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まぐろくろすけ

 海斗山町(みとやまちょう)前駅の東口を出てすぐの大通りを右手へ進み、デンタルビレオ店ヅタ屋に差し掛かる交差点を左へ曲がると、若芽(わかめ)商店街という繁盛しているんだかどうなんだかよく分からないけれど、なんだか楽しげではある変な商店街がある。この変な商店街を駅側から入ってしばらく行くと、武器屋(本物の武器は売っていない)と防具屋(本物の鎧が売っている)がある。ちなみに、何のつもりなのか対面には道具屋と薬屋と宝飾品店が軒を連ねている。このRPG然としたわけのわからない地点を武器屋側に曲がってちょっと行った閑静な場所に、ブックカフェ・マウンテンオーシャンはある。

 店の前にあるメニューの記載された立て看板の隣には、イルカと鹿が戯れている変なオブジェが置かれている。私はなんとなくこれが好きで、見るとなぜかここの店主とその彼女(?)の顔を思い出す。

 壁面は洋風のレンガ造りで、細長い得体の知れない蔦が薄くはっていて、多少古風だけれど落ち着いた様相を呈している。その下の壁伝いには膝下程度の長さの観葉植物の鉢植えが等間隔に並ぶ。鉢植えの中にはクマノミやクラゲ、クリオネやクジラ、鮪、鮭、鯖、秋刀魚などあらゆる海洋生物のミニチュアが無造作に溢れていて、頻繁に増えたり移動したりするのでいつ見ても飽きない。

 けれど私は表口を素通りして裏口へ回る。そう、要するに私はこの店の従業員なのである。

 748円という、地域別規定最低賃金すれすれの時給で働いているのだけれど、お客がめちゃくちゃ少なく、暇な時間は読書や勉強で潰してもいいという超絶ゆとり仕様なので、内職癖の強い私としてはとても嬉しい。まだ始めて数週間程度のバイトだけれど、かなり満足している。

 しかしながら最近、私はこの店によからぬ疑惑を持ち始めている。

 ずばり、ここの店主、山野実里は違法な住人と関わりがあるのではないかということ。

 具体的に言うと、彼はヤクザ屋さん的な、ちょっと表立っては言えない連中と裏で違法なあれやこれやをやらかしているのではないか、と私は勘繰っている。

 勿論、断言は出来ない。けれど、そうではないかと思わせる節がいくつもある。私はそれらから真相を導き、この店に巣食う悪の組織を正義の光の元へ引きずり出してやるのだ。などと思わなくもない。

 今から、私がただの妄想癖たくましい女子高生ではないという根拠に足る証拠をお見せしましょう。

 私は裏口から事務所に入り、手狭な更衣室で給仕服に着替えてから店内へ行く。

 カウンターを見ると、一見気さくで人の良さそうなインテリ風お兄さんが、バーテン服(無期限の世界旅行に出ているという浮世離れした元店主から譲ってもらったらしい)を着て、仕事もせずに女房(?)と駄弁っている。この人こそが件の店主、山野実里である。店主は私に気付いて挨拶をする。

「おはよう、涼川さん」

 ちなみに私は涼川小葉(すずかわこは)という、その辺に自生する高校生である。種族は人間。趣味は読書と勉強。勉強が趣味と豪語するだけあって成績は自慢に足ると思う。

 高校二年目にして生徒会長、に落選。私ごときは二番手がお似合いだということなのでしょう、副会長に落着。

 朝昼は学業に精を出し、放課後は生徒会に励み、夜は喫茶店でアルバイトという多忙ながらも充足した毎日を送っている。

「小葉ちゃん、おはよう」

 店主に続いて、カウンター席を陣取って暇に明け暮れている女性が挨拶をしてくる。彼女こそは店主の妻(?)、海野幸子である。背が低く、一見私よりも幼いように見えるけれど、じっくり見比べても明らかに私より幼い。とても可愛らしい。店主と同い年を自称してるけど、私は半分ぐらい信じていない。もしかしたら店主がどこかで拾って育てて(はべ)らせているのかも知れない、などと妄想したりする。なんてけしからないの。こんな幼い子を、まったく、むしろ私が欲しい。もう一人ぐらいならどこかに落ちてないかしら。

「実里さん、幸子さん、おはようございます」

 挨拶もそこそこに、いつものように片付けるべき仕事に取り掛かる。まずは店主が気にも止めない食器類の洗浄。給仕とは名ばかりで、雑用係としての仕事も多分に負担しているのである。そうでないと、さすがにやることが無さ過ぎて申し訳なくなっちゃう。

