまう。
「ここからは馬車じゃ行けないからね。うーん、地図で見るとこの先にある川沿いに上って行って二時間くらいってとことみたいだね」
「この子たちはどうするの?」
一人、客車でのんきに寝ていたアルテナが、二頭の馬の鼻面を撫でながら言う。
「そっか、装甲馬車での遠征は初めてだったんだよね。コレを使うんだよ」
ルナさんは自分の荷物の中から銀製の短杖のような物を四本取り出した。
短杖の先端には黒水晶のような塊が嵌められている。
魔石だ。
「それって、もしかして結界ですか?」
「そそ」
シーナの質問にルナが得意げな顔をして頷いた。
「コレ、わたしの私物なんだけどね。十五メートルから二十メートル四方の結界が張れるから、馬車ごとすっぽりと結界内に入れちゃうのよ」
すげえ、さすが探索時間一万三千超えの採掘者だよ。
結界は一人用の小さなテントサイズの大きさの結界でも、銀貨数千枚もする大変高価な品物。
ルナの持っているサイズだと、銀貨よりも金貨で取り引きされるような世界の代物で、ギルドが共同資産として所持しているような代物だ。
それを個人で所有しているなんて……。
「コレを使ってここに拠点を作っちゃおう。シーナさん、この結界の短杖で馬車を囲むように設置してくれる?」
「どうすれば?」
「えっとね、四本あるから馬車を中心にして四方を囲むように地面に刺せばいいよ。一辺、だいたいでいいから十五メートルくらいの間隔で」
「わかりました」
「ノア君とアルテナさんは薪を集めてちょうだい」
「はい」
「わかったんだよ!」
テキパキと指示するルナに従って、俺たちはそれぞれに言い付けられた作業に勤しむ。
短杖を設置し終えたシーナも、俺たちに合流して薪用の枯れ木集めを手伝う。ここのところ天気が良かったので、程なくして大量の枯れ木が集まった。
ルナは集めた薪に着火の指輪で火を点けると、小さな小袋から炭に似た黒っぽい固まりを取り出した。
「なにそれ?」
「コレはね、魔除けの香だよ。瘴気を中和する効能を持ったソムルと、色んな香木を細かく刻んで固めたものなんだ」
尋ねたアルテナの手のひらの上に、ルナさんは固まりを乗せた。
「ん、なんだかちょっと変な匂いがするね」
形の良い小鼻をスンスンさせて、アルテナが少しだけ嫌そうに顔をしかめる。
「俺は結構好きな匂いなんだけど」
少しだけ甘いような独特の匂い。
「それでコレ、どうするの?」
「焚き火の中に放り込んで」
ルナさんに言われたとおり、アルテナが魔除けの香を焚き火の中へと放り込む。
すると薄っすらと青白い煙が立ち上って行き、頭上五メートルのところで見えない壁に阻まれたように滞留する。
「不思議でしょ? 普通の煙は結界の外へ流れていくのに、この魔除けの香から出た成分だけは結界に阻まれて、モンスターが嫌いな匂いを押し留めるんだ」
俺とシーナ、アルテナが初めて見る結界に見入っていると、ルナさんがそう説明してくれた。
「さ、これで結界の設置はおしまい。お昼ごはんを食べたら、塔へ出掛けよっか」
昼食はソーセージなどを焚き火で炙る程度の簡単なもの。
しっかりと食べるアルテナとルナさんを横目に、すっかり乗り物酔いで弱ってしまった俺とシーナは、とても脂っこい物を食べる気にはなれない。
干した果物とパンを水で流し込むようにして、腹になんとか詰め込んだ。
後は歩いているうちに気分が良くなってくるだろうから、その時に齧りながら行けばいいや。
馬車も通れるような道から外れ、獣道と思われる木々の間にできた小道を歩く。
これが思っていた以上に大変だった。
まず地図にある川へと行き当たり、それから川沿いに上流を目指して歩くのだが。
「うわあ……高いね。落ちたら死んじゃうね、これ」
アルテナが太い木に手を回して、恐る恐る崖の下を流れる川を覗き込んでいる。
地図上では細い線で描き込まれていた川。実物はご覧の通り、∨字型に切れ込んだ深い谷底に流れているようだった。
「コレ、ドンペリーニが手下へ写させて盗み出した地図だからねぇ。詳細に書き込む余裕は無かったんだろうね」
