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後編

そして、男の立ち位置が判明します。


――座標軸:現実うつつ


「おい」

 呼ばれたのは、彼のようだった。

「シャベルを動かせ。お前の親友の墓だろうが」

 

 彼は、墓穴を掘っていた。

 そう。死んだ、親友の為の、墓だ。


 シャベルが、やけに重たかった。



 男が彼に声を掛けてきたのは、どうやら雨が降り出したからのようだ。穴を掘るシャベルに、雨粒がポツリ、ポツリ、と当たっていた。

 「おかしいな」と、和語でも英語でもなく、母語で彼はことばを漏らす。自分の身体が濡れているのかどうか、雨に当たっているのかどうか、彼にはまるでわからなかったのだ。皮膚の感覚が、よくわからない。

 ただ。

 シャベルだけが、やたらと重く感じた。



 男が死んだのは昨日の戦闘でのことだ。状況から判断すると、即死に近かったらしい。彼も誰も、親友の……その男の死に際を確認した者はいなかった。ただ、ズタボロになった男の死骸だけを辛うじて回収して、散らばった四肢を集められるだけ集め終えて、彼は漸く男の死亡を確認した。


 男は、魔力持ちだった。


 男は、彼と同じ傭兵を生業にして、糊を口にして生き延びる、そういう暮らしぶりの中にあった。世界の紛争地を転々とし、人の生き死にでおまんまを食らう。そういう人種だ。

 男が彼よりも先に死んだのは、単なる偶然のなせる業でしかない。ただ単に、運が悪かった。それだけのことだ。


 傭兵の中には、契約時に死亡時のやり取りを細かく契約している人間も多かった。昨日の戦闘で死んだ仲間……同じ民間軍事会社と契約をしている同じチームの人間たちをこう呼べるのならばこう呼ぼうと彼は思う……の内、半数程は契約の通りの宗教的儀式に則って、埋葬または遺体の送付等の手配をしていた。


「ああ。私が死んでも、イリスウェヴ教に則った儀式は無理だろうな」

 以前。彼は魔力持ちでもある男から、そんな話を聞いていた。

 彼自身は信仰を捨てて久しい。最後の魔女殺しで己を呪って以来、彼は信仰を自らの内に置くことは心情的にも不可能になっていた。

 しかし、魔女、魔力持ちである男、自身の生まれに誇りを持つその男は、彼とは違った。信仰は、魔女らしくイリスウェヴの女神を篤く崇め、その神に全てを差し出さんばかりの勢いであった。ひょっとしたら、女性神であるイリスウェヴは、男にとっての母親か、あるいは恋愛対象の代替品に近いものだったのかもしれない。信仰を捨てた彼には、その辺りの感覚はまるで解らなかったが。

 けれども。

「魔女教会の人間なんて、この業界には殆どいないだろうし。魔女仲間そのものがいないしなぁ。少数派の悲しさってやつかな、こいつは」

 そう言って、男はあっけらかんと笑った。

 笑顔の綺麗な男だった。

 

 その裏表の無い綺麗な笑顔は、どこかナミのものと似ていた。



 彼が男と知り合ったのはどこだったのか。そのことが彼にはどうしても思い出せない。

 世界で、戦場をピンポイントに選びながら渡り歩くようなこの稼業で、最初のきっかけなど本当に些細なことでしかない。しかし次の現場、または別の現場と、彼は男と何度となく巡り合わせることが多かった。気がつくと、彼は、見た目からも男魔女おとこまじょらしさを隠そうとしないこの男と親しくなっていた。


 彼が、かつて魔女狩人ウイッチハンターだったこと、つまりは魔女殺しの経験があること、今傭兵などをしているのも彼の手にしたスキルが殺人それしかなかったこと……それらは一番の秘密であった。そのことだけは、口が裂けても言わずにいた。この男に対しては勿論のこと、他の誰に対しても。彼はそのことを懸命に隠し続けた。

 しかし。

 遠くに置いてきた、血の繋がらないたった一人の妹のこと、その妹が魔力持ちであること、彼がどんなに彼女の正義と健やかな成長を願っているかということ。男と会ったときの彼は、そんな話をしないではいられなかった。



 彼が、生きて、まともに話をしたことのある魔女は、風見ナミを除くと、この男が世界で3人めだった。


 2人めは、「紫鈴の魔女」の二つ名を持つ、スズノハという、彼よりも年長の、大層美麗な、冷たい女魔女おんなまじょだった。小柄と言っても過言ではない、平均的な和国女性の背丈だったが、なぜか彼女はスラリと大きく見える。そんな女だった。


