if・if・if
もしもあの時。そんなの誰もが思うことで、ごく当たり前に存在している、ありふれた仮定。あの夏の日、熱気のたまった居酒屋での、どうでもいい会話。
「なあなあ、今年オリンピックあんのどこだっけ?」
「ブラジルです。リオデジャネイロです。ていうか明日開幕です。ブラジルと日本は時差の関係で午前と午後がまるっきり入れ替わるから……日本時間だと明日の朝です」
嘘やん、と完全に偽物の関西弁でつぶやいた先輩に、僕は一言、バカですか、と返す。仕事をしている時は本当に天才的で、だからこそ三十代前半でかなりのポストまで出世している先輩は、一般常識にはからっきし疎い。それなのに、飲み会で上司たちが口にするくだらない昔話にはだいたいついていけるようにしているんだから驚異的だ。
「ちょ、おま、バカ呼ばわりしなくてもいいだろー。俺ほら、あの、世界陸上のさ、ラムちゃん」
ああ、そこしか見なかったんだなと思いながら、僕はそのジャマイカの選手の名前を正確に答える。彼は、そうそうその子、とうなづいてみせた。全く、わかっているのかわかっていないのか全く謎だ。
「あとさー、オレンジの。オランダの子。あの二人しか興味ないからさぁ」
「陸上競技に興味があるとかないとか以前の話じゃないですか。ミーハーで、オリンピックも日本人の出る種目しか見ない一般人以下ですね」
冷たく言い放つ僕を、彼は泣きそうな目で見つめた。この顔をされると、正直五歳以上年上なことを忘れそうになる。捨てられた子犬。陳腐な表現だけどぴったりだ。
「ひどい! お前ひどい! きらい! この悟り世代!」
「ひどくて嫌いで結構です。あと、僕もう二十六なんで、どっちかというとさとりじゃなくてゆとりです。ついでに、じゃあなんでひどくて嫌いな後輩を毎日のように飲みに誘うんですかね?」
先輩がぐっと言葉に詰まる。仕事中はさわやか青年顔か阿修羅顔しかしないこの人が、僕と飲みに行く時だけ、表情豊かな子どもになる。コピーを頼まれるだけで騒ぐ女子社員たちは知らないこと。少しだけ優越感。
「それはだな……そうだ、毎度先輩に能面のような無表情しかしない新人にお説教をだな……」
「僕が新卒だったのは三年前ですが」
うぎぎい、という謎のうなり声をあげて、先輩は冷の日本酒を一気に飲み干した。僕は心の中でひそかに、ああ、山田錦もったいない、とつぶやく。味わって飲めよ、高いんだから。
「じゃ、じゃあ逆に問う! なぜお前は毎日のように、誘った挙句ウザ絡みしてくる先輩の誘いを断らないのだ!」
打つ手がなくなった時の先輩の常套手段。でも、実はこれが一番効果的に、一番痛いところをついていることに、本人は気付いていない。そんなのは言えないこと。言ってはならないこと。何食わぬ顔をして、僕は嘘をつく。
「先輩の誘いを断ると出世に響くって、こないだ中村部長が説教垂れてたので」
「お前! 部長が命令したら嫌いな奴とでも飲むのか! 空恐ろしいなゆとり世代……」
つぶやいた先輩を無視して、僕は店員に声をかける。立山の熱燗。基本的に、この先輩と飲むとき、僕はこれとビールしか飲まない。いつだか、この人に熱燗じゃ酒の味はわからんだろう、と、日本酒について滔々と語られたことがあるが、その時は、先輩だってどうせ一気しちゃうからわかんないでしょ、と言って黙らせた。それ以来、この人は僕の飲み方について、一切口を出さなくなった。
「怖いよーゆとり怖いよー俺達にはわからない理屈で動いてるよー。どうせお前も、家帰ったらツイッターで『先輩と飲み会。酔っ払いウザいわず』とかつぶやくんだろ! 知ってんだからな!」
