中編
2話完結、の筈が、今回は中盤戦となりました。
一応終わりまでのラインは決まっていますが、長いので2分割ということで。
泣き続ける夢を見ていた、ような気がした。
恐ろしくなって、目を、覚ました。
手にしたシャベルが、やけに重たかった。
シャベルの柄にポツリと、雨粒が当たった。
……雨が、降り始めたようだ。
――座標軸:レイジ
空は晴れていたと思ったが、移動している内に随分と厚い雲に覆われてしまった。その事実に、彼はナミに気づかれないよう、小さくため息を吐く。
それでも雨音地方の南部、西乃市と東乃市では、今日は雨が降らないという予報らしい。少なくとも昼間の間は。そう、何度も天気予報を調べたらしいナミが、出がけの際に強く言いきっていたことを、彼はふと思い出す。
バス、電車、電車、バス。乗り物に随分と乗っていたような気がする。
地図だけで言えば、隣市である東乃市の海岸は、彼らの住む西乃市からそこまで遠いわけではない。ないのだが、しかし思いの外、時間がかかった。空模様が変わってしまったことに違和感を覚えるのもそのせいなのだろう。そう、彼は一人納得をする。
それと。彼はなぜか、乗り物の車中、睡魔を抑えることができなかった。気がつくと、意識を手放しては、ナミに「乗り過ごすな、乗り換えを間違えるな」と揺り起こされる始末だ。起きて車窓を眺めていればさして違和感も抱かなかっただろう空模様も、途切れとぎれに確認しているとその変化が大きく感じるものらしい。彼が朝の陽射しを思い出せない程、空はどんよりと曇ってしまっていた。
海沿いのバス停へと降り立ったのは、彼ら2人だけだった。一応は土曜日、休みの日ではある。彼ら以外の観光客がいてもおかしくはない筈だが、秋の海というものはそこまで人を呼ぶ場所ではないらしい。バスの車中もそうだったが、バス停もまた2人だけでひっそりとしたものだ。
「試合、始まっているかな」
バスを降りて現在時刻を確認したナミが気にしているのは、ヒカリがマネージャーとして参加している中学剣道部の試合のことだった。聞くと、仲良しの同級の女子が部長を務めているのだという。その応援に行けなかったことをナミは大層悔しがっていた。
「でも今日は流石に剣道部だけ、身内だけで、って念押されちゃったからなー」
カヤちゃんもサエちゃんも応援行きたがってたのに。不満気に、彼女は呟き続ける。
その固有名詞のどれもがナミの友人らしい。だが、彼にはその顔触れがさっぱり思い浮かばない。ナミの口ぶりからすると、風見の家にもよく遊びに来ていて彼も知っていて当然、といった調子だったのだが。
「まあ、受験前だからね。むしろ3年生なのに参加するサキや悟朗の方が神経太過ぎかも、だけど。今日だって塾の特別講習とか行ってる子、多いし」
「それだけ剣道を大事に思っているのだろう、ナミ」
「ま、そうだけどね。それに、わたしだってこうやって兄ちゃんと遊びに出ていて、受験勉強なんてしてないし」
「勉強、しなくて良かったのか?」
そう彼は言うが、実際に電車やバスの中で彼女は娯楽用の本ではなく受験対策と思しき問題集を開き、意外と真剣に読み込んでいたことは事実だ。
「うーん、先週の模試の結果も良かったし、昨日までで今週分のノルマは大体達成したから」
あとはこれ。そう続けて、彼女は1冊の問題集と単語帳を見せる。単語帳は英語だった。
「だから、今日は受験追い込み前の最後の羽伸ばし、ってことで」
伸びやかな笑みを浮かべて、ナミは2つの勉強道具を鞄に仕舞い込む。
そうしてバス停からすぐの海岸へと、2人はてくてく歩き出した。
音が先だったか、匂いが先だったか。気がつくと、海の気配が濃厚に五感に伝わって来る。近い。とても。そう彼が意識していると、右隣を歩くナミもまた頷いていた。
「兄ちゃん、潮の香りがするね」
うんうん。彼が同意を返すよりも、むしろ自身の感覚に納得するような声を漏らしてから、ナミは前を目指す。海に近づきたい、視界に入れたい、と焦るのか、彼女の足が少しばかり早まった。彼も歩幅を大きくして、彼女に合わせる。
「あ」
その声は、彼の物か、彼女のものか。
先に、水平線が見えてきた。
そして、遠浅の、海岸。
大きくなる波の音。
……海だ。
潮風が意外と冷たい。ナミは大丈夫だろうか。そう思い彼は右を見るが、彼女は寒そうな様子は見せていない。彼がよく判らないなりに着込んでいるのかもしれない。女性の衣類に明るくない彼にはまるで見当がつかなかったが。
しかし風は強く、彼女の長い髪を乱暴に攫う。それが少し面倒だとばかりに、彼女は自身の髪を手でまとめるようにして、髪を潮風から守ろうとしていた。
2人は更に歩調を速めて、ズンズンズンと砂浜へ、波の近くへ、海の縁へと向かう。
ふと。彼の左手、東側のかなりの遠くに、船が係留されているのが視界に入る。小さな波止場のようなものでもあるのだろうか。そう彼が小さく疑問を抱いていると。
「うわー。懐かしいな、あれ」
彼が波止場を目に留めるのとほぼ同時に、彼女もまたそこを目にしていた。
「遊覧船、まだあったんだ」
