前編
泣きながら、目を、覚ました。
手にしたシャベルが、やけに重たかった。
――座標軸:レイジ
泣きながら、目を、覚ました。
「おはよう、兄ちゃん」
彼女の声が、彼の耳に優しく響く。
「あれ……兄ちゃん? 起きていないの?」
気がつくと、彼女……「ナミ」が彼のことを覗き込んでいた。
魘されて、大きな叫び声を上げていたと思ったが、それは彼の気のせいだったようだ。
ナミ……妹、の反応からしてもそうではないようだと、彼は自分を取り戻す。
同時に、彼は慌てて自分の状況を確認する。頭を振り、目を見開いて。濡れていたような気がして己の頬に手を当てるが、そこは平素と同じ。渇いたままだ。
そんな彼の身振りを、彼女は気にする様子も無い。屈託の無い声で、
「めずらしー。兄ちゃんが寝坊するだなんて」
そう言い放つと、いたずらっ子めいた微笑みを唇に浮かべる。瞳は、澄んだ青。その瞳の色でまっすぐ彼を見ながら、彼の布団の右脇に膝をつく。そして、
「まあ、今日は稽古も無いからいいけどね」
そう言って、ナミはその小さな手で無遠慮に彼の髪をぐりぐりと撫でつける。
「おはよう、兄ちゃん」
改めて、彼は隣のナミを見る。上半身を起こした彼の真横で、ナミは笑っていた。子どものような、素直な笑顔だった。
「おはよう、ナミ」
ああ、これは、ナミだ。
ワタシの、妹。
血は繋がっていない。
歳は、13歳程離れている。
今は、中学生。年を越した2月に15歳を迎える。そして確か、次の春には高校に進学するのだったか。
彼女との関係性を改めて頭の中で整理しながら、彼は普段と同じく起床直後の身体の確認を行っていく。ゆっくりと身体全体を伸ばして、首を回し、腕を、肩を、軽く叩く。
ふと右側を見ると、彼の年若い妹が、どこか眩し気に彼を見上げていた。
ナミは、もう14歳。あと半年足らずで15歳になるのだな……
彼は改めて、彼女の、自分の妹の年齢のことを頭の中で確認していた。彼の中ではなかなか馴染まない、それを。
その妙に現実感の無い自分の感覚を、彼は不思議に思う。
だがそれは、僅かな間、微量のもの。その違和感は無視できるものだと「理解」して、彼は「現実」へと目を向ける。
取り敢えずやるべきことは、目の前の不躾な妹をジロリと睨み返すことだ。
「兄ちゃんは着替える。さっさと出て行ってくれ、ナミ。兄ちゃんにも、羞恥心はあるんだ」
「はーい」
声だけは明るく、しかし静かな所作で、彼女は立ち上がる。そして踵を返すと、彼の部屋から出て行きかける。しかし扉を越えて、振り返るようにして顔だけひょっこりと彼へと向けた。ふわり、と彼女の長い髪が、綺麗に揺れる。
「兄ちゃん、早く来て。ヒカリちゃんはもう食べ始めないと間に合わないから、先に食べ始めてるよ」
わたしたちはまだ大丈夫だけれども。そう、何かの予定があるかのように言い置いて、彼女の足が遠ざかる。
部屋には、朝日が射し込んでいた。
秋の、陽の色だった。
――座標軸:レイジ
彼が軽く身支度を整えて食卓へ行くと、ナミを除く3人の家族は既に食卓に着いていた。
「おはよう、レイジ」
真っ先に声を掛けてくれたのは、父さんだ。
父さん。
但し、血は繋がっていない。
中肉中背、穏やかな表情の中年の男性。顎がガッシリとしていて、声は深い。明るい瞳の色を持つ。髭はやや濃いめ。そんな男の顔を見ながら、彼はその事実を内心、一人密かに確認する。
ああ、この人は、こんなに穏やかな瞳をしている人だったのか、と。その深い、藍を帯びた緑の瞳で。この世の中を見ていたのか。
そう、心のどこかで、彼が小さく呟いた。
だが。その小さな確認事項が、どこか不思議な……否、不吉な感覚を彼に呼び起こす。彼は慌ててその感覚に蓋をした。
その感情が周りの皆に伝わらないよう、自身の表情を変わらずに保ちながら。
「お兄ちゃん、おはよう」
次に声を掛けてきたのは、ナミによく似た少女だった。但し彼の目には、ナミよりも一回り小柄に映る。華奢で、どこか儚げだ。印象は、姉のナミとかなり違う。だがしかし、顔の造りはとてもよく似ている。小奇麗で、身贔屓ではなく第三者目線で言っても姉同様、結構な美少女だろう。長く艶やかな黒髪が美しいところも、姉と何ら変わらない。
そして青味を帯びた緑の綺麗な目の色は、「父さん」譲りだ。
父さんと同じ、綺麗な、きれいな「青緑の色」。
そう、とナミが言っていた……
「どうしたの、レイジ君。ボーっとしちゃって」
「ああ、おはよう、母さん」
反射的に、彼は声を返した。
母さん。
やはり、自分とは血が繋がっていない。
あれ、おかしいな。母さんは、確か……
彼は軽く頭を振って、自分の頭の中に浮かび上がりかけた不吉な連想を断ち切る。