「ツイッターのイメージ古すぎません? それに……」
僕ははっとして口をつぐむ。酔いに任せてこぼれかけた本音。僕は先輩に誘われるの、毎日楽しみに待ってますよ。
「それに、なんだよ。何? いっちょ前に先輩様に隠し事ですくわぁ~? いっけないなぁ後輩君、明日には忘れてあげるからちゃんとお話ししようか~?」
「先輩記憶消えたことないでしょ。絶対言わない」
なんだよ教えろよけちー、な、けちでしょこいつ、と店の大将にまで話しかけだした先輩を見て、頃合いだなと思って立ち上がる。危なかった。もう少しで――
「おう、お前帰るんか」
「じきに終電です。明日も仕事です。僕は優秀な先輩様ほど朝に強くないんで、帰って寝ます」
「え、ちょっとまっておいてかないで、俺一人で帰れないの知ってるだろばかー」
言いながらあわてて財布を出す彼を見る僕は、どんな顔をしているんだろうか。言ってはならないこと。誰にも知られてはならないこと。この人には特に。それが、その顔からこぼれてしまっているようで、僕はつんとそっぽを向く。
よれよれの先輩に肩を貸し、駅まで歩く。空には、都会にしては多めの星が瞬いていた。
「あ、ほれみろ夏の大三角だ。アルタイル、デネブ……あれ?」
「ベガでしょ。なんで一番短いの忘れるんですか」
俺は人にできないことができて、できることができない男だ、と彼がエラそうに言うので、とりあえず道に放り投げてやった。
「痛い! 痛いぞ後輩! アスファルトヌルい! 明日からいじめるぞばか!」
「冷たくなくてよかったじゃないですか。あと、いじめるならご勝手に。そのかわり、もう呑みに付き合いませんからね」
ひどい、やっぱお前きらい、と彼が騒ぐので、僕は仕方なく、といった様子で手を差し出す。僕の手を握る、男っぽい骨ばった手。湧き上がった気持ちは、全部ふたをする。
「しかし暑いなー今年。夜だぞ。また熱帯夜か」
「らしいですね。でも今年は冬はラニーニャ現象が起きるかもって天気予報士の人が言ってましたから、秋には涼しくなるんじゃないですか」
「誰だよその天気予報士」
僕は有名な俳優の息子の名前を告げ、先輩は落胆した様子で、こりゃ秋も冷酒がうまいな、と言った。
確かに彼の予言通り、秋も残暑の厳しいものとなった。冬は寒くなるそうで、天気予報士の予言は半分だけ当たった。土曜の夕方。ベランダで、飲みなれない冷酒を一口だけ、なめる。
「……確かに、うまいっすね、冷酒」
答える人はいない。もうどこにも。秋の初め。あんな突然にいなくなってしまうなんて、思いもしていなかった。事故だった。信号無視の車に突っ込まれて、先輩はいなくなった。
もしもあの時。そんなの誰もが思うことで、ごく当たり前に存在している、ありふれた仮定。でもそれは後悔となって、胸にしみついて離れない。受け入れられないと知っていた。だから言わなかった。言えなかった。そうしたら余計忘れられなくなるなんて、僕だって知らなかった。誰かを亡くすことは、一回しかできないのだから。
「あのね、僕ね、先輩のこと大好きだったんですよ。仕事してるとかっこよかったし、飲んでるときは子どもみたいでかわいかったし。飲みに誘ってくれるのだって、毎日楽しみに待ってたんですよ? 大好きだったんです。大好き……だったんです」
ベランダで繰り返し繰り返し行われる告白は、すべて過去形の話でしかない。
もしこんな僕を見たら、先輩は笑うだろうか。泣くだろうか。それとも何か、言うだろうか。全部を「もし」の中に閉じ込めて、秋の日は静かに暮れていった。