そうだな、と彼は渇いた声を返す。弾むような彼女の声とは随分とかけ離れた音で、その声は響いた。
……ナミの言う「懐かしい」の頭数に、彼は含まれていない。
ナミが「東乃市の海岸でのお散歩」を話題にするときは、いつも、決まって、彼女が5歳のときの話になる。
だから彼女の言う「懐かしい」とは、そのときの思い出と比較してのこととなる。
まだ、彼女と彼が出会う、少し前の季節のことだ。
彼女が5歳、ヒカリが4歳の、春の話だ。
彼女は、このときの話をするのがいつでも本当に大好きだった。
「あとで乗ろうよ、兄ちゃん」
海岸でお弁当を食べてから。そう言って、彼女は青い瞳を輝かせて、小さな遊覧船を見遣る。
「弁当の後だなんて、船酔いしないか?」
「大丈夫だよ」
ナミは、乗り物に強い方なのだろう。彼にははっきりと判らなかったが、電車やバスも揚々と乗り込んで行っていた彼女のことだ。そういうものなのだろうと彼は小さく思い直して、「そうか」とだけ返す。
そうして海を目前にして、彼女は自身の鞄へと手を入れて何かを探している。
「兄ちゃん、はい」
彼女が取り出したのは、菓子の入った袋のようだった。行きがけに買った記憶は無いから、多分昨日までに彼女が買っておいたものだろう。彼はそう判断をつける。
はい、と。そう言って彼女が掌に差し出していたのは、一粒の小さな飴だった。
よく見る、菓子だ。
軍行時に配給されるものと同じものだ。
見た目も素っ気なく、栄養補給優先とばかりに味も甘さ重視で、他の取り得が無い。
……何を見ていた?
彼は慌てて頭を振ると、その、どこかとても馴染み深い飴をナミから受け取って、包装紙を毟るように取り去り即座に口に入れた。
彼女に、菓子をどうしたのか、いつ購入したのかを訊こうとした彼は、しかし別の何かに気を取られた彼女に小さく手を引かれて、その話を口から出しそびれる。
「兄ちゃん! 何あれ? カッコいい!!」
ナミの指先に引かれて遠浅の海岸線へと彼が目を向けると、マリンスポーツに勤しむ若者たちが波間を漂っているのが映る。サーフィン、ウィンドサーフィン、ボディボード。そういった見目の良い、しかしなかなかにハードなスポーツの一群。但し、彼にマリンスポーツの経験は無い。名前こそ浮かぶが、その区別はつかない。
とても小さな小型ヨットらしきものも見えるが、あれは遊覧船の波止場の更に東の向こうにあったマリーナ辺りからこちら側へと回ってきたものだろう。
「カッコいい! けど……寒くないのかな」
ポツリ、と彼女が声を漏らした。
確かに。今日は妙に寒さを強く感じる。潮風もあるからだろう。
そう声を漏らしたナミも、先程よりも寒そうに見えた。彼にとってはこの位の寒さは大したことのない、無視のできる範疇ではある。たが、成長期の少女にはあまり良いことでは無いだろう。それだけは彼にも見当がついた。
すぐ、彼の目に、飲料の自動販売機が映る。砂浜へと続く道と、コースは一緒だ。彼はナミより半歩ばかり先行してその自販機の前で足を止める。コインを入れ、ボタンを無造作に押す。
ゴトン、ゴトン、ゴトン。音を立て、商品が落ちてくる。
特に、ナミの好みは聞かなかった。ホットココア。迷いもせず、彼女にそれを選んだ。
「ほら、ナミ」
そう言って、彼は渡す。彼女もまた、それを厭わない。
慣れたものだ。
そういえば。逃亡中は本当によく、自販機で飲みものを買ったものだ。
ナミは大抵ココアを選んだし、自分は眠気覚ましのコーヒーを選ぶことが多かった。
特に隠れ家となった……に辿り着くまでは、自販機にはよくお世話になった。
……逃亡? 隠れ家?
「兄ちゃん、どうしたの? またボーっとしちゃって」
そう声は掛けたものの、2人共足は動かしており、前へと進んではいた。
彼が彼女へと笑顔を向け軽く頭を振るだけで、彼女は彼が大丈夫なことに納得したようだ。
既に、2人は砂浜の上を歩いていた。足の下が柔らかい感触へと変化していた。 その足裏の感触は、案外心地が良い。そう感じつつ、彼は足を踏みしめる。
そんな歩みの中、彼女はココアを飲んで、一人満足気に頷いている。
「美味しいか?」
「うん、美味しいよ。甘くて。兄ちゃんは?」
飲まないの、と彼女は目線だけで問う。彼は買ったコーヒーの缶を、ずっとそのまま手にしていただけだった。
「暖をとっているの? 寒い?」
彼女が、少しばかり心配そうな顔になっている。
「でも、手袋には流石に早いでしょ。持ってきていないよ、兄ちゃん」
「いや、飴が……」
飴がまだ口の中にあるから。そう言って、彼は彼女の心配そうな面持ちを何とか変えようとする。思惑通り、彼女の唇のラインはすぐに元に戻り、元気で溌剌とした表情となる。そうして彼女は、また目線を海の若者たちへと向ける。
「でも、凄いねー、サーフィンの人たち」
「ナミも高校生になったら、やってみるか?」
「別に」
やっぱりわたしは武道者だもの。そう、彼女は言う。
「兄ちゃんもそうでしょ」
「ああ」
彼も彼女も、隣の武道家、神矢の家に師事して、和国の伝統武道を長く学んできている。
……長く? ナミ、が?