 今日はもう一人の男性店員(主にレジ担当)がいないから、私の担当する仕事が多くなり、比較的に忙しい。忙しい、のだけれど店内を見回した限り、お客の数は幸子さんを除いて二人の常連しかいない。実に平常運転。多分、この後も退勤時間までずっと同じような光景が続くことでしょう。

 それでもって、これがまず一つ目の謎。

 どうやってこの店の経営は成り立っているんだろう。だってどう考えたって、私らの人件費を賄えているようには見えないのだもの。完全に場末だもの。

 この前、幸子さんにそう聞いてみると、

「知らない方が面白いこともあるの」

 と窘められてしまった。

 なにも面白くない。

 店主に聞いてみると、

「知らない方が面白いこともある」

 とはぐらかされてしまった。

 なにも面白くない。

 夫婦(?)の結束は固い。いくら聞いても教えてくれない。こうまで頑なな態度を取られると、やましいことがなくてもやましく見えてしまうのもやぶさかではないのではないかしら、と私は自己正当化してしまう。

 きっと、裏でけしからん組織と取引しているに違いない。「これが例の惚れ豆でゲス」「おお、これがあの、一口啜ると恋煩い、二口啜ると求婚し、三口啜ると妊娠してしまうと名高い惚れコーヒーの原料でゲスか」「お高いですぜ、お代官」「それぐらい、この惚れ豆で豚(客)どもを篭絡(ろうらく)すればちょちょいと稼げまさあ」などというやり取りが繰り広げられているに違いない。きっと、あの幼妻(おさなづま)(?)もその惚れ薬で篭絡したに違いない。「ほらお嬢ちゃん、美味しいコーヒ豆をあげるから、お兄さんについておいでえ」「わあい、カフェインだあ。これで夜、お日さまが出るまで起きているのも、お茶のこさいさいだね。お茶じゃないのにね。やったあ」などと言葉巧みに(かどわ)かしたに違いない。なんてけしからないの。むしろ私が拐かしたい。

 ふふふ。

 おっと、拐かした後の展開を妄想して興奮している場合じゃないわ。(よだれ)を垂らしてニヤついている場合でもないわ。

 私は心を鎮めるために、仕事の手を休め、近くに置いておいた水を飲む。こうやってちょっとした時に一息ついても寛容されたりするところが、実にやりやすい。(あなど)りがたし時給748円。

 それから私は雑用を片付けながら、至って真面目で清廉潔白な女子高生を装い、いや、装うも何も私は真面目で清廉潔白だけれども、とにかく、店主と幸子さんの動向を観察する。

 実里さんが思い出したかのように適当に仕事をしつつ、酒を飲む幸子さんの話に付き合っている。

「――であるからして、ここで宣誓。私は! 生涯(しょうがい)働かないことを! ここに誓います! そして実里君は生涯、私に味噌汁を作ってやろうと決めたのだった。完」

 幸子さんが酒の勢いに任せて叫び、そしてなぜか合掌する。何が完なのか分からない。言葉の支離滅裂さから、かなり飲んでいるのではないかしらと思ったけれど、素面(しらふ)でも大体こんな人だった。

 負けじと店主も答える。

「そんなに人生を完結したいなら、僕が手伝ってやらないこともない。幕を引くのと息を引くのとどちらがいい」

「なんて斬新なプロポーズ。いっそ殺人的にキャッチー。でも残念、誰が言ったか私は暖簾(のれん)のような女なのよ。押すは言わずもがな、引いても無駄よ。恋の駆け引きも友情の綱引きも泰然自若として身を(かわ)す華麗な女なの。セクシーな浮き輪が似合うナイス怪盗、峰・ウミノ・不二子とは私のこと」

 幸子さんは愛用のポシェットからブローニングM1910のプラモデルを取り出し、店主の胸を打ち抜く真似をする。そして続けざまに十手と手錠のプラモデルを取り出し、さらに言う。

「海野はとんでもないものを盗んでいきました……あなたの心です。by銭形幸子警部」

「怪盗のつもりなのか警察のつもりなのか白黒つけなさい。さもなくば味噌汁をかける」

 店主が適当な突っ込みを入れる。私としては味噌汁をかける前に、なぜそんなピンポイントなプラモデルがぞろぞろと、決して大きくはないポシェットから出てくるのかという点に突っ込んでほしい。あと、不二子お姉様は金目の物に目がないというだけであって、怪盗なわけじゃない。彼女は正体不明なのである。不二子お姉様は永遠に孤高で正体不明で神出鬼没だからこそ、ミステリアスでセクシーでカッコイイのである。