 和国での監獄、その面会で、ただ一度だけ。


 そして、同業者でもあるこの男で、3人目。



 男と遇った頃の彼は、もう二十台も半ばに差し掛かっていた。男も彼も、大きな年の差は無かった。

 ナミのような、性別も違う、年齢も離れている、国籍も違う、という共通点の乏しい魔力持ちとは違う。国籍は違えども同性で同世代という男魔女おとこまじょの話は、彼にとってはまた深く興味を惹いた。

 そしてまた。男も、極東の変わった国の姫魔女ひめまじょとその家族の話は、随分と興味を惹いたに違いない。いつも目を輝かせて彼の話を聞いてくれた。

 ましてそれを話しているのが、魔力無しの只の男なのだ。まだまだ魔女への忌避意識を持つ人間も多い世の中で、魔女に親しみ、身内と同じ感覚を持って語られるその話。それもまた、男の興味をかきたてた部分であるのだろう。


「解るだろう。血は繋がっていないんだ」

 けれども一番大事な、ワタシの妹なんだ。そう、魔力無しの彼は胸を張って、小さな、5歳のナミを男に自慢した。


 だが。


 ナミの家族を。そしてナミの暮らす地域の魔女仲間を。自分が手に掛けたことだけは、口にできるわけもない。


 だから、彼のナミについての語りは、どこか曖昧模糊なものとなる。


 それでも男は、同じ魔力持ちとして、魔力持ちの子どもを妹と見做すこの変わった魔力無しの男のことを大層面白がった。喜んで、彼のナミについての話を聞いてくれた。



 男に話すことのできたことは、殆どがナミから聞いたことばかりだ。

 当たり前だ。彼がそれまで知っていた魔女、魔力持ちは、風見ナミただ一人だったのだから。

 刑務所の中で30分の面会時間の全部を使って自分を「人殺し」と罵倒し続けたあの紫の魔女との会話は、とてもではないが、知識にも知恵にもなり得なかった。

 その後の裁判……彼の年齢と身分、そして2国間の国際的な関係等、複雑な要因が幾つも作用して、結果的には期限付きの国外追放のみで罪を償い損なった、それ……の中においても、法的解釈の話ばかりで、魔女、魔力持ちからの肉声を彼は一つも得られなかった。



 そう。


 ナミは。


 彼が、ナミの家族全員を、殺したことを。


 全く知らずにいた。



「おい、雨が酷くなる前に、掘ってしまえよ」

 男の遺体は、あまりにもバラバラになりすぎていた為、他の遺体に先がけて遺体袋に収められていた。造形の残っていた他の死体と比べて一番損傷が酷かったからだろう、袋の形もまた妙に歪だった。

 彼に声を掛けてきた男は、魔力持ちの傭兵の入った死体袋の質量を目測しているようだった。

「まあ、深さはそんなもんでいいかな」

 この辺りは、死体を掘り返して食らうような獣も出ない、渇いた大地だからな。そう、言いながら。



「私には、もう会いたい人はいないんだ」

 ある日。まだ生きていた男は、彼にそう言った。

「生きて、会いたい人は、誰も。誰もいない」

 彼が不思議そうな顔を向けて、何も言わずに男を見ていたからだろう。男はいつものように綺麗に笑って、彼にその瞳を向けてきた。

「みんな、死んでしまったんだよ」

 狩られてな。そう、最後の音は小さく発音された。掠れそうな声を出すことは、いつものこの男らしくない物言いだった。何とも珍しい。

「みんな、イリスウェヴ神のもとへと旅立ってしまった」

 男のことばが、そこで途切れる。

 彼がそこから読み取ったのは、ほんの少しのことでしかない。男の故郷には、未だ魔女狩りの風習が残っていたこと。男は身内や友人、それらの全てに近い人……恐らくは……を、魔女狩人ウイッチハンターによって喪ってしまったこと。男には、帰る場所が無いこと。帰りを待つ人がいないこと……

 狩りのことは、男はあまり話したくなかったのだろう。彼も、あまり聞きたいと思う話ではなかった。男の身の上は、まるで彼がナミにした仕打ちそのままのように思えたから。だから、話が途切れたのは、彼にとっては都合が良かった。


「けれども。お前さんは、会いたいんだろう?」

 不意に、男がことばを継ぐ。男が言っている相手は、ナミだった。

「そんなら、お前さんは、生きなければならない」

 そう、男は、まるで自分に言い聞かせるかのように、どこか強い調子で彼に言う。どちらかといえばいつも飄々とした軽めの物言いが多いこの男にしては、珍しい。そう、彼は思った。