ああ。長く、だ。
それは神矢のお師匠様も“言っていた”ことだ。
魔力無しの彼と魔女のナミとの、数少ない共通点の一つだ。
「あ、でも。大学生くらいになったら、やってみてもいいかも。マリンスポーツ」
サキと一緒でもいいな。
そう、親しい友人の名前もつけ加えながら、ナミは沖に出るサーファーたちを楽しそうに眺め続けていた。
と、そのとき。
「あ!」
小さく叫んだ彼女の目線の先には、海岸を散歩している犬とその飼い主がいた。
飼い主は初老の男性で、犬は小型犬だった。テリア系だろうか。彼には、詳しいことは判らない。彼は、犬にはそれ程詳しくはなかった。
実は先に犬と飼い主の散歩に気づいていたのは彼の方だった。だが、彼は特に興味を覚えず、風景の一つとして流し見をしただけで意識にそれを留め置くことは無かった。
後から気づいたナミはしかし、たちまち、彼のことなど忘れ去ったかのように犬の方へと駆け出して行った。
彼は慌てることなく、のんびりとその後を大股で追う。結構な距離だが、ナミも武道の稽古に通うだけの体力があるからだろう。早くに犬へと駆け寄って、飼い主の男性へと何やら話しかけている。
魔力持ちであれば、聴覚に魔力を乗せてその会話を盗み聞きできたかもしれないが、生憎彼は魔力無しだ。そんな芸当が出来るわけもない。だが、ナミの背中が、犬を撫でる手が、実に優しい。彼女がそうならば、この場は何らの心配も無い。
「……でも老け顔でしょう」
そう言ってナミに微笑みを返したのは、飼い主の方だった。老け顔、と聞いて、自分の容姿かと一瞬彼は戸惑った……何せ母国にいた子どもの頃からもよく言われていたうえ、和国に移り住んだ今でも結構その自覚があったのだから……が、どうやら該当していたのはナミに腹を見せてゴロンゴロンと甘える犬の方だった。
「こんにちは」
彼が声を掛けたのは、飼い主の初老の男性だった。しかし、
「兄ちゃん、犬! わんちゃんね、こんなに小さくてカワイイのに、オトナのわんこなんだって」
やや興奮気味に、目をくりくりとさせ、ナミが会話に割って入る。
「お兄さんですか、こんにちは」
「はい。犬とは毎日散歩しているんですか」
「ええ」
「おうちは東乃市の南乃団地の近くなんだって!」
なぜか。彼は、その「地名」に、動揺した……ナミの告げた、その地名に。
いや。知っていて当たり前の話だ。隣の東乃市の地名で、西乃市からも適度に近い距離にある。地元の、よく聞く地名の一つだ。この海岸からも、流石に徒歩圏ではないものの近い距離である。
その名に、何を恐れることがある……
いや。ワタシたちが隠れたのは、南乃……団地、……の……
「……なんですよ、南乃団地での散歩よりも、海岸の方が犬も喜びますからね……」
飼い主の男性はずっと親し気に犬の話をしてくる。ナミがここまであけっぴろげに犬を褒めていることもあり、飼い主としては気分が良い面もあるからだろう。
そうして結構話し込んでしまったようだ。飼い主が、暇を告げる。ナミが名残惜しそうに犬を撫でているが、犬は行儀よく、少し自慢気にそれを受け入れている。仕草がおとなしいのは、やはり飼い主の躾がいいのだろう。
そうして。2人は、元気に去る犬とその飼い主を見送った。
「あー可愛かった!」
「そうだな」
「温かくて、目がクリクリッとしてて」
「ナミ、あっちにも犬がいるぞ」
俯瞰しながら地形を見る習慣は、身についていた。彼はすぐさま別の犬の散歩を見つけて、ナミに話題を提供してみる。
今度の犬は、この和国でよく見るタイプの柴犬、若しくはそれに似た雑種のようだと、彼の目には映る。純血種か雑種かといった見分けがつく程、彼は犬には興味は無い。だが、流石にこの国では一番見掛けると言っても過言ではないデザインの犬である。
軍用犬にはならないがな。
なぜか。彼は、そんな感想を思い浮かべていた。
ナミは次なる犬にも過大な関心を寄せて、また飼い主……今度は若いカップルだ……に話しかけている。こちらの飼い主たちも、犬を褒められて悪い気はしないからだろう。先程の初老の男性よりも更に自慢気に犬を見せつけている。
「この子の名前はアメーバ君だって!」
まるで自分の犬であるかのように、彼女はその柴犬っぽい雑種の、もとい雑種のような柴犬かもしれない犬の、やや変わった名前を彼に伝えてくる。しかし先程聞いた筈の、先の小型犬の名前を、彼はもう思い出すことができなかった。
……なんだろう。なんでこんなにイロイロなモノゴトが、思い出せないのだろう。
すぐに、忘れるのだろう……
気がつくと、ナミは2人の飼い主たちに根掘り葉掘り、いろいろと犬のことを訊いている。彼よりも若い、むしろナミの年齢の方に近いかもしれないそのカップルは、女子中学生の他愛もないあれこれの質問に、意外と的確にアドバイスを返している。