ポリポリと頬を掻いて苦笑するルナさん。
「なあ、ノア。ドンペリーニから、崖崩れの跡から塔らしき遺跡が見つかったと聞いたんだな?」
「ああ、そう言っていた」
「じゃあもしかして、この崖沿いのどこかに塔への入り口があるということか?」
「そういうことになるんだろうな」
俺も下を覗き込みながらシーナへ頷く。
コレほど急峻な崖に塔があったなら、そりゃ未発見のはずだよ。
「崖の中ほどにあるのか、それとも降りて下にあるのかな?」
「下だとしたら降りる場所を探さないとならないぞ? 私たちでも降りられるような場所があればいいが……」
俺とシーナがブツブツ相談していると。
「地図だとまだまだ上流の方だねぇ。ただ川底の方はあまり歩きたくないから、このまま崖の上を進んでいこう」
「そうなんですか?」
「山の上の方で天候が崩れたら、鉄砲水が来たりするからね。逃げ場もないし、川底を歩くのはちょっと避けたい」
なるほど。
「石が落ちてきたりもしそうだ」
「そうだね。こんなに切り立った崖なら、落石だってありそう」
シーナの意見にルナさんも頷く。
「だから目的地までは崖上を歩いて行くことにしよう」
「足下が不安なのが怖いな」
踏み外したら崖下まで転落だ。
灌木や背丈の高い草を、俺とシーナが戦鎚でなぎ倒して道を作り慎重に歩を進める。
そういえば、俺たちは塔の中のモンスターに備えて戦鎚で武装しているけど、ルナさんは剣で戦う気なのだろうか。
あの氷の権能を持った魔剣には、遺跡にいる動く石像やゴーレムなどのモンスターを相手にできる力もまだ秘めているのかな。
早く見てみたい。
俺たちにとって厄介なのは道が無いことだけでは無かった。
神の城壁内はモンスターの生息地。
そう、モンスターの出現である。
進むうちに獣臭が漂いだす。
周囲に気を配っていると、茂みの奥からノソリとそれは姿を表した。
でかい!
一言で言うと、巨大な熊。
ただし、胸から肩にかけて筋肉が異様に盛り上がっていて、その先にある前足は尋常ではない太さがある。
「巨腕熊だ。俺、初めて見た」
「あ、ああ。私もだ……」
俺もシーナも思わず声が震えてしまっていた。
獣臭で何かがいるとわかっていても、いざその巨体を持ったモンスターを目の前にすれば、その迫力に圧倒されてしまった。
唾すらも湧いてこなくて、喉がカラカラに渇いてしまっている。
巨腕熊は、神の城壁内に生息する肉食系の獣でも最上位に位置するモンスターと聞く。
その名の通り異常に発達させた両腕は、樹上にある大人食い蜂の巣から大好物の蜂の子を取るべく、大木をへし折るために発達させたと考えられている。
「グルルルッ……」
巨腕熊は低く唸りつつ、ノッソノッソとこちらへと近づいてくる。
蜂の子が大好物だという巨腕熊だが、別に他の動物の肉が嫌いというわけではない。モンスターの肉だって彼らは大好物だし、人の肉だってもちろん食べる。
距離がどんどんと狭まってくる。
「ね、ね、逃げたほうがいいんじゃないかな?」
アルテナが俺の傍に近づいてきたので、その手に触れて巨腕熊を観察する。
色はオレンジ色。格上を表わすモンスターだった。
「逃げちゃダメだよ。元々、巨腕熊の方が人よりも足速いし、そもそもこんなに足下が悪い場所なら、なおのこと巨腕熊の方が足が速いよ?」
冷静な口調で注意するルナさん。
「どうする? 荷が重いようならボクが相手するけど?」
窺うように尋ねるルナさん。
氷の魔剣を持ち、経験豊富なルナさんにとって、巨腕熊は今までにも何度も遭遇したことがある相手なのだろう。
ルナさんの口調はいつもより真面目だが、恐怖の色は無い。
「いや、俺たちだけでやってみる。やらせてくれ」
ルナさんの冷静な態度が、俺たちに落ち着きを取り戻させてくれた。
シーナは戦鎚をその場に落とし、腰から刀を抜く。
俺は弓に矢を番えた。
アルテナは――こいつは元々、巨腕熊に対して恐怖を感じていなかったらしく、俺の後ろで火炎弾の指輪を構えている。
結構な距離を歩いてきたおかげで、乗り物酔いは治っている。
三つ目狼の時とは違う所を見せてやる!
