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マウルブロンの幼なじみ

作者: ことわ

 子供のころ、僕らはよく学校の帰りにマウルブロン修道院まで足を運んだ。庭園の桜の木の下で僕らは学校でのことを話し合い、水筒に入れた僕の母親特製のハーブティーと、彼女の母親の手作りのお菓子を分け合った。

 彼女は授業で初めてカインとアベルの話を習ったとき、ヘッセの「デミアン」の小説について僕にこういった。

「ヘッセはこのマウルブロン修道院を抜け出したのよ。ここでどんな学校生活を送ってたのかと考えると、私胸が痛くなるの。私にもデミアンがいたら、って今日すごくそう思ったわ。私の中にも私じゃない何かがいるみたいで、ずっと怖くなるのよ。アルミン、あなたがデミアンなら素敵なのに」

 彼女の言葉を聞いて、僕も胸が痛かった。彼女にとって僕は頼りなくて、子供で、きっと彼女は自分の話を誰かにすることで、自分のことを知ろうとしているのに、僕を利用しているだけだろうと思ったから。それには僕みたいな大人しくて、従順な幼なじみがちょうどよかったのだろう。僕は弱くて、彼女のそんな言葉に傷つき蒼く湿った芝生を見つめていた。彼女の肩までの髪が視界に入り、彼女が僕を覗き込むと泣きそうな僕の顔をみて真面目な顔をしてこういった。

「ばかね、だれもデミアンなんかになれっこないのよ。そんな小学生いるはずないのよ。あなたが恥ずかしい気持ちになったって、意味がないわ」

 彼女は修道院を見つめ続けて話した。

「ここに来ることができることが、唯一救いなの。学校に行ってもいる場所なんてないもの。ここにはヘッセが歩いているのが見える。空を見上げるとデミアンが笑いかけて、アプラクサスという鳥が飛んでいる」

 その頃の僕は、彼女の百分の一も彼女のことがよく理解できていなかったし、まして十歳になって小学校を出て、二人がギムナジウムに通い始めてから僕らは話をしなくなっていたから、僕にとって彼女はまったく遠い人になっていた。

 彼女はギムナジウムに入学して学年で成績はトップクラス、整った端正な顔立ちは、昔のように頑ではなく優雅で打ち解けた雰囲気で、みんなから憧れられていた。髪も長く綺麗に伸びて女らしくなった姿を僕は上手く見ることができず、隙を見てはこっそり盗み見たりしたが、彼女は僕のそんな盗み見をすぐに察知し見つめ返されたけれど、決して話しかけてはこなかった。

 ギムナジウムを入学して最初の頃は、少なくとも放課後いつものように修道院で待ち合わせた。けれど、その頻度は彼女の人気と共に少なくなり、十四歳の春修道院の庭で彼女は僕に云った。

「もうここに来れないの。クラスの女の子に、この前男の子と修道院歩いていたでしょって聞かれたのよ。女の子って大変なのよ。幼なじみよって云ったけど、彼女疑っていたわ」

 僕は黙って頷く。そしてまた芝生を見つめる。けれど彼女は何も言わなかった。

 それから十七歳になるまで、彼女と話をすることはなかった。彼女が学校の帰りに一人で修道院へ行くのを見かけると、僕は我慢ができずにそっと彼女の後をつけ、同じ修道院の庭の別の場所で時間を過ごした。彼女は本を読み、僕は空を見ていた。ただ、その時間は僕と彼女のもので、他の世界存在さえしていなかったと僕は今でもそう感じる。

 ラテン語の授業で僕らは同じ教室で、ある日僕らはすぐ近くの席に座っていた。授業中彼女はペンを床に落とした。僕は斜め後ろの席でペンを取ろうとする彼女の姿を見ていたが、ふとそのペンについて思いあたった。

「あれは、僕のだ」

 誰にも聞こえないような小さな声で思わず叫んだ。小学校の最後の年だったか、僕がなくしたと思っていたそのペンは、十五歳になる彼女が使っている。僕は両手で顔を覆って、喜びで溢れる笑みを隠した。

 小学生の頃から変わらず、否、それ以上に僕は彼女に惹かれるようになっていたし、彼女自身も考えられないような美しさを身につけていたけれど、僕にとって、小学生のころの開かない蕾のような頑な表情の彼女は懐かしかった。あの頃の彼女の苦しみや切なさは今の彼女の中にもあるのだろかと、十七歳になった頃、僕は大人になった彼女を見て何度も考えていた。けれど、僕は彼女のことを何もわからなくて、どうして女の子はあんなにすぐに変わってしまうのだろうと、少女たちの群れを盗み見る。そんな日々でしかなかった。

 十七歳、僕らは子供の欠片を邪魔なように振り払い大人になろうとしている。来年はアビトゥーアの受験も控えている。もう最後だと、僕は彼女を見つめながら思っていた。彼女が修道院へ行く日を、毎日僕は心臓をさすりながら待っていた。最後だ、きっとこれで最後だと心でつぶやく。