「犬を飼うには責任が必要なのね」
うんうん、そう言ってナミは2人の飼い主に大きく頷きを返す。
カップルは、この犬を飼い始める前に獣医師が主催している犬のしつけ教室というものへと通って、事前に心構えを得たのだという。犬を迎えてからも、時折しつけ教室とやらに通っているらしい。そこでの交流も楽しいのだと、犬を好きにナミに撫でさせながら、カップルは犬のいる生活の楽しさを語っていた。聞き手のナミは、好奇心に目を輝かせながら、「犬のしつけ教室とは何か」「しつけとはどんなことをするのか」はては「ドッグスポーツにはどんなものがあるのか」等々、どんどんと話を広げていく。
彼は随分と長いことぼんやりとしていたようだ。3人と犬が楽し気に話込んでいたようだが、やがて「バイバイ」とナミが犬へと手を振った。若いカップルは彼と彼女に微笑みを返して、犬を連れて歩き去って行った。
「兄ちゃん」
「どうした、ナミ」
「犬っていいね」
「おいおい、今度は犬かい」
猫が良い。そう、彼女はよく話をしていたと思ったのだが。お母さまにお願いしようかしら、などと言いながら。
「でも、犬は使い魔としては微妙に使い勝手が悪いかもね」
やっぱり猫かしら。そう、彼女は何ら含むものも無く、声を漏らす。
使い魔。
魔女、魔力持ちの習慣では、小動物や無機物を使い魔として使う、ということもよくあることらしい。
だがそれは、彼のあまりよく知らない魔女ならではの習慣の話でしかない。
大体、今の風見の家で動物は飼育していない。血の繋がった家族4人、そして養子として、魔力を持たない彼が一人。それだけだ。
はて。しかしどうして、そういった「魔女の家」のごく当たり前の習慣を、彼はあまりにも知らないままでいるのだろう。
魔力無しとはいえ、魔女の家に養子として取られたというのに。
――座標軸:レイジ
「お腹空いたでしょ、兄ちゃん」
そう、ナミが言った。
11時台ではあるものの、なんとも妹の言う通りである。そんなわけで彼は今、弁当を広げ始めている。
その前に、ナミはまた延々と海岸線で波と追いかけっこをしていた。この寒さ故に、流石に水に浸かることはしなかった。それでも海を堪能しなくっちゃ、と。そう言って、彼女は波打ち際で波と勝負をかけて散々走り回っていた。
その後、少しだけ海岸を歩き回り、2人は貝殻を探して回った。しかしナミも彼も、なかなか土産となるような適当な貝殻は見つけられなかった。砂浜としては上質でサラサラ、ごみの類も少ない海浜だったが、同時に貝殻には恵まれていない砂丘でもあった。
そうして随分と歩き回り、彼女も適度に疲れていたのだろう。今は砂浜に敷物を敷いて、四隅を石で押さえると、ナミはひょいっと軽くその上に乗って小さく収まっている。
こうして見ていると、どこか幼い。まるで5歳のときの彼女のようだ。どこが特にどうというわけではないのだが、彼はそう思った。
すぐに2人は弁当を広げ終える。蓋を開けたのは、ナミだ。
「こっちは玉子焼きと、おかず」
何食べる、兄ちゃん? そう言って、彼女は彼に箸を渡す。そしてすぐに次の弁当箱の蓋もパカリ、と開いた。
「わ、ヒカリちゃん、ナイス!」
何が「ナイス」なのか彼が解らないでいると、どうやらおにぎりの具材が見易いということらしい。おにぎりの三角形、その頂上に具材が見えるが、下の部分はきちんと海苔が巻かれている。そのことのようだ。
「お母さまだとそういう細かいところ、よく忘れるから。ヒカリちゃんは、そういうドジは踏まない子だけど」
ホント、お母さまってドジっ子よ。実の母を彼女はそう形容して、コロコロと笑った。
「まあ、お母さまは帳尻はキチンと合わせて、最後の取りこぼしはしない人だけれども。やるときはやる、決めるときは決める、って女よね」
でも抜けていることも多いから。温かい声で、彼女は母を貶すようにみえて、褒め続ける。
「握ったのはお母さまかしら」
彼の目には、明らかに2種類の形があるように思えた。そこで彼は、思い切って、憶測ながらも言い切ってみせた。
「いや、こちらの形の微妙なものはヒカリだろう」
「そうかな」
「そうさ」
そう言って、形の整った方の列にあるおにぎりを、彼は一つつまみ出す。恐らくはヒカリではなく、母の握った分の。
「ところでナミ」
「なあに、兄ちゃん」
「ナミは弁当作りに参加しなかったのかい?」
そうだろうとあたりをつけて、彼がやや意地悪な表情で彼女を見遣りながら問い掛ける。
「そうよ。悪い?」
少しばかりばつの悪そうな表情を浮かべて、彼女が静かに、しかし開き直った返事を返す。
「いや、別に。では、母さんとヒカリに、帰ったらちゃんとお礼を言わなきゃな」
「うん」
いただきます。2人で唱和し、昼のごはんを食べ始めた。
「こっちは昆布。こっちはおかか」