彼が我に返ると、母が立ち上がっていた。台所から、味噌汁とご飯茶碗を2つずつ乗せた盆を持って、ナミが出てくる。それを受け取ろうとしていた。
そうやって上の娘からお盆を受け取りながら、母は子どものように無邪気に笑い、改めて彼に声を掛けてくれた。
「おはよう、レイジ君。朝からぼんやりとし過ぎよ。本当に顔、洗ったの? さ、早く座りなさい。冷めない内にごはんにしましょう」
母の声は、聞き覚えがある。と同時に、ナミとは随分と質が違う声質だとも思う。だが、その含むものの何も無い子どもめいた笑顔は、とてもナミに似ていた。
そして。
ああ、この人は、こんなに綺麗な瞳をしていたのか。
ナミの瞳と同じように、青くて、青くて、また深い、青の色。
そんな、どこか脈絡も無いことばが、彼の頭に浮かび上がった。
いつも見ている顔を見て、どうしてそんなことを思いつくのか。彼は、己の心の動きに、僅かな不安を感じる。
だが、その彼の思いは、顔には出ることは無い。
幼い頃からの習慣で、彼は表情を隠すのが得意な方だった。だから、家族は彼の違和感に気がつくことは無い。
一方、彼の上の妹はというと、またも屈託のない笑顔を彼に向けてくる。
「もう、兄ちゃん。いつまでもヌボーっと森の熊さんみたいに突っ立ってないでよ。ご、は、ん!」
そう、現実的な声。生意気で勝気な、上の妹。妹ではあるのだが、彼に対してはまるで姉のようにませた行動をとりたがる。10歳以上の年の差などどこ吹く風、といったところだ。
「ヒカリちゃんが学校に遅れちゃうでしょ」
肝心の「ヒカリ」……これは、下の妹の名前、の筈だ……は、どこか曖昧な笑顔を浮かべて彼を見ているだけで、食事の箸を止めることはない。挨拶以外の声も無く、静かに、上品に、食事を続けている。
出掛ける時間があるからだろう、父親も彼を待たずに食事をしている。父の持つ味噌汁の椀からは、かつおだしの良い匂いが漂ってきていた。
「レイジも早く食べなさい」
そう彼を呼ぶ父の声は、低く深く、どこか彼自身の声と似た響きを持って彼の耳に響いた。
一方の母は、軽やかな声で彼を促す。
「玉子焼き、冷めちゃうわよ」
母の明るい声に促されるまま、彼は席に着く。ナミも、すぐに右隣へと座った。
「そうそう、せっかくのお母さまの玉子なんだから」
無邪気な声で、ナミが母への賛美を盛り込んだ声を差し挟む。
その一言で、彼は、母の玉子焼きがどんなに美味しいかを即座に思い出した。
「兄ちゃんの分はあるよな」
無意識のうちに、彼は声を掛けてナミを牽制する。この母の焼いた玉子の分配は、大問題だ。公平に分けなければ、と。そんな兄妹2人の目の前で、母と父、下の妹が並んでニコニコと大きな笑顔で笑っていた。
右のナミが、すぐに元気な声を掛けてくる。こちらもやはり、玉子の分配に関する牽制だ。
「兄ちゃん、わたしの分まで食べないでよ」
「ナミ、ワタシはそこまで意地汚くはない」
ほんの僅かの苛立ちを乗せて、声を返す。だがすぐに、残る2人で声を合わせ、手を合わせ、「いただきます」を告げ、食事を始めた。
ご飯、みそ汁、玉子焼き。魚に納豆。温野菜、そして煮物と漬物が、どれも大皿にたっぷりと並ぶ。
味噌汁は和葱がザクザクと入っており、わかめと海苔が香る。
そういえば。今は大好きなわかめ。初めて和国に来た頃には、このわかめがまるで食べられなかったのだ、自分は。これは、母国では食べない食材だったから……
妙に懐かしい気持ちが過る。しかしその懐かしさは、同時に「不安」を呼び起こす。彼は慌てて、その何かを打ち消そうとありがたく母手作りの味噌汁に口をつける。
いや。この味噌汁の調理は、ひょっとするとナミかもしれない。
寝坊をした彼には、そのところはわからない。だがナミが自慢をしてこないところをみると、やはり母が調理したのだろう。こういうとき、ナミはすぐさま自慢げに、尚且つ恩着せがましく彼に調理の出来をやや大げさな程に訴えるのだから。しかし、彼女からの声は無い。彼は敢えて確認はせず、小さく頷くだけに留めた。
チラリ、と右に座るナミに目をやってから、彼は味噌汁を口に含む。
大丈夫。味はある。というよりも、物凄く美味しい。
白いご飯も、付け合わせのたっぷりとした温野菜も、煮た大根も。魚は照り焼き。そして納豆もある。丸々全てが和食で、その殆どが手作りのものだ。
「お母さまの玉子~♪」
節回しつきで、ナミが小さく歌う。
「ナミ、食卓で歌うのは止めなさい。はしたないから」
そう、父が低い声で優しく彼女を諭す。はい、と自然な声で、ナミもまた父に返事を返していた。
「だって、今日はお弁当もお母さまでしょ。嬉しいじゃない、それ」