「そんな、未来のある、光に満ちた道を行く小さな魔女がいるんだ。この世界に」

 何とも、美しいものじゃないか。と。

「素晴らしい」

 そう、頷いて。男は彼に笑った。


 その男は今、死体回収袋の中にいる。




――座標軸:現実うつつ、その弐


 「風見レイジ」は存在しない。

 彼が思い描いた、妄想である。

 

 魔力持ちの男に、彼が唯一殺さずに済んだ姫魔女ひめまじょの風見ナミの話をする、その為の空想を促すのに都合よく練り上げた、ある種のアバターだ。


 彼がナミを保護したのは、本当に小さな偶然の采配だった。

 ナミの父、母、妹を殺した彼は、しかし、その殺害を直後に後悔した。後悔していたのだ。


 それまでの魔女狩りは、遠距離からの狙撃や爆殺、毒殺といった間接的な手法ばかりだった。だが、この日は直接家へと押し入り、近距離で3人を射殺した。

 死骸になる直前の魔女を見て。瀕死の愛娘……ナミの妹だ……を死なせまいと必死にあがく、死にかけの母親を見て。

 

 彼は、何かが違う、と感じたのだ。


 それまでの彼は、魔女は「人間ではない」という教義を疑うこともなかった。

 けれども、目の前で命の炎が尽きかけている母親は。小さな子どもは。


 どう見ても、人間だった。


 階下の深夜の殺人に、ナミはたまたま巻き込まれなかった。上階にいて、気づかなかったのだ。


 人殺しを後悔し、慟哭していた彼が見つけた子ども。


 それが、5歳のナミだった。



 父を、母を、妹を。直接手掛けた殺人犯と逃げ回っていることを、ナミはまるで知らずにいた。

 当時の和国は、3桁にも及ぶ死体の山が築き上げられたテロリズムのお蔭で、混乱のさなかにあった。

 更に、彼は外国人である。ことばはカタコト、土地には不案内。そうした些細な足枷が重なり、ナミを安心して預けられる場所を見つけるまで、彼は随分と時間を取られた。

 その間、約3カ月。

 彼はナミと共に、ひっそりと隠れて暮らし続けた。東乃市の南乃団地、その一角に。


 ナミとは、いろいろなことを話した。ナミの預け先に適切な場所である和国内のイリスウェヴ教会を探しながら、まるで本物の兄妹のように、18歳の彼は、5歳の彼女と仲睦まじく暮らした。