「これは梅干しか」
「うん、そうだね」
そしてやはり、玉子焼き。これが欠かせないのだと、ナミはややオーバーな程に言い募る。
「ほら、冷めても美味しいでしょ。どうしてお母さま、ここまでふんわりと柔らかい状態を保って焼けるのかしら」
同じレシピでチャレンジしてるのに。どこか不満気な声で、ナミが零す。彼女も何度か挑戦して、けれども失敗しているのだろう。
彼女がそう言う母手作りの玉子焼きはやはりフワフワで、冷たいものの味がしっかりとしており、朝に食べた焼きたてのものとはまた違う美味しさがあった。
「あのお散歩のときも、そうだったわー」
ナミの言う「お散歩」は、彼女が5歳のときにこの東乃海岸へと遊びに来た、その固有名詞となっている。
なんでも、中野町の魔女コミュニティの老若男女、30人近くで行ったピクニックだったらしい。コミュニティで最年長となる長老の魔女から、最年少たる当時4歳のヒカリまで、大所帯での行楽だったという。
「大婆さまってね、本当に小食なのよ。でも、お母さまが焼いた玉子焼きを差し上げたらね、それはそれはもう大喜びなさってねー」
うんうん、頷いて、彼女もまた玉子焼きを頬張る。
「ほら、大婆さまは、そりゃあ魔力は物凄いものがあるけれども、お料理は全然なさらない方じゃない。お年をめしてらっしゃるから。だから、お母さまもみんなも張り切ってお弁当を拵えたわ、あの日は。でも、叔父さんが……」
ナミの話は、途切れとぎれ、どこか纏まりを欠いて話がなされる。
「大婆さまのあのお菓子、美味しかったわよね。あれ一体どこで買っていらしたのかしら。不思議よねー」
彼が、何度も聞いた話だった。
「ヒカリちゃんが落っことしちゃってね、泣きべそになったのを、普段はクールな姉魔女さまがね、サッとご自身の分のお菓子をくださったのよ」
あのお姉さまがみんなと一緒に行楽に行くだなんて、今から考えると物凄く珍しいことだったわよね。あり得ないくらい。いつも、一匹狼っていうか。うん、うん……
ナミの話は続く。どこかそれは、独り言に近いような響きがあった。
姉魔女、叔母、母、大婆様。魔女文化圏にあるナミの話は、男性への言い方と女性への言い方では明らかに差がある。女性への贔屓が著しい。ナミの呼ぶ「お母さま」と「父さん」のような落差が、その代表だ。
元より女系で魔女文化を受け継いでいくのが彼らの文化であり習慣だ。その根底には、魔力の強弱の関係があるという。基本的に、女性の方が強い魔力を有している、と言われている。当事者ではない彼には、実感の湧かない話ではあったが。とはいえ、和国に限らず、世界的に、魔女、魔力持ちは男系よりも女系が尊重される文化を保持しているのが標準だ。
彼はキチンと確認したことがなかったが、風見姓も、恐らくは母方からの引継ぎではないのだろうか。そう思うこともしばしばだ。勿論、母と父は対等かつ相互に敬意を持った、良い関係を保つ、仲睦まじい夫婦なのだが。しかし根本では、魔女の文化圏は、女系贔屓の面が否めない。
そうやって歴史的な背景を意識したが、彼はすぐに空腹に意識を向ける。そうして空腹な彼は、話は聞く一方で、一所懸命食べものを頬張ることに集中する。一方、彼女は食事もだが、おしゃべりもまた楽しいのだとばかりに、朗らかに、過去の楽しい思い出をつらつらと語る。
「でもあれ、なんだったのかなー」
彼が不思議そうな貌を向けたからだろう。彼女はすぐさま、
「ほら、喧嘩の原因」
と、当時のもう一つのエピソードを掘り下げていく。
「だってあそこのご夫婦、普段は本当に仲良しなのよ。そりゃ、奥様は魔女としては割と気難しいタイプだとは思うけど。奥様の方が怒って先に帰ろうとしちゃうのを押しとどめて、皆で慌てて2人をとりなして……」
箸を持ち、ウンウン、と彼女はまたも一人納得して頷く。
「まあ、子どものわたしには解らない内容だったのかもね、きっと」
ごちそうさま、と彼らは手を合わせる。持参した弁当は米粒一つ残さず食べ尽くし、卵も野菜も肉料理も全て2人の胃袋に収まった。
ポットから温かいお茶を注ぎ、彼は彼女へと飲みものを渡す。中身は和茶、緑茶だった。暫くは無言で、2人、茶を啜る。優しい香りが、温かく広がっていく。その温度が、ほんのりと、2人の心を満たしていく。
曇天の空を映したかのように海は鈍色で、寒そうなのは変わらない。午前中は大勢いたサーファーたちも、昼食の為か殆どが陸に上がっていた。太陽が無いからだろう、気温は大して上がっていない。だから、そういうこともあるのかもしれない。あるいは波の大きさだとかなんだとか、そういうものだろうか。彼にはよく判らなかったが、ともあれ今の海には、浜辺にも波間にも人はいない。海鳥がちらほらと浮き、あるいは飛んでいる程度だ。
2人は暫く、そんな灰色の海をぼんやりと眺める。