「まあ、ヒカリちゃんが悟朗君に差し入れするって言うからね。お母さんだって張り切っちゃったわよ」
「悟朗?」
その名前は、聞き覚えがあった。
確か、隣の家の少年の名前だ。神矢悟朗。そう、それが真名だ。
年齢は、ナミと同じ歳だった筈だ。そして彼の父親は、自分の恩人であり、武道の師匠でもあった。
神矢タカフミ。
そう。大事な恩師だ。武道の腕前の高さもさることながら、情に篤い人柄に、彼は支えられてきた。歳は結構な年齢だ。風見の家と違い、神矢の恩師は結婚が遅かったと彼は聞いている。
その息子、悟朗のことはしかし、彼の記憶の中には殆ど情報が無かった。顔も思い浮かばない。名前と、ナミと年が同じ、同学年という情報。それだけだ。
なぜだろう。
訝しんでいる間は無かった。朝食の開始が遅れた分、彼は微妙に母と上の妹から食事の進行を急かされていた。基本的に大食に近い彼の食事分量は、それより少ない量で済む他の家族たちと比べると、食べ終わりの時間を気にしなければならない。
それに何より、このごはんは美味しい。どれも、これも。だから一所懸命食べなくては。食べものを粗末にしてはならないし、申し訳も無い。そう思って、彼は懸命に箸を動かし、口を噤んで咀嚼を楽しむことにする。
そうして彼が無造作に箸を伸ばし、黄色いフワフワの塊をご飯茶碗の上に乗せた瞬間。
「あ、兄ちゃん!」
とナミが声を荒げる。
しかし、その先は、一言も出てこない。
正面ではヒカリが、クスクスと笑っている。ヒカリの隣では、父が呆れ顔で彼を見つめている。母は、やはりヒカリと同じように明るい笑いを零している。そして4人の中で一番はっきりとした感情を表出したナミは、その一言を発したきり口を噤んでいた。口を、への字に結んで。
そこで彼は気がつく。ああ、最後の一切れだったのだな、今のは、と。
「ナミ、スマン。つい……」
とはいえ、自分が取って茶碗の上に乗せてしまった以上、もう彼女に譲るわけにもいくまい。ナミもそれを理解してなのか、不満気な顔で右から彼を見上げてくる。
「いつもなら、一声掛けてくれるのにー」
ぼそり。聞こえるか聞こえないか、といった大きさの声で、彼女は小さく頬を膨らませる。だがすぐに、彼女も自分の茶碗のホカホカの白米を箸でつまんで口に入れ直す。
諦めて貰ったのだろうと踏んで、彼はフワフワの「お母様の玉子」の最後の一切れを有難く口に含んだ。口の中でほろほろと崩れるそれは、やはり大層美味だった。
「ナミ。次は君に最後の一切れを譲るから」
だから許せ、と。彼は小さく漏らして、隣のナミの様子を見る。しかし彼女はもう拘りは無いのか、箸を一所懸命に動かしていた。
最後に食事を始めた2人以外は既に食事を終えて、各々「ごちそうさま」を告げながら立ち上がり、食器を片付けていた。
父は仕事に出る準備の為だろう。部屋から下がって消えた。物静かな下の妹も、身支度の為か食堂から離れていく。その妹のものだろう、階段を上る軽い足音が遠くから聞こえてくる。
母は食堂に籠って片付けか何かをしている様子だった。お弁当がどうこう、と言っていたからその手配なのかもしれない。そう思い当たって、彼は大きく口を開くと、隣のナミよりも量の多かったご飯を、ナミよりも先に咀嚼し終えて、立ち上がった。
「ごちそうさまでした」
そう告げる彼の声は、どこか現実感がなく、フワフワと漂って消えていくようだった。
――座標軸:レイジ
台所に食器を下げに行くと、母は丁度弁当箱の蓋をし終えて、まとめていたところだった。
「ヒカリちゃんがね」
屈託のない、どこかナミと似た雰囲気を纏った母が、彼に聞かせるともなく呟くと言った様子で話をする。
「悟朗君に食べてもらうんだ、って。張り切っちゃってるんだから、あの子」
その言い回しからすると、今日の弁当は母だけではなくヒカリも調理に参加したらしい。だが、悟朗に食べてもらう、とはどういう意味だろう。
「今日は、ヒカリは何の用でしたっけ?」
親だというのに丁寧語で、彼は胸に浮かんだ素朴な疑問を母に問う。
「あら、今日は剣道部の3年生の引退試合でしょ。応援よ。応援」
応援? 応援……ふむ。成程……思いを寄せる先輩への差し入れか。そう、彼は理解する。
と、同時に、
「そうそう、あんな土饅頭のどこがいいんだか」
そう言いながら、食器を手に台所に入ってきたのは、ナミだ。
土饅頭、とは和語で言うところの「土盛りの墓」のことだったか。なんとも容赦の無い形容で、妹の想い人の容姿を形容するものだ。彼は一瞬息をするのも忘れて、呆れながら彼の上の妹を見遣る。
「だいたい、一年生の内からマネージャーだなんて。他人様に奉仕するのも立派なことかもしれないけれども、あの子だって自分自身の為にスポーツでもなんでもして汗を流してもいいんじゃないかしら」