「そう、じゃあ見てるだけにするね。どうしてもマズそうなら、助太刀してあげるよ」
戦う準備をする俺たちを見て、ルナさんは微笑むと、トンと軽く地面を蹴って距離を置いた。
その動きを見て、一瞬巨腕熊もルナさんを警戒するように小さく唸り、視線を向ける。
この巨腕熊にも、この中で誰が一番強者なのか本能で感じ取っているのかもしれないな。
巨腕熊は、ルナさんが距離を取った後、特に何も行動しないのを見て取ると、俺たちを攻撃対象に定めたようだ。
ゆっくりと頭をめぐらして、俺たち三人をじっくりと見据える。
落ち着きを取り戻したとはいえ、間近に迫る獣の王者のプレッシャーは凄まじいものがあった。
ゴクリと唾を呑み込む。
ギュッとシーナが刀を強く握り締めて正眼の構えを取った。
しかしこの大きさなら、俺の矢が外れることはない。
シーナが突っ込む前に、先制攻撃を仕掛けるか。
俺が番えた矢を放とうと思ったその時。
「グォオオオオオオオオオオオオ!」
腹の底に響く吠え声を上げ、巨腕熊が立ち上がった。
で、でけええええ!
体長はおよそ四メートル近いか?
立ち上がった巨腕熊の巨体に、俺は驚き、思わず矢から指が離れてしまう。
当たった。
急に立ち上がったため、矢の刺さった場所は丁度脇腹のあたり。
しかし。
「げ、まるで効いてない!?」
慌てて射ったショートボウの小さな矢など、脇腹に刺さっていてもほとんど気にしている様子はない。
せめて痺れ薬くらい、塗っておけば良かった!
ちっぽけな人間を見下ろす巨腕熊。それはまるで王者が、矮小な挑戦者を観察しているようにも見えた。
次、次の矢を、早く次の矢を。
想像以上の巨腕熊の頑強さと、中途半端な先制攻撃をしてしまった俺は、焦って次の矢を矢筒から抜こうとする。
そんな俺を無視して巨腕熊は、最も前に立っているシーナへ覆いかぶさるように、右腕を横殴りに振り下ろした。
それはもう、巨大な丸太が迫ってくるような一撃。
しかも図体に見合わず早い。
咄嗟に後方へ飛び退くシーナ。
巨腕熊の右腕は、シーナの横にあった大木の幹をぶん殴り――。
ドゴン! メキョメキメキ、バキ……。
生物が物を殴って出したとは思えない衝突音と、その後に大木がぶち折れて、その場にズシンと転がった。
あんなとんでもない一撃、人が受けたら身体が引きちぎられちまう!