 血塗られた手を、彼女に差し出し続けながら。



 そんなナミとの3カ月の暮らしで知った和国の魔女のあれこれが、同じ魔力持ちとして、男にはとても面白く感じたのだろう。

 彼は男から、根掘り葉掘り、あれこれ話を強請ねだられた。


 ナミとの話は、そうはいっても話の引き出しがまず少なすぎた。自然、彼は、ナミから聞いた話をやや膨らませながら、あるいは殆どを空想で補って話すこともしばしばだった。



 彼が魔女狩りの混乱のさなか、己のそれまでの殺しを悔やみ、正気を手放しかけ狂気へと足を踏み入れかけた、そのとき。

 ただ一人の生存者として彼の前へと現れた、小さな、無垢な存在。


 魔力持ちの傭兵の男にとってのイリスウェヴ神が母であり恋人であり妻であるのならば。

 彼にとっての「風見ナミ」は、己の踏み外した道を是正する、正しき道を照らす、一筋の光だった。




――座標軸:現実うつつ、その参


 彼の意識が、現在へと、現実へと、戻って来る。

「雨が酷くなってきたなぁ。そんくらいにしとくか」

 今回の作戦チームのリーダーを引き継いだ社員が、彼に声を掛ける。

 因みに本来のリーダーは、今は別の遺体袋の中に収まっている。


 気がつくと、男の遺体袋と一緒に、社員の男が彼に一包みの荷物を示してきた。彼はそれに見覚えがあった。魔力持ちの男の私物を纏めた袋だ。

「悪いが、これの管理はお前に一任する。奴と一番仲が良かったのは、お前だからな」

 尤も、金目のものは既に抜かれているだろう。そう思いながら、彼は袋を受け取った。


 この日は、魔力持ちの男の分も含めて4つ分の穴を皆で掘った。穴が完成したのは、男の分が最後だった。

 袋詰めにされた魔力持ちの男のバラバラな亡骸が、敬意を持って、掘られたばかりの墓穴の底にそっと置かれた。

 かたちばかりの生花が仲間全員に渡されて、皆がそれを墓穴の中へと放った。彼も、放った。

 その間に、生き残っている仲間の中で唯一聖書を愛読書としていた男が、司祭代わりに聖書から該当の箇所を読み上げていた。

 キリスト教は、魔女弾圧に熱心だったな。そう、彼の内心で、渇いたことばが響く。同時に、この男はきっとイリスウェヴの神姉様の祈りのことばを欲していただろうに、とも。


 彼は、それらのことばを、ナミから学ぶことは叶わなかった。

 簡単な話だ。5歳のナミは、親たちから、周囲の大人から学ぶべきそれを、まだ教わる前だったのだ。

 

 不意に。彼の視界がぼやける。

 雨が更に強くなってくる。

 彼の頬が、濡れる。

 それは、雨なのか、彼のものなのか。彼は自分自身でも、わからなかった。




――座標軸:現実うつつ、その四


 数日前のことだ。男が目を輝かせて、彼にこう言った。

「なあ。極東の地に、まだ未来の希望に満ちた、小さな魔女がいる。素晴らしいじゃないか」

 彼を捉まえて、両肩をガッシリと掴んで、振り回さんばかりの勢いで、男は続ける。

「世の中は、こんな血みどろの、火薬まじりの臭いばかりの地じゃない。なあ、そうなんだろう?」

 その日の「現場」は、これまで以上に酷かった。彼も男も、五体満足で生還することはできたものの、その代償は厳しいものがあった。子どもの自爆テロ犯を、射殺した。爆発自体は小規模で抑えられたものの、無辜の市民を中心とした巻き添えが多数発生した。生存者は少なく、重傷者は多く、それも女子供の比率が高い。救急医療もままならない貧困地でのことだ。チームの皆が大層荒んでいた。

 そしてどうやら。その子どもは、魔力持ちだったようだ。少なくとも、男はそう見做して、己が射殺した子どものことを思いひどく落ち込んでいた。確かに彼から見ても、子どもは幾つかの、魔女、魔力持ちにありがちな特徴をたっぷりと兼ね備えていた。男を慰めようにも、男の見立てを否定しようにも、難しいものがあった。