 その日、彼女は放課後クラスメイトたちと別れ修道院へ向かった。僕はめまいがするように感じたけれど、彼女の後を上手く着けた。

暑く、照りつける太陽も地面を焦がし、僕のふらつく足を捉える。修道院の庭の芝生は乾き足許は固い。いつものように彼女は桜の木に靠れる。僕はそっと彼女に近寄り、震える声で声をかけた。

「テーア・・・」

 彼女は顔をあげる。驚いた表情をすることなく、僕をまっすぐ見ている。

「その、聞きたいことがあって来たんだ」

 僕の話し方は小学生の頃と変わらず、もそもそとしているなと自分でも思う。どこもかしこもかっこ良くなく、デミアンみたいになんてなれていない。

「お座んなんさいよ」

 彼女は少し笑っていった。僕はふらつく躯を彼女の隣に置く。息を吸って話し始めた。

「なんていうか、君、昔とすっかり変わってしまったから、昔君がここでよく話していた気持ちや考えについても変わってしまったのかと、本当はずっと聞きたくていたんだけど、その、あまりは話せることがなかったから。最終学年になると、アビトゥーアの受験で忙しくなるからね、今聞いておきたかったんだ」

 彼女は隣でふうとため息をつき、答えた。

「私アビトゥーアには行かないわ」

 僕は驚いて彼女を見る。

「行かないって、行かないでどうするつもりなの」

「小説家になるのよ。その為に勉強してきたの。私何も変わってなんかないわよ。学校は嫌い、やっぱり女の子たちも苦手。だからアビトゥーアももういいのよ」

「だけど・・・」

 僕は言葉を続けられなかった。彼女は立ち上がって僕を睨む。

「もういい?私帰るわ」

 僕は黙って頷く。立ち去ろうとするとき彼女は一瞬僕を見て少し寂しそうな顔をしたように感じた。翌日、彼女は学校に来ていなかった。その翌日も、その次も。


 彼女が何日もこなくなり、不安になった僕はある週末、彼女の家を尋ねた。そこで初めて僕は知ったのだ。

「アルミン、よく来てくれたわね。随分大きくなって」

彼女の母親もすっかり歳をとっていた。そして疲れた顔をしてこういった。

「心配かけてごめんなさいね。あの子あなたに重荷になったりしてないかしら」

重荷とはなんだろう。よくわからない。

「病気、なんですか」

僕の質問に驚いた顔をする。困った表情を浮かべ、彼女は答えた。

「テーアはあなたにまだ話してないのね。病気のことがわかったとき、あの子最初に話すのはアルミンにするわって、そういったのよ。家で過ごすのはいやだからって、毎日散歩に行ってはあの子、帰ってあなたのことを話していたから・・・」

彼女の母親の話だとテーアは医者から四ヶ月持たないと云われたそうだ。僕は彼女に最後にあった修道院のことを悔やんだ。

「会えますか」

と僕は聞いた。テーアは裏の庭にいるはずだと聞いて、僕は慌てて向かった。

「テーア」

僕は小さい頃二人で乗ったブランコに叫んだ。

ブランコに揺られ空を見ていた彼女は驚いて僕を見た。僕はずっと憧れて気づいていなかったのだ。彼女はいつの間にか他のクラスメイトの女の子たちよりずっと痩せていて、白く儚い躯付きをしていた。そしてずっと昔から彼女の頑な表情は変わらずそこにあって、何かを得んとし闘っていたのに。

「アルミン、どうしてそんな顔をしているの。

お母さんに病気のことを聞いたの」

笑おうとしている彼女の顔は、何より寂しそうだ。どうして僕は気付かなかったのだろう。病気になる前だって、彼女はずっと探していたのに、友達を。

「僕、君に謝りたくて、ううん違う。テーア、僕に謝ってよ。テーアが僕の友達を奪ったんだよ。僕は男だから、友達になれないって君が云うから、僕は一番大事な友達をなくしてしまって、その友達が病気になった時だって僕、うっかり傍にいれないところだった。あやまってよ。君なんて大嫌いだよ」

彼女はまっすぐ僕の眼を見つめている。大粒の涙が綺麗な顔にまっすぐ流れていく。何粒も彼女の膝に落ちていく。滑る。震える。彼女の形のよい唇が綺麗に崩れていく。

「ごめん、なさい」

僕らは黙って零す。小さな頃と同じ景色の中で。


彼女が亡くなったあと、僕は彼女の母親から箱を渡された。

「テーアがね、自分が死んだら私の秘密をあなたに渡していいって云っていたのよ」

窮屈な礼装に、真っ赤な箱をしっかり抱いて僕は修道院へ向かった。地面は濡れて、緑色の香りがする中、桜の木の下で箱を開く。

いくつもの思い出の破片。ギムナジウムで行った旅行の彼女の写っていない僕の写真、昔僕の使っていたあのペン、それに僕に届かなかった手紙たち。僕の知らなかった彼女の秘密。

桜の木に彼女の体温を感じる。そして僕は空を見上げる。鳥が一羽大きな羽を広げ飛ぶ。


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[気になる点] いつの時代の話ですか?
2019/10/22 17:41 退会済み
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