「ナミ、まーたその話?」
「だってお母さま。ヒカリちゃん、幾ら悟朗にお熱だからって、あれは無いわよ。あんなに猛攻かけたところで、あの朴念仁にどこまでそれが伝わっているのやら……」
「まあ、そこはお姉ちゃんらしく、ヒカリちゃんを応援してあげなきゃ、それに」
素早くテキパキと手を動かしながら、母は一呼吸おいて直ぐに続ける。
「悟朗君は優しくていい子じゃないの。ヒカリちゃんには、特に優しいと思うわよ」
「だから余計に気に食わないのよ! わたしの可愛い妹に、ちょっかい出して」
「ちょっかいを出しているようには見えないけど?」
くりくりと、どこかいたずらっ子のような瞳を向けて、母が娘をからかうように見つめている。
「むしろ悟朗君が他の女の子に取られちゃったら大変だって、ヒカリちゃんの方が必死じゃないの」
クスクスと囁くように、母は少女のような声で笑いを零す。しかし、対するナミの表情には、面白くないといった様相がありありと浮かんでいる。
「そんな、他の女の子が声を掛けてくることなんてないわよ、悟朗になんて。中学に入ってからだって、この3年間、あいつにそんなちょっかい出してきた女の子、一人もいなかったんだから。ヒカリちゃんだけよ、あいつに夢中なの。ほんっと、不思議」
まー確かに剣道で勝ち抜くところとかは、ちょっとはカッコいいかもしれないけど。でも基本、不細工よ、不細工。おまけに頭だって悪いじゃない。
ブツブツと、しかしどこか愛着のあるような声色で、彼女は妹の想い人のことをこき下ろしていく。
歯に衣を着せぬ、ということばを、彼は思い出す。彼の上の妹は、何であれ、本当に容赦がない。その性格を、彼は思い出す。
すると。
「同じ『不細工枠』だったら、兄ちゃんの方がずっとカッコいいじゃない」
そう言って、左に立つ彼のことを、眩しそうに見上げてきた。
彼は、ことばに詰る。
風見ナミ。今年14歳の、和国の乙女。
彼と、13も歳が違う。血は繋がっていない。
まだ幼い、子どもらしさが大いに残るが、それでも随分と綺麗になった。澄んだ青の瞳も、柔らかな頬のラインも、意志的で美麗な眉のラインも、赤の映える唇も。身のこなしにはどこか品があり、細身の体を優美に見せている……
出会ってから、もうそろそろ9年になろうとしている。
彼がナミと初めて遇ったのは、彼女が5歳のときだった。彼は、18歳だった。
彼の中では、だから、まだ彼女が5歳の小さなちいさな子どものままのような、その気分が抜けることはない。そしていつまで経っても、その関係は変わるまい。そう、彼は考えていたのだ。
彼の狼狽える様子が面白かったのだろう。クスリ、とどこか妖しい微笑みを零すと、
「と、いうわけで。兄ちゃん、片づけよろしく!」
そう、彼女の分の食器も押し付けてきた。彼の気持ちなど、まるでお構いなしに。
「じゃあ、兄ちゃん、お当番ね!」
「おい、ナミ!」
そう声を掛けた彼は、しかし。
ああ、この家では、一番の寝坊助が、朝食後の片づけの当番を担当するのだな、と。
そう、脈絡も何も無く、しかし自然に彼はその事実に納得をしていた。
そう。この風見家では、いつものこと。風見家の、ちょっとしたルールの一つだ。むしろ、なぜそんな当たり前のことを忘れていたのだろう、と。彼はまたも小さな違和感を抱く。
いつの間にか通勤用らしい外出着に着替えていた母が、その細身の身体に再びエプロンを巻いて、水洗いをしている彼の周囲を片付け始めた。「手伝うわ」と言いながら。
「お母さま。お仕事、急がなくて平気?」
その彼女へと声を掛けてきたのは、彼ではなくナミだ。ナミも既に、カジュアルではあるものの、少しばかり改まった雰囲気の余所行きの服装をしている。その後ろでは、学校の制服姿のヒカリ、そしてスーツ姿の父が、出がけの鞄を手に準備を整えている様子が、台所に立つ彼からでもよく見えた。
「大丈夫よ。このくらい」
「お母さま、帰りはいつもと同じ?」
「ええ。それと、今日はスズノハと一緒に戻って来るから」
スズノハ。
聞き覚えがある。とても聞き覚えがある、その名前。
彼はしかし、その名前、固有名詞が、どういった意味を持ち、誰のことを、否、何のことを言っているのかが、まるで浮かんでこなかった。
少し考える。だが、分からない。
「まあ、今日はスズノハのお姐さまとご一緒に帰っていらっしゃるのね」
「ええ」
嬉しそうな母子の響き合うような声色。だがやはり、何度考えても、彼はソレの意味をどうしても思い浮かべることができない。
そうして彼が諦めるか、と意識の仕切り直しをしていると。
「うん、これで片付いた」