「撤退するのも、助けを請うのも、正しい選択の一つだよぉ」
戦慄する俺たちの背後から、そう言うのはルナさん。
ルナさんの言う通り、格上を相手にして無理をしてしまい命を落とす、もしくは一生モノの怪我を負う前に、彼女に助けを請うべきなのか。
少し迷いを覚えたところに。
「火炎弾!」
「ギャンッ!」
鼻面で炎が弾けて、巨腕熊は前足をバタつかせて炎をかき消すような仕草をする。
「大丈夫だよ、ノアたちなら。助けなんて無くてもちゃんと倒せるよ」
指輪を構えたアルテナがそう言って笑った。
何の根拠もない一言。
だけど、その一言が俺の弱気になった心を奮い立たせてくれる……かもしれない。
「ノア、気づいているか?」
俺の横にまで後退したシーナが巨腕熊から目を逸らさずに話しかけてくる。
「奴は私やノアに対してはさほど注意を払っていないようなのに、なぜかルナさんとアルテナには強い警戒心を抱いているようだ」
ああ、それでなのか。
巨腕熊の攻撃がどこか慎重なのは。
肉食獣は弱い獲物に対して、一気呵成に襲い掛かってくるものだ。
しかし、奴は立ち上がって周囲の様子を確かめるなど、執拗なまでに強い警戒心をこちらへ抱いている。
その原因はルナさんとアルテナなのだろう。
ルナさんは探索時間一万三千超えの採掘者で、経験豊富な実力者。
アルテナは、おそらく聖剣という本性を持つからだろう。アルテナの本来の力は、大地に巨大なクレーターを築いてしまえる強大なもの。その力を巨腕熊は、野生の本能で感じ取っているのかもしれない。
その二人に必要以上に警戒心を割いているため、俺たちへ突っ込んでくるような真似をしないんだ。
「攻撃と防御は同時にできないからな。私たちに突っ込んだところへ、アルテナとルナさんが攻撃を仕掛けてきたらと考え、迂闊に動けずにいるんだろうな」
「なら、アルテナが実はショボい事がバレる前に、何とかしたいところだな」
「ショボいって失礼なんだよ!」
「剣になっていない時のお前の攻撃手段なんて、その火炎弾だけだろうが」
「そうだけど! そうなんだけど! それはマスターがいないからであって――」
「ショボいのは事実だろ」
「そうまで言うなら、アルテナが――」
「金が無いから無理だわ。換金用に持ってた宝石類も盗られたし」
「くぅうう……、貧乏が、貧乏が、アルテナがショボくないことを証明させまいとするんだよぉ」
貧乏、貧乏、連呼するなよぉ。
悲しいから。
「何だかよくわかんないけど、結構余裕があるじゃない」
ルナさんはケラケラと笑っている。本当に余裕綽々だな。
ただ、もしも手持ちに宝石があったとしても、アルテナを聖剣にして使う気はあまりなかった。
確かに聖剣状態のアルテナなら、獣の王者である巨腕熊だって物の数ではないだろう。
でも今はルナさんの目がある。
個人としてはルナさんの事を尊敬できる採掘者だと思っている。
しかし、あのドンペリーニの知り合いというところで、信用性に一抹の不安があった。
あの胡散臭い金貸しドンペリーニ。
俺自身が奴と関わりを持つため、ギルドの連中を始めとした採掘者たちに白い目で見られているように、結局ドンペリーニの事で、俺もルナさんの事を色眼鏡で見てしまうのだ。
ただ、ルナさんはドンペリーニとの繋がりがあっても、多くの他の採掘者たちから敬意を払われている様子だったけど。
多分、色々な良くない噂を力づくというか、実績で黙らしたんだろうな。
俺にはまだ到達できない領域だ。
「俺のショートボウだけじゃ牽制にならないみたいだ。アルテナ、火炎弾の指輪でさっきみたいに、奴の顔を狙って撃ち続けてくれ」
「わかったよ!」
ショートボウがダメなら、俺のショートソードやダガーを突き刺したところで、何ら痛痒を感じないかも知れない。
俺はさっき落としていたウォーハンマーを拾い持つと、握り締める。
「火炎弾! 火炎弾!」
アルテナが連続で火炎弾を放つ。
巨腕熊の分厚い毛皮は、炎も防いでいる様子だが、毛皮に守られていない鼻と目に熱い炎を当てられるとさすがにダメージを負うらしい。
太い腕を振り回して、炎をかき消そうと暴れる。
アルテナの執拗な火炎弾の連射に嫌気が差して、とっととどこかに去ってくれればいいのに。
俺としてはそう願っていたのだが、煩そうに炎を払いながらも、巨腕熊の赤い瞳は爛々と獲物である俺たちを見据えて輝いている。
逃げる気が無いなら!