 普段ならば、こうした場合に先に塞ぎ込むのは彼の方だというのに。この日は珍しく、男の気落ちが酷かった。

 酒のあまり飲めない彼も酒飲みの男につき合って、その日は随分と深酒をした。

 その最中のことだ。

「お前さんには、まだ妹がいる」

 いるじゃないか、と。男は、今日の辛さを振り払うかのように、彼が置いてきてしまった「妹」へ、未来の希望を見出す。

「でも」

 普段の彼なら、思ってはいても殆ど口にしないことば。それを、この日は止めることが難しかった。

「会わせる顔が無いんだ」

 ワタシは、もう、ナミに会う資格が無いんだ。そう、ポツリと弱音を吐いた。

 男はそれを、この傭兵稼業によるものだと思ってくれたらしい。少しばかり同情の目を寄せて。それから、少しばかり時間を置いて、静かな声でこう言った。

「それでも世界は素晴らしい」

 と。

「お前さんの妹が、この地球のどこかで、無事で、生きて、人を愛してくれているのならば」

 そう言いきって、男はグラスを一気にグッとあおると。

「ああ。こんなクソッタレな世の中でも。それでも世界は素晴らしい」

 希望に満ちた、若い魔女が、この地球上に生きているのだから。

 繰り返し、繰り返し、まるで歌うかのように、そう何度も口にした。

「だから、お前さんは生きなければいけない。生きて、彼女に会うんだ」

「だが、ワタシは……」

「おいおい、言い訳なんかしなさんな、って。彼女はお前の大事な妹なんだろう? お前も、私も、とにもかくにも未だ生きているんだ」

 真面目なことばなのに、どこか飄々とした表情になって、男が彼に更に言い募る。

「お前には会わなきゃならねぇ魔女がいる。この地球のどこかにな。だから、何があっても、それでも生きろ。生きるんだ」

 彼は、何も言い返せなかった。

「ああ。そんな彼女が生きているんだ。この世界はなんとも素晴らしいじゃねぇか」

 そうしてまた酔っ払いらしく、同じことばを繰り返す。


 それが、彼が男とまともに話をした最後の晩となった。




――座標軸:現実うつつ、その五


 シャベルの土を落として、全てを片付け終える。作戦チームの皆が三々五々、散って行く。

 彼は、社員の男から預かった死んだ男の私物を手に、借りていた部屋へと戻った。脚が、やけに重たかった。

 扉を閉めて、ベッドに腰掛ける。体中から力が抜けていく。魔力持ちの男の残した荷物を確認しなければと思うが、彼は身体が全く動かなかった。


 また、先程のように、空想に逃げようか。

 ……もしも、ワタシがナミの家族を手にかけてさえいなければ、という、欺瞞と甘い願望に満ち満ちた、夢を。

 大体、「風見レイジ」など存在しない。和国で唯一、仕方なく彼の身許を引き受けた神矢タカフミ師が、彼に和名通称として「神矢レイジ」の通り名を与えはした。だが、ナミ以外の生存者のいない風見の家から名前を貰うことは、彼には叶わない夢だ。

 その叶わない夢に、逃げ込みたい。

 その誘惑が彼に甘やかな声を掛けるが、現実うつつへと戻ったときの苦しみを思うとそれもまた辛い。彼は歯を食いしばって、その誘惑を退ける。


 そうしてどのくらい部屋の中でぼんやりとしていたことだろう。彼が気づくと、部屋の中は暗かった。夜が訪れたのだろう。

 食欲は全く無かった。寒さを感じはしたが、それが気候のせいなのか彼自身の心的なものなのか他の要因なのか、彼には判断がつかなかった。

 とにかく身体に力が入らない。しかし彼は、確認をしなくては、と何度も何度も自分に声を掛けて、渋々ながらも体を起こし、漸く灯りをつけた。

 袋の結び目を解く。憂鬱な気持ちで、中からものを取り出して、黴臭い自分のベッドの上にそれらを並べていく。

 彼の知らない言語の幾つかの書籍、辞書。それから、幾つかの写真。恐らくは、男の死んでしまった魔女仲間、親族の写真だろう。あとは私服が何着か。大したものは無い。金目のものも無い。

 そして、ノート。ノートは5冊あった。3冊までは、彼の知らない言語で綴られていた。日記だろうか。彼にはその意味は理解できなかったが、単語の羅列が中心で、日記と言うよりも行動記録のように淡々とした記載が続いているようだ。その内の幾つかは地名らしい。彼が参加した軍事作戦と日時が一致する、それらしい地名のような綴りも読み取れた。買い物の記録らしい数字も読み取れる。

 だが、これらの日記、遺品を渡せる友人知人の伝手があるのかどうか。彼は散々3冊のノートを点検したが、まるで見当がつかない。

 残りの2冊のノートに手を伸ばす。1冊は見た目も真新しく、殆ど書き記されていることは無い。冒頭の2,3ページに、それまでの日記もしくは行動記録帳の、その派生のようなメモ書きが綴られている。男の母語が中心で、時折、英語。後半と言わず、大部分は白紙だった。

 最後の1冊を、期待もせずにゆっくりと開く。

 それだけが、9割がた英語で綴られていた。彼も、辛うじて読める。

 やはり、大したことはやはり綴られていない。日常のメモといった類のことばかりが記載されているだけだ。

 と。


 小さな音が響いて、紙片が落ちた。

 手紙だった。


 封はされていなかった。

 宛名は、彼の名前だった。



――座標軸:現実うつつ、その先


 中身の綴りは、簡素だった。


「それでも生きろ。

 やはり世界は素晴らしい」


 簡単な、小さなカードにでも収まりそうな短文が、大ぶりの便せんに書かれていた。意外と丁寧な、人に読んで貰おうと意識している文字だった。読むのもやっとの他のメモ書きとはまるで違う。