母が、どこか満足気な声で、彼に台所仕事の終了を告げた。
そうして彼女が手伝ってくれたおかげで、本来の彼の仕事、目の前の片づけ一式は本当にあっという間に終わっていた。綺麗さっぱり全てが洗い清められ、不要な物は全て定位置に収まっている。整理整頓の為された清潔感溢れた台所が、そこにはあった。
彼が母に礼を告げようとすると、その先を取るかのように、清楚な声が後ろから小さく響いた。
「お母さま、ありがとう」
そう言って、ヒカリが弁当を纏めて持っていく。
「あらあら。ヒカリちゃんもお料理、頑張ったじゃないの。今日のお弁当は貴女もきちんと作ったんだから。悟朗君に大いに褒めてもらわなきゃ」
ころころと涼やかに笑って、母は下の娘を励ます。
次いで、母は振り返りながら、
「こっちはあなたたちの分よ」
そう言って大小2つの弁当箱を置いた。
ランチボックス。黄色くて、四角くて、合わせると意外と大きさがある。ヒカリの持って行った程の量ではないが、結構なボリュームがありそうだ。中には何が入っているのだろう。彼には、見当がつかなかった。
「こっちはお茶ね」
と、続けて大きな水筒を置きながら、母は、
「じゃあ、レイジ君。今日は1日、ナミちゃんをお願いね」
そう、彼に今日の予定を告げていく。
え、と。抑えきれない小さな驚きの表情を顔に浮かべていたからだろう。母親がもう一度念を押すかのように、背の高い彼を見上げて続ける。
「だから。今日のナミちゃんのエスコート。お願い」
だって、私もお父さんも土曜日だけれども仕事。それにヒカリちゃんは剣道部の御つきでしょ。うんうんと、一人で頷いて、母は彼へと弁当を再度指し示す。
「あなたたち2人は、しっかり楽しんでらっしゃい」
彼の中には、今日のその行動予定は、まるで情報が入っていなかった。それどころか、昨日の晩、ナミや他の家族とどんな約束をしたのかも、その約束の流れすらも、一片たりとも思い出せなかった。
だが、ともあれ今日の彼の予定は、そういうことらしい。母親とヒカリ、ひょっとしたらナミも調理に参加したかもしれない弁当を持って、どこかへと行楽に出かけるのだという。
ナミと、彼が。
どこか。それは、大きな罪だ、と。
彼の内部から、声が響く。
それは囁くような、けれども叫びを絞り出すような、そんな音を彼の中に共鳴させた。それはお前の役割ではない、と。
彼は。彼女の傍に、いるべきではない、と。
罪悪だ。
……
「ほら、また、その顔」
ふと。母が真顔になって、彼へと手を伸ばす。その手は細くしなやかで、動きは優美だった。とても10代の娘2人を産み育てているようには見えない若さと、美貌。確かにナミもヒカリもそこそこな可愛らしさがあるが、この母親の艶のある美麗さにはまだまだほど遠い。
そういえば。彼は、この母を初めて見たとき、その美しさに大層心打たれたことを思い出す。その衝撃は。それは、まるで昨日のことのようだった。そしてその感覚は、これまで胸を過るあやふやな不安とは違い、彼の中では揺るがない事実として根を張っていた。
その事実に、彼は安心感を覚える。
そうやって彼が自身を振り返っている間に、母の白い手が彼の髪に触れる。彼女は黙ってぽんぽんと、彼の髪をくすぐる。まるでナミが起きぬけにしてくれたものと、同じ仕草で。
「私たちは貴方に感謝しているのよ」
出てきたことばは、彼の想定からは随分と意外なことのように思えた。
だから彼は、何も言えない。返せない。
「貴方があそこで魔女狩り組織……『白の騎士団』を脱退して自首、告発してくれたからこそ、今の私たち、中野町のコミュニティが維持できているんですもの」
「ああ」
彼はそれだけを、返事として返す。辛うじて。
「それにあなたは、きちんと罪を償ったのよ。もうそんな、罪人のような顔をしちゃ駄目なんだから」
貴方があそこでナミに出会ってくれたから。ナミを助けてくれたから。今の私たちがあったんだし。そう続けて、彼女は笑った。
そのときの情景が、彼の中にも浮かんでくる。
そう。あれは、まだナミが5歳のときだった。そして彼は18歳。
彼は、元は魔女狩り組織に属する、人殺しだった。
そしてナミは、魔女だった。
――座標軸:レイジ
この世界、この地球には、2種類の人類がいる。
一つは、人口の大多数を占める「魔力無し」もとい、「一般の人類」。
そしてもう一つが、「魔女・魔力持ち」という魔力行使のできる人間だ。
後者は、前者のおよそ1~3%を占めるに過ぎない少数派だ。
そして長い事、2つの種には諍いがあった。争いどころか、多数派を占める魔力無しが少数者たる魔女を狩るという習慣、風習、文化まで、長いこと存在していた。