「このやろっ!」
勢い良く俺はウォーハンマーを振り回して、巨腕熊の左脚の脛あたりに叩き付ける。
ウォーハンマーの平らになっている頭では無く、鋭く尖らせてあるピックのほうだ。
「ギャンッ!」
さすがは重量武器のウォーハンマー。
毛皮と分厚い脂肪に守られた巨腕熊の脚でも、
ウォーハンマーに殴られればただではすまなかったようだ。
左脚へ受けた重い衝撃に巨腕熊が、その場に飛び跳ねるようにしてたたらを踏む。
ピックは確実に巨腕熊の脛の肉を抉り、毛と肉が先端部にこびりついていた。
「はっ!」
ザシュ、ザシュ、ザシュ!
その隙に巨腕熊の背後へ回り込んだシーナは、刀で斬るのでは無く、臀部へ鋭い踏み込みから突きを尻へ三連。
鋭く鍛え抜かれた刃は、俺の矢を通さなかった巨腕熊の毛皮と皮下脂肪も安々と貫く。
臀部を傷つけられて、悲痛な悲鳴を上げる巨腕熊。
その巨体がその場で跳ね回るたびに、地面が振動しているように思う。
暴れている巨腕熊に、俺たちは近づくことができない。
下手に近寄るとその巨体に押し潰されてしまいそうだ。
「火炎弾!」
痛みに苦しむ巨腕熊へ追い打ちを掛けるように、アルテナが炎を撃ち出す。
おっと、俺が言った顔面目掛けてではなく、狙ったのは巨腕熊のケツに炎が弾けた。
「ォオオオオン」
獣の王者の悲鳴。
シーナにぶっ刺された傷口を炎で炙られたんだからな。
そりゃ、獣の頂点に立つ王者でも、悲鳴を上げても仕方ない。アルテナによるケツへの執拗な火炎攻撃に閉口したのか、巨腕熊はその場へ不用意に立ち上がったところへ。
機を逃さず戦鎚を放り投げて拾っておいた弓で矢を放つ。狙いは胸。
吠え声に驚いて思わず手を離してしまった最初の一射目とは違う。
弦を限界まで引き絞って放った矢だ。
それも至近距離で。
もちろん外すこともなく命中。巨腕熊が立ったまま、一歩後ろへ下がる。
そこへシーナが踏み込む。
太い腕が振り下ろされれば、ただではすまない事がわかっているだろうに、迷いを感じない踏み込み。
「へえ」
離れた所で見ていたルナさんが、感嘆のため息を吐く程の思い切りの良さ。
振るわれたシーナの刀は、巨腕熊の腹部を横一文字に切り裂き、鮮血と共に熊の腸が地面にこぼれた。
「やあ、お見事だったね」
巨腕熊の巨体が動かなくなったのを確認していると、ルナさんがパチパチと拍手した。
「今のノア君たちにとって、巨腕熊は格上のモンスター。いつ手を出そうかなって思って見てたんだけど、まさか仕留めちゃうなんて。これはボク、君たちのことを侮りすぎちゃってたかな」
「いや、熊がルナさんを妙に警戒していてくれたおかげですよ」
「そうかもしれないけど、三つ目狼の時とはノア君の弓腕もシーナさんの剣も、全然違ってたからね。驚いたなぁ」
三つ目狼の時は、乗り物酔いがひどかったせいもあるから。それに俺の弓もそうだけど、シーナだって身のこなしが全然違っていたし。
「シーナさんもよく熊にあれだけ近づいて斬ることができたね。ベテランの採掘者でも、なかなか近接武器であいつを仕留めるのは躊躇するものなのに」
「ハハ……今になって私も足が震えてきましたよ」