やがて、右に座るナミが、のんびりとした声を出す。
「お弁当、しっかり食べ切ったから、荷物、軽くなったね」
「ああ、丁度いいな」
「美味しかったー。良かったね、兄ちゃん」
「ああ」
彼女の声には、心からの満足が滲んでいる。その声の色に、彼もまた、満足感を覚える。
「どうだ。そろそろ遊覧船の所にでも行ってみるか」
「そうだね、兄ちゃん」
帰ったら、お母さまにお礼もう一度キチンと言わなくちゃ。ヒカリちゃんにも。そう、独り言のように続けて、彼女は手早く、テキパキと荷物を収納していく。妙に手際が良い。彼もその手の行為は割と得意だ。だから、あっという間に片付いて、彼らは再び砂浜をてくてくと歩き出す。
歩き出してすぐ、
「兄ちゃん、これ」
そう言って彼女は、今度はビスケットを差し出してきた。
「なんだ、お菓子か。もう腹はいっぱいだぞ」
「でも、今日はそんなにお菓子食べてないし」
「おいおい、あれだけ食べておいて、それか」
呆れた声で彼は言い返すが、彼女の手元を見て彼の表情が固まった。
ビスケットは、とてもよく見るタイプのものだった。
そう、行軍のときに、よく食べている、いつものものと、そっくり同じ。味があまり無くてパサパサで、けれども行軍中の行動食としてはぴったりの、カロリーだけはやたらと高い。ただ、香りも何もあったものじゃない……
「どうしたの? 兄ちゃん、食べないの?」
彼が手を伸ばしてこないからだろう。彼女は彼が満腹だと解して、さっさとそのビスケットを仕舞った。
それが収納された箱も、“配給”でよく見るデザインのものだった。
彼は、そこで初めて、背筋に冷たいものを感じた。
頭を振る。目を瞑り、頭を再度大きく横に振ると、彼はゆっくりと目を見開いた。
目の前、その遠くには、めざす波止場があった。そして右手には彼のミドルティーンの妹が、ちょこちょこと歩いて前へと進んでいる。
大丈夫。今のは、何かの記憶違いだ。きっと。
そう、彼は己に言い聞かせた。
――座標軸:レイジ
波止場までは思ったよりも距離があった。しかし時間的には適度に良い頃合いだったらしい。もうすぐ出発、といった時間に彼らは切符を買うことができた。
遊覧コースは2通りあった。30分の短いコースと、60分のやや長い周遊のコースだ。ナミは迷わず長い方の60分のコースを選び、彼は和国通貨で2人分の料金を支払った。
中学生のナミは既に大人料金の領域だ。しかし彼は、その事実にどこか違和感が拭い去れない。どうしても、「5歳のときのナミ」という感覚が、彼からは離れなかった。
小さなちいさな観光船に乗り込む。休日だというのにやはり人は少なく、席は余っていた。殆ど空席と言ってもいい。だが、彼女に座るという発想は無いようで、船内で一番視界が良く取れる場所はどこかと、小さな船の中を歩き回り、収まるべき位置を探していた。やがて彼女も納得したのか、船尾に近い広くて高い甲板に2人で落ち着く。ほぼ同時に船が録音アナウンスを流し、陸を離れ始めた。
長閑な音楽が流れ、女性の声の録音アナウンスがとても良い滑舌で東乃市の海の歴史についての案内を開始する。
東乃市は、この雨音地方の中心都市でもある。和国の中では一地方都市に過ぎないが、それでもこの近隣では最大の都市であり、工業地帯をも有し、また商業活動が活発だ。彼らの住む西乃市は、むしろその通勤の人びとのベッドタウン的な位置づけの小都市となる。
南乃海岸は、そんな東乃市の市街地中心部から、大分距離がある。この南乃海岸から、船は、東乃市の市街地へと海側から向かう。海上から回り込むようにして雨音地方きっての大都市を眺められる、というわけだ。
遠く西に目をやれば、西乃市の市街がある筈だ。だが、この日は眺めが悪いのか、海面にガスが出ているというわけでもないのに、彼がそちら方面を目に収めることは叶わなかった。
船の向きが変わる。ナミに促され、船尾から船首方面へと移動する。海側から陸側を眺めやすくなり、それを2人はまた面白がった。
「大婆さま以外のみんなで、船に乗ったわ」
唐突に、ナミがまた「東乃市の海へのお散歩」の思い出を語り出す。聞くと、そのときは30分の短いコースだったそうだ。
「ヒカリちゃんもきっとそうだけど、多分わたしが船に乗った、初めての記憶だと思うわ」
子どもも多かったから、結構目をやるのが大変だったと思うんだけど、などなど。ナミは深く、懐かしそうな声で、9年ほども前の話を、まるで今年の春のことのように語り続ける。
「でも、流石に姫魔女、彦魔女が海に落ちると拙いから、ある魔女はこっそりと船に呪いをかけていたらしいわ」
乗船の前に、大婆さまも護符の呪文をくださったし。そう続けて、彼女は屈託なく笑う。