していた、と過去形として言えるようになったのは、つい最近のこと。21世紀に入ってからの事だ。
そう、この極東の地、和国でも。
魔女、魔力持ちの男女が、その他大勢の魔力無しと同じ権利を獲得し、一般市民として基本的生存権が保障されたのは、この和国に限って言えば、まだほんの10年足らずのことなのだ。
そして、その契機になった事件とは。
「ああ」
彼は、また小さく、声を漏らす。
「貴方が魔女組織を早くに逃げ出して私たちを支援してくれたから。だから和国では穏便な革命が起こって、私たち魔女と、魔女の人権を支援する普通の人たちとが手に手を取って、旗を立てることができたんだわ」
旗を立てる、とはこの女性独自の言い回しだろうか。恐らくは、法的権利の確立、共生社会の実現、そんなところの意味合いだろう。
彼は小さく頷くことしかできなかった。その彼の武骨な手を、母は両方の手で温かく包み取った。
「あなたが殺人に手を染める前に警察に駆け込んでくれたこと、凄く感謝してる」
「あれは、ナミが……」
ナミが、いたから。
ナミがいたからできたのだ、と。彼は声にしたつもりだった。
だが、それは音として機能しなかった。ヒュウヒュウという音が、彼の口から洩れる。
5歳のナミが一人、歩いていたのだ。
その日。彼は、中野町の斥侯を請け負っていた。
魔女狩り組織の一員としては、末端の末端。若くて経験も無い。若いから和語を覚えるのにいいだろうというだけの理由で、先行して和国に密入国し、和語の勉強に勤しんだ。
そうして身につけたばかりの和語で、魔女狩りの為の事前調査に乗り出したのだ。
そう。狩りの為に。
魔女たちを、殺す為に。
たというのに。
彼は、その「狩り」の前に、ナミに出会ってしまった。
「兄ちゃん、交番はこっちだよ」
確か、そんなことばを、幼い彼女は言っていたような気がする。
彼は、先行して中野町のあれこれの情報を集めていた。覚えたばかりの、たどたどしい和語で。
雨音郡、西乃市、中野町。そこには魔女たちが多く住む「魔女コミュニティ」が在った。
どこに、どのくらいの魔女、魔力持ちが住んでいるのか。人数は。居住密度は。家の並びは。襲撃するとすればどの道順で、どう行うと効果が上がるか。どうすれば効率よく武器弾薬を「奴等」に浴びせることができるのか。あるいは「我々」魔女狩人が退路を確保するとしたら。
そうして短時間で効率よく魔女たちを殺して回るには、どうやって町を包囲し、どのくらいの人員をどこに張るのがいいのか。もうすぐ行われるその作戦の為。作戦を考える上の人間に、報告する為に。
だが。
彼女は目敏く、彼を見つけた。
生きた魔女と話をするのは、彼にとってはそれが文字通り初めてのことだった。言ってしまえば、それまでの彼は死んだ魔女か、加害者たる魔女狩人の話の中でしか、魔女と関わりを持ったことがなかった。
彼の母国では、魔女と交流したことなど無かった。村にも学校にも魔女はおらず、親や大人たちからは魔女嫌いの風潮ばかりを吹き込まれていた。長じてからは反魔女組織が魔女狩りをすることに何らの疑問を抱くことすらなくなっていた。
18歳と数か月の間。ずっと。
「兄ちゃん、迷子? 兄ちゃんの道、一緒に探してあげるよ」
それだけを声にして、5歳の彼女は18歳だった彼の手を、何の不安も抱かずに、その小さな手で取って歩き出した。
たった半日。5歳の幼児と中野町をウロウロと歩き回っただけで、彼は、魔女もまた只の人に過ぎないことを知ったのだ。
彼が結論を下したのは、意外と早かった。
無垢なる子ども。魔力無しの人間となんら変わりのない、普通の人びと。己と同じ、変わらない、只の人間。それもまた魔女、魔力持ちであるのだ、と。ただ、少しばかりの魔力が使える、というだけ。どうということはない、平凡な市民たち。
それらの人を傷つけまいと、彼はその足で警察に出向き、魔女コミュニティ襲撃予定の自供をした。大量の武器弾薬を使用する予定のそれは、いわばテロリズムと同等の行為だった。
未然に防がれたそれがもしも実施されていたら、その被害はどれだけ酷いものになるか。そうした想像のもと、和国内は文字通り蜂の巣を突いたような大騒ぎとなった。
魔女狩りはやはり人道にももとる、時代遅れの考え、時代錯誤の残虐な行いに過ぎないと、世論が正義を強く意識した。魔力を持たない人びとも、魔女、魔力持ちを「隣人」と、「仲間」と見做すのがやはり当たり前なのだ、と。改めて多くの、殆どの人が、納得と共に頷きを返した。
和国に入国していた彼の属する反魔女組織は、全員が和国警察に逮捕された。そして組織はそれ以降、和国での活動が一切不可能となった。非合法組織として、法的指定を受けた。