見ればシーナが情けない笑みを浮かべていた。確かに少し手足が震えているようだ。
冷静に戦っているように見えたのに、やっぱり強い恐怖を覚えていたのだ。
「わたしも疲れたんだよ」
アルテナも俺たちほどでは無いにしても、疲れの色を滲ませて、俺の横へチョコンと座る。
「そうね。ちょっとここで休憩しようか。あいつが暴れてくれたおかげで、丁度このあたりが拓けてくれたし」
ルナさんは腰に手を当てて周囲を見回す。
巨体の巨腕熊が暴れまわってくれたおかげで、周囲の草木はなぎ倒されていて、ちょっとした広場が作られていた。
特に前に出て盾役兼囮役を務め疲労困憊になったシーナには休んでもらって、俺はアルテナと一緒に薪となる枯れ枝を集めて火を熾す。
その間にルナさんが巨腕熊を解体していた。
「ちなみに巨腕熊の肉、脂はすっごく美味しいんだ」
そう言ってルナさんは大きな魔石を俺たちへ差し出してくれる。
「これ、あの熊の魔石ですか?」
「そうそう。あれだけの成獣だもの。魔石も大きくなっているよ。こいつは毛皮と肉だけじゃなくて、骨も太いから加工して物を作れるし、内蔵もすっごく貴重な薬になるから高値で取り引きされてるんだよ」
その非常に高価な理由の一つには、巨腕熊の強さもあるんじゃないだろうか?
「だいたいあいつを討伐する場合、探索時間千時間超えで、五~六人のパーティーで戦うんだ。一頭仕留めただけでも十分儲けになるのよね」
「でも、今の私たちはこれを運ぶわけにはいかないぞ? 結構な量があるが、これから遺跡に行くわけだから、持っていくわけにもいかないぞ?」
シーナの指摘ももっともだ。
これから未踏破の遺跡へ向かうのに、余計な荷物を抱えていくわけにはいかない。
これ以上装備を持つ余裕がないのもあるが、見つけたものを持ち帰ることも俺たちの仕事だからだ。
「そうだなぁ……毛皮は剥いで、帰り道の途中に拾えるような場所に置いておけばまだ持って帰れるかもな。肉は……今から食べる分と、少しだけ携帯食として持っていけるくらいだろうな」
もったいないけど。
「高価な薬として売れる肝や他の内蔵も、処理してる暇ないからねぇ」
適当な枝を切り取って作った串に熊の肉を刺し、火で炙り始めたルナさんがのんびりと言う。
ルナさんクラスの採掘者になれば、巨腕熊一頭程度の儲けなんて端金なのかね。もう肉へ意識を集中させているようで、残していく熊の素材に関してはまるで未練を見せていない。あ、ヨダレ……。
「わあ……良い匂いがするんだよ?」
アルテナが漂い始めた肉の匂いに、鼻をヒクヒクさせている。
こいつも本性は聖剣だからなぁ。熊なんてただの食べ物としてしか興味がないらしい。
「ほれ、お前の串と肉。焦がすなよ」
黄色い脂肪をたっぷりと含んだ肉を串に刺し、アルテナを渡してやると、俺も自分の分の肉を焼く。きかぶりつけば、口の周りにベッタリと肉汁と脂が付く。噛めば噛むほど旨味が出てきて本当に美味い。
大金へ換金できるという巨腕熊から取れる素材のほとんどを諦めなければならないのは、何とももったいない話だけど、こうしてなかなか味わえない旨い肉を食べることができたし、これで満足しておくことにしようか。