 彼の肩から力が抜ける。確認すべきものの最後がこれか。彼は力なく笑った。一人きりの部屋で、力の無い彼の声がカラカラと響く。

 やがてゆっくりと、男の文字が書かれた便箋を改めて封筒へと戻す。力無く、ベッドにそれもまた並べて置いた。

 手紙の挟まっていた最後のノートを、彼は改めて取り上げる。他に何か挟まれていないかと振ってみるが、彼の予想通りやはり何も落ちてこなかった。

 感慨も無く、彼はノートを閉じようとして、それがするりと手から落ちていくのを、何もせずに目に留めていた。自覚が無かったが、手が寒さにかじかんでいたようだ。

 パタン、という小さな音と共に、ノートは床に落ちた。しかし広がったノートの頁が、彼の目に留まる。


 ――……へ。もしもこれを見る機会があるとすれば、お前さんだと思う――


 そう、彼宛の文字が、英文で書かれていた。

 彼は弾かれたようにそのページを手に取ると、丁寧に紙を繰り始める。

 よく読むと、それは先程の封書に何を書き込むべきか、その下書きのような様相を帯びていた。何度も文字が書かれ、それが線を引いて消されている。幾つも、幾つも。

 そして。


 ――最後に。きっとこの手紙を読むことがあるのだとしたら、その瞬間にお前は生きていて、私はもうこの世の中にいない、ということになる。だから。もしも私が死んでも。お前は、お前さんだけは、どうか生き延びてくれ。生きて、小さな魔女のもとへ、駆けつけてやってくれ。そして、――


 文字は、そこで途切れていた。

 この、最後に綴られたらしい下書きの一番新しいと思しき部分も、やはり、一本の横線が引かれ、消されようとしていた。


 音を立てて、彼は男のノートを閉じる。

 彼はそれから丁寧に男の遺品をまとめ、小さくパッキングを完了させた。次いで、自分の荷物も簡単に整理し始める。それも、そこまで多いものではない。呆気なく、短い時間で彼の荷物もまとまった。

 忘れものは無いか、部屋の中を見回す。大丈夫。何も無い。確認ついでに、彼は小さく頷く。

 照明を落とすと、部屋は真っ暗になった。そして彼は外に出る。

 階段を下りると、その階段の下で、先程司祭代わりに聖書を唱えていた男が一人、うつらうつらと椅子で舟を漕いでいた。

「おい」

 彼は男を無理やり起こす。

「なんだ、どうした。出掛けるのか」

「いや、契約を解除したい」

「えー……今、チーフは行っちまってるんだけどなあ」

「今すぐ、ワタシは行かなければならない」

「ああ、そうかい」

 じゃあ、除隊ってことで。会社には連絡しておくから。男が簡単な書類を書き込みながら、彼に本社の連絡先に連絡を入れるよう、念を押す。

 先のミーティングで、作戦がペンディングになったこと、そればかりか現状で終了の可能性があることもアナウンスされていた。その為なのか、彼が引き止められることは無かった。

 20分にも満たない事務手続きを簡素に終える。現場責任者であるチーフ……先程の葬儀を仕切っていた社員の男だ……に契約終了の手続きを進めるよう念を押して、彼は荷物を持ち、扉を開けて、外に出た。


 彼が思っていた以上に、遺品整理に時間を取っていたらしい。随分と時間が経過している。東の空がほんのりと、夜明け前の僅かな明るさに彩られ始めていた。日を跨いでいるとは思ってもいなかった彼は、数時間程、時間を勘違いしていたことになる。なんというドジだろう。

 但しこれならば、夜明けの頃には最寄りの空港へのタクシーを拾えそうだ。早い便があれば、今日中のフライトも。そう時間を意識して、彼はこの数日で初めて、軽い空腹を覚える。

「それでも生きろ」

 彼は、男が彼に残してくれた英語で、それをはっきりと口にする。

「ああ、確かに」

 世界は素晴らしいのだから。


 親友が、背中を押してくれたのだ。ならば。

 ここで行くのが、筋というものだ。


 行っても、彼女に会える可能性は低い。ゼロにも等しいものだろう。

 それでも

「世界は、素晴らしい」

 何度も。何度も。男と同じように歌うように唱えながら、彼は、かの地をめざして歩き始めた。



(了)



(推奨BGM『アメーバ』藍坊主 2015年)

これにてこちらの話は終了です。

一応は『青波の魔女と名無しの使い魔』に繋がる話になっています。矛盾や後付設定も殆どありません。魔女と使い魔、の本編とほぼ一致するかと思います。


推奨BGM、まさかの今月発売の藍坊主のシングルのカップリング曲です。あまりの良曲さ加減にガッツポーズをした一曲で、最後は執筆時にヘヴィ―ローテーションしていました。

今回のシングル曲は、どれもコーラスワークが以前よりもぐっと良くなっていて満足度が高いのですが、この『アメーバ』は、歌詞全部が終わった後の、ラストのコーラスが特にいいなあ、と。

思わず、曲名を犬の名前に採用してしまいました。


とまあ、こんなところで。

また次のお話でお会いできれば嬉しいです。

お読み頂き、ありがとうございました。

お目通しいただいたすべての人が、無事に新しい年を迎え、また良きことが沢山訪れますように。

それでは、また。(只ノ)


(一部訂正;2016年1月)


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