未遂とはいえ逮捕者の一部の者は重罪を問われ、長く牢獄に繋がれることになった。他国での魔女殺害の罪が問われて、それらの国へ送られた者もいた。
彼もまた、それ相応の軽犯罪を多く重ねていた。極めつけは密入国と武器密輸、そしてその武器の携帯。だから、彼もまた数年、和国の監獄に収容された。
そんな彼に、立ち直りの為の養子縁組の申し出をしてくれたのが、風見の家の人びとだった。
――座標軸:レイジ
「貴方は、充分罪を償ったのよ」
そう、母が、どこか細い声で言い切る。それはどこか、実感の無い、細い声だった。
そうして会話を切り替えた、ようだ。表情が、明るく変化する。
「さあ、みんなを見送りに行かなくっちゃ。私も、もう家を出ないといけないし」
そう彼に微笑み返してくる。自然と彼が微笑みを返したからだろう。母は安心したような表情になった。
母と彼の会話が聞こえていなかったのだろう。相変わらず屈託の無い、素直な表情をしたナミが、ひょっこりと台所へと顔を出した。
「ほら、ヒカリちゃんと父さんが行っちゃうよ。2人共、お見送り。早く!」
風見家の4人は、全員魔女、魔力持ちだ。
父親、母親。そのいずれもが、魔女である。
和語では、「女」のつく「魔女」の言葉を、男にも当てはめるのだということを彼が知ったのは、いつのことだったか。彼はもうそれを思い出すことができない。
そして、両親が魔女である以上、その娘たち2人も、同じく、魔力を持って生まれてきている。ヒカリも、この、ナミも。
彼だけが、その輪からは外れる。只の、魔力無し。人類の大部分を占める、只の人だ。
「兄ちゃん」
早く! そう言って、彼の手をナミが取る。
先程まで彼の手を包んでいた筈の母は、既に玄関の方へと移動していた。夫と下の娘の見送りがあるからだろう。
「ほーらー」
大袈裟な、芝居めいたオーバーアクションで彼の手を引きながら、ナミが玄関へと大きな体の彼を引っ張って行く。
しかし玄関へ着くと、彼女はレイジの存在を無視するかのように彼の手を払い、彼女の妹へと駆け寄った。
「ヒカリちゃん、気をつけるのよ。あと、サキにもよろしく伝えておいてね。今日は応援に行けなくてごめん、応援してる、って」
「うん、部長にはちゃんと言っとく。悟朗ちゃんには伝言いいの? お姉ちゃん」
「まー悟朗には引退試合なんだからしっかりやんなさい、って」
そこは投げやりな声になると、彼女は妹をギュっと強く抱きしめた。
「お姉ちゃん、くすぐったい」
姉妹が、じゃれ合うかのように相互に抱き合う。ナミの過剰さは誰にでも向けられる性質のものなのだろう。それどころかむしろ、妹相手の方が彼相手のときよりも熱心かもしれない。
そんな姉の積極性に照れて、妹の方はというと、腕こそ回せども身はやや引き気味だ。
その妹を、ナミはまるで相手が恋人であるかのように滑らかに優しく両腕で抱き取って、頬を摺り寄せている。ヒカリも観念したのか、姉の戯れに翻弄されつつ、しかし逆らうことは無い。
そんな2人の身体だけのやりとりは、どこかエロティックな幻想を彼にもたらした。
ぼんやりと、2人の少女のやり取りを彼は眺める。
やっと、上の妹は下の妹を開放する。時間もあまり無いからだろう。
そして。魔女らしい祈りのことばが、彼女から朗々と放たれる。
「ヒカリちゃんの今日の一日が、素晴らしい1日でありますように。イリスウェヴの名のもとに」
「ありがとう、お姉ちゃん。お姉ちゃんの一日も、イリスウェヴの神ねえさまのご加護のもとにありますように」
「おいおい、ナミ。ヒカリだけかい?」
「父さんもよ、勿論」
そうして、父親にせがまれたナミは漸くヒカリから離れると、今度は父親に軽くハグをする。その熱意の差は、ヒカリと比べると大分少ないものであったが。だが頬を擦り寄せている様子は、ヒカリに対するものと何ら変わりない。父にもまた、ナミは大きな親愛の身振りを注ぐ。
父もまた愛情をこめて、上の娘へと頬擦りを返す。それを娘は少しばかりくすぐったそうにして受け止める。
「大好きな父さんの1日に、良きことが沢山訪れますように」
イリスウェヴ神の名のもとに。彼女は、またもその神の名を告げる。
「イリスウェヴ」とは、魔女、魔力持ちを中心に信仰されている、世界宗教、信仰対象の一つだ。
そう彼が頭の中で情報を整理していると、弁当の入っているらしい大きな鞄を持ったヒカリと父が、並び立って玄関から外に出て行こうとしていた。父は、己の妻との挨拶は、既に済ませていたらしい。
「そうだ」
そこで、父が足を止める。ヒカリは、先に扉の外へと出ていた。
「レイジ。握手だ」
父は、左手をスマートに差し出してきた。
そのスマートさに流されるように、彼も左手を出す。