姫魔女、彦魔女とは、和語における幼い子どもの魔女、魔力持ちの、彼ら独自の呼び名だ。魔力無しが子どもの魔女をそう呼ぶことは殆ど無い。
「だからわたし、ずっとずっと、この60分の長い方の遊覧コースに乗ってみたかったの」
「ここは家から近いのだから、その後、家族で来ればよかったんじゃないのか」
あるいは、友だちとでも。そう、彼が言いかけるのを、彼女が遮る。
「あれ」
そこで。彼女は、とても不思議そうな顔をして、彼を見上げてきた。
「まさに、今が『そのとき』じゃないの、兄ちゃん」
――座標軸:レイジ
まだ、足の下が波の上を漂っているかのようだ。地上に降り立ったというのに、彼は脚が未だに陸の調子に合わずにいた。
あの後は海上で、波の上下が、結構な大きさになったのだ。それは危険を伴う程の高低差ではないとのことで、船は変わらずに波をかき分けて進んでいたが、如何せん船は小さく、また潮の関係で時間が少しばかり長くかかった。結局60分よりも長いこと海上で波と空、陸地の様子を堪能することになり、それから漸く彼らは地上へと戻ってきた、というところだ。
彼も乗り物にはそこまで頓着は無い方だから、揺れが結構大きかったとはいえ船酔いにはならなかった。ナミは更に彼よりもそうした方面の耐性が強いのか、そのまま変わらぬ様子で地上へと降り立っていた。足取りが少々おぼつかない彼とは対照的だ。
「あーできれば30分コースも乗って、比べてみたかったなー……」
でも、流石にもう無理ね。そう、呟くように彼女の声が漏れる。
「それにこの図によると、コースが大分縮小されるだけで、風景は変わらないようだぞ、ナミ」
波止場の案内板を再度眺めながらそう言う彼は、揺れる感覚を平衡に持っていくのに必死だ。それにしても、海上で寒さがそこまで酷く感じられるようなことが無くて良かった。そう思いながら。
少し早いとは思ったが、彼らは海を離れることにする。
ナミが、この日は大先輩にあたる姉魔女さまが来るのだ、一緒に夕食を摂ることになるかもしれないからと、真剣な目で言うからだ。
来るときの移動時間を彼は思い起こし、帰宅までの時間を逆算する。確かに、今はまだ早い時間ではあるが、家に着くとしたらこのタイミングで離脱するのがいいだろう。そんな時間帯だった。慌てず落ち着いて、お天道さんが空を明るく照らしている間に家に戻れる。そんな時間だろうと、そう読んで。
時計を見て、そう連想した彼は、しかしそのお天道さんがまるで見える様子の無い空の鈍さと暗さを改めて思い起こし、もう一度頭上を見上げる。雨が降ることは無い、そうナミが言っていたが、本当だろうか。
とはいえ、これからバスに乗ってしまえば、あとは最後のバス停から家までの長い下り坂を歩く以外は、乗り物や屋根付きの環境にずっといることになる。天候の心配をするのは、実質その最後の短時間だけだ。
彼女を心配するあまり、大袈裟になりすぎているのだろう。そのことを自覚し、困ったものだと思いながら、彼は彼女に判らないように小さく笑いを零した。
そして。
歩きながら、彼は、未だに波の上を漂っているような、そんな揺れを感じていた。
バスに乗る。電車に乗る、そしてまた電車に乗る。更にバスに乗る。随分と乗り物を乗り継いでいる。電車を乗り継いだ頃、どうにも睡魔に抗うことは難しいようだ、と彼は意識する。
その意識すら、飲み込まれて、闇を見る。
そう。闇を。
闇の中で、彼はスコップを持っていた。
何とか力を振り絞り、重たいおもたいソレを、動かしていた。
……何の為に? それは……
彼がそれを問う彼自身に、それを答えようとするが、しかし、声が出ない。
彼は、その答えを持たなかった。
叫び出しそうになりながら、彼は目を覚ます。
自身の右肩に眠る彼女の体温を感じて、彼は胸を撫で下ろす。やはり眠ってしまっていたか。しかし叫ぶ前に目を覚ますことができて良かった……
車内の案内がすぐに、彼らの降車駅、西乃市の中央駅の名前を告げる。そろそろ、ナミを起こさなくては。彼が軽く揺さぶると、彼女はすぐに目を覚ました。
そうして2人は電車を降り、バスに乗る。
しかし今度は、彼が彼女から揺さぶられて目を覚ます番だった。彼が目を覚ましたのを確認し、彼女は少し微笑んで、降車ボタンを押した。彼ら……風見の家の最寄りのバス停だった。
――座標軸:レイジ
長い坂を、歩いて下る。バス道から家へと続く生活道は、南北の方向に走る細く長い坂道だった。南へと、彼らは下る。
道の先、南のその遠くに、西乃市の海が見える。ほんのり。ぼんやり。
その東側へと目を向けると、先程まで遊んでいた海岸線の方角の筈だ。だが、西乃市の中野町からは東乃市の海岸は流石に遠すぎる。彼が目を凝らすように見ても、そちら方面の眺めはよく判らない。