すぐに握り返された父の手は、意外と力強かった。
手。掌そのものは彼の方が少しばかり大きく、肉厚だった。彼は武道者として、和国の伝統武道をずっと習い続けている。そのせいもあり、体格だけを見れば、彼の父よりも彼はずっと大きく、厚い。そう、脈絡も無く、彼は思った。
だが、それでも。父親の手には、何か意味のある力があった。
力強い、その掌。その力。
「行ってくる。ナミ、レイジ」
私の娘に、そして息子に、イリスウェヴ神のご加護を。そう言って、父親は下の娘を待たせては良くないとばかりに扉の外へと消えて行った。
扉は、東に向けて建てつけてある。扉の外は、妙に、朝の光が眩しかった。
その眩しさに耐えきれず、彼は強く瞳を閉じた。
――座標軸:レイジ
それから5分と経たずに、彼らは母も送り出した。
ナミは、ヒカリにするのと同じように、ややオーバーな程の熱意を込めて母に抱きつくと、頬擦りをしながらイリスウェヴ神の加護を祈っていた。
「レイジ君、じゃあ、ナミちゃんをよろしくね」
父のように握手を求めて手を差し出すようなことはせず、母は2人にイリスウェヴ神の加護を祈ると、彼にはごく普通に挨拶を交わし、そのまま扉を開いて出て行った。
やはり、扉の外は妙に光に満ちて、明るかった。
「兄ちゃん」
見ると、ナミが右側から彼を見上げている。
随分と、距離が近くなったな。そう、思うともなしに彼は思う。
何の習慣なのか、彼はナミが絡むと、出会った当初の5歳児のときの彼女の在りようと比較する習慣があるようなのだ。彼の、腰より低い背丈しかなかった頃の。今よりも、遥かに遠い、昔の。
「早く歯を磨いて着替えてきてよ」
「歯磨きはする。だが、着替えはもうあとはジャケットを羽織るだけだぞ」
「えー? 兄ちゃん、その格好で行くの?」
ナミの声色も視線も唇も、実に不満げだ。どうやら彼の今の服装は、彼女の中における何らかの基準、その及第点を得るには至らなかったらしい。
「そんなダッサダサのもっさい部屋着のまんま出掛けるなんて、信じらんない」
だからモテないんだよ、と続けてぶつくさと漏らす彼女の声を敢えて無視し、しかし視線だけは少しだけ恨みがまし気にナミを見遣る。
そして。
「というか、今日はどこへ行くのだったかな、ナミ?」
彼は、頭の中に全く予定図の無かった今日の行動を、そのことに気取られないような言い回しを選びつつ、ナミに問う。
「もう、やだなぁ。兄ちゃんったらもーろくしたじーさんみたいなこと言っちゃって!」
トン、と彼女が軽く彼の肩を叩く。そして。
「今日は東乃市の海岸に、お散歩に行くんだよ」
そう、今日の行き先を告げた。
――座標軸:レイジ
何かが、違う。
そう、彼の中で警告が鳴る。
だが彼は、今のこの居心地の良い、陽の当たる温かい場所から動く気は更々無かった。
だからナミの言う通り、歯を磨き、少しは外出に良さげだと思しき洋服を選んで着替える。秋のこの時期に海に行くということは、少し寒いだろうか。そう思って、やや着込んだコーディネートを選択する。
そして居間で待つナミに声を掛けた。
「待たせたな、ナミ」
「行こう、兄ちゃん」
可愛らしい水色のチェックのジャケットを着て、明るい青系統の色で綺麗にコーディネートしたナミが、どこか嬉しそうに彼を見上げていた。
瞳の色に合わせたかのような、両耳の小さな青石のピアス。両手にはやはり青い小さな石つきの指輪。そして……胸元には、ひときわ大きく光る、大きな青石が彼の目に留まる。魔女らしい、宝石を要所にあしらった装いだ。
そして。彼の目が、ナミの胸元の大きな青い石に吸い寄せられる。彼は、そこから目を離せない。
まるでその青い光が、彼の罪を照射しているかのように、彼には感じられて仕方がない。
ああ。やはり、何かが、違う。
この明るさは、ワタシに相応しいものではない。
何かが、間違っている。
そう、彼の中で、一抹の不安気な声が聞こえる。
だが彼はそれを見ない、聞かない、ことばにはしない。
意識の外へと誘導し、「それ」に蓋をして、重石を乗せた。
……
……
それにしても、このシャベルは妙に重たい。
そう思い、彼は瞳を閉じた。
(つづく)
・こちらは前編になります。
・先程(数分前)に一度仮アップをしたのですが、大きく本文を追加しました。現状が本来の「前編」です。
・諸事情でアップの段取りに手間取ったのが原因です。現状にて問題は解決しています。もしも勘違いした方がおられましたら、すみません。
この作品については、あまり多くをあーだこーだ言わないでおきたいと思います。
お読み頂き、ありがとうございます。ぜひともまたおつき合い頂ければ幸いです。
それでは、また。(只ノ)