よく判らないのは、天候のせいもあるのだろう。彼らの真上の雲は低くて厚い曇天に覆われていて、遠くの見通しが悪い。先程までいた東の位置、東乃市方面の上空も、鉛色の雲が重そうにたっぷりと塗りこめられている。
ただ、真正面。真南に当たる、目の前の西乃市の海。その上だけは、雲が斑に薄くなり、薄日が射している。
「いわゆる、天使のはしご、というやつだな」
彼が思うともなしにぼんやりと呟くと、右側を歩くナミが、「え?」と小さく反応する。
「いや。ほら。空」
彼は、正面を指さした。雲はまだあるものの、その切れ間から、陽光だけが射している。夕方の、斜めの光が、右手西側から、弱くも射し込んできている。
「ああ、空ね」
綺麗だわ。そう、ナミが呟いた。どこか、うっとりと。けれどもどこか、今にも消えていく幻のような、実在感の欠けた声で。
「ここは眺めがいいから」
そう言って、彼は右を歩くナミを見遣る。
「そうだね、兄ちゃん。わたし、この坂道、好きよ」
「ワタシもだ」
再度、隣のナミを見る。彼女の視線は変わらない。どこか魅入られたように、正面の空を、海に掛かる光を、その青い瞳に収めていた。一所懸命に。
「真上の空は、こんなに曇天なのにな」
そう彼が言った、そのとき。
雨粒が、落ちてきた。
――座標軸:レイジ
頬に。
雨粒が、当たった。
家まではほんのすぐだった。走ればいい。大して濡れることもない。
そう思って、彼が右のナミを見ると、彼女は呪文を唱えていた。小さな声。彼には聞き取れない、小さなことば。
ああ、そうか。魔女、魔力持ちであれば「傘の呪文」があったのだな。
そう、彼は思い起こす。
たった5歳の頃から、ナミはそうやって魔力持ちならではの身体保護術を駆使してきた。ナミだけではない。他の魔力持ちも皆そうだ。
しかし、魔力無しである彼に、それは不可能なことだ。
そう割り切って、彼はあと数歩に近づいた家へと向かって走り出す。
「ナミ、先に行くぞ」
しかし彼女は声を返すことは無く、彼と一緒になって走り出した。
家までは、本当にすぐそこだ。風見の家の小さな門まで、数歩。彼らは走り抜ける。門をくぐり、扉の前へと辿りつくと、2人は小さくため息を吐いた。
早く扉を開けないといけない。そう思いながら、なぜか彼はそこから先の行為に踏み出せないでいた。自分だけだが少しばかり雨に濡れていて、着替えなければいけない、とも思うというのに。
よく考えてみると、彼はこの家の鍵を持っていなかった。
しかし、ナミにはそうした躊躇は無かった。念の為とばかりに呼び鈴を押してから、自身の鞄から躊躇無く鍵を取り出して家の扉を開けた。
やはり、風見家の他の皆は帰って来ていないのだろう。ナミの対応からそう思い、彼は扉の中、家の正面へと目を向けた。誰もいない筈だ。そう思いながら。
扉の内側、玄関の三和土には、人が一人、立っていた。
彼は、一瞬、ここは風見の……ナミの家ではない、と判断しそうになった。しかしここはどう考えても風見の家である。そして、後ろ姿だったその人が振り返る。
線の細い、すらりとした美麗な女性だった。
「あら、ナミ。おかえりなさい」
そう、女性が声を掛けるか否かの刹那。
「鈴姐さま!」
歓喜に満ちた声で、ナミが目の前の女性のその胸へと、飛び込んで行く。一方の、その女性の声は、平静だ。表情は菩薩のようで、ナミのことを優しく、包み込むように愛おし気な目で見守っている。しっとりとした腕で、飛び込んできたナミを受け止めていた。
見覚えのある、女性だった。
しかし。
彼はその姿に、不安を……大きな不安を喚起された。
女性は、とても長くて美しい髪を綺麗に結っていた。水晶のような瞳が紫色に輝き、目鼻立ちのはっきりとした、華のある、かなりの美人だ。風見家の母と遜色はない。それどころか、あの美しい人以上に、美貌だけは突出しているかもしれない。やや険のある美貌ではあったが。
しかし、確かに逢ったことがある筈の、ここまで印象的な美人を、まるで思い出せないものなのだろうか。
そう、彼が自分の記憶能力を訝しんでいると。
「あら、この人殺しが。一体何をほざきに来たってワケ?」
あまりにも冷たい声で、彼へと目線を向けながら言い放つ。
その冷たい、彼への侮蔑のことばを解放した途端、女の顔が般若の表情へと変わる。
そして。
「夢想」が「現実」へと。
寝返った。
ああ。それにしても、シャベルが重たい。
早く、これを手放さなくては。
(つづく)
今回で終わり、の筈が、推敲ごとにどんどんと頁が増えていき、結果的に2つに分けることにしました。
次回で完結、お終いの予定です。
夢と現がひっくり返りました。
さて、どちらが夢・幻で、どちらがリアルなのか。
その種明かしは次に、ということで。
一応は、明日または明後日投稿、年内に完結の予定で組んでいます。
お読みいただき、ありがとうございました。
ではまた次回に。(只ノ)