 そして私がブローニングM1910を瞬時に見分けられる件に関する言及は受け付けません。人には誰にだって言い難い嗜好(しこう)というものがあると私は思う。

「また、つまらぬものを盗んでしまった、私達の世界では、同じ腕のやつはいらないのだからして、あばよ~、とっつぁ~ん、ふ~じこちゃ~ん」

 幸子さんの酔がいよいよ回って来たようで、完全に何を言っているのか分からない。

「くらえブラック味噌汁」

「ぎゃああああ味噌汁あついいいい!」

 尋常(じんじょう)ではない様子で転げ回る幸子さん。

「かけると言った」

「ほんとにかけるやつがある!?」

「なんてな、安心してくれ幸子。それ、実は味噌汁じゃなくてコーヒーなんだ」

「なあんだコーヒーか」

「あのな、喫茶店はな、味噌汁なんて出さない。これ、今日の教訓」

「ねえ、実里君、それホット?」

「そう、ホットコーヒー」

「あついいいい! 味噌汁でもコーヒーでも熱いものはあついいいい!」

「大丈夫、コーヒーはブラックにしてある。お前は……黒だ」

「何が大丈夫なのか意味がわからないけど肌が焼けてどうでもいいいいい!」

 そこで実里さんがくつくつと笑いながら言う。

「幸子、お前さ。本当にノリが良いな。というか単に飲み過ぎなんじゃないか?」

 転がるのをやめ、何事も無かったかのように立ち上がる幸子さん。もちろん、実里さんは味噌汁もコーヒーもかけてなんかいない。ただのふりである。そそくさとあたりに散らばったプラモデルを回収した後、私に向かってはにかむ。

「ねえ、小葉ちゃん、どうだった? 私の名演技」

「どうだったも何も、何をやっているんですか。いい大人がみっともない。いくら顔馴染みのお客様しかいないからって、はしゃぎ過ぎです、ちょっと飲み過ぎなんじゃないですか? 反省して下さい。幸子さんが熱さに床を転げ回る様を、私はもっと見ていたかった、なんてそんなこと、そんなこと言いません。本当ですよ。でも強いて感想を言うなら、興奮した」

「何ゆえ!? 私が転げ回る姿に何ゆえ興奮したの!?」

 私は先ほどの、麗しの幸子さんのあられもない姿に若干理性が飛んでしまう。

 この時の私は錯乱していたのだと思う。決して勢いに乗って素が露呈してしまったわけではない。本当だってば。

 私はまくし立てる。

「味噌汁に見せ掛けたコーヒーというのも乙なんですけど、次は熱いお茶に見せ掛けたお汁粉をかけられるシチュエーションをやってほしいです。でも、ポタージュと熱燗(あつかん)の組み合わせも意外に捨てがたいわ。いやいや、いっそのこと、基本に立ち返ってお湯一本というのはどうでしょう」

「分かんない! 味噌汁でもコーヒーでもお茶でもお汁粉でも熱いものは熱いだけだと思う! 助けて実里君、子葉ちゃんの目が怖いよ、きっと私がふざけ過ぎたから茹で殺そうとしてるんだよ」

「おい、涼川さん」

「なんですか、文句あるんですか。茹で殺すぞ」

「おでん汁、というのはどうだろう」

「なんて大胆な!」

 私は店主の慧眼(けいがん)平伏(へいふく)する。そして聞く。

「それは、それは――具沢山(ぐだくさん)ですか?」

「ふふ――具沢山だ」

「そ、そんなことが許されていいのですか。けしからない」

「だくだく具沢山だ」

「くうう。幸子さんにおでん汁を、しかも具沢山なおでん汁をかけてしまうなんて。なんて禁断! けしからない。私は興奮が止まりませんことよ」

「実里君、私は一体なんの対象にされているのか、さっぱり分からない。どうしたの、この子、私が言うのもなんだけど、頭おかしいんじゃないの」

「安心してくれ幸子。僕も分からないまま適当に彼女に合わせてるだけなんだよ。まいっちんぐ」

「実里さん、約束ですよ。きっと幸子さんに具沢山のおでん汁をかけるという、永遠の約束ですよ。約束しました。成立です」

「どうしよう幸子、なんだか勝手に話が進んでる。いつか僕はお前をおでんで亡き者にしてしまうかも知れない。凶器がおでん汁なんて、お前、ワイドショーに取り上げられちゃうぞ」

「いや、でも実里君。ここで冷静になって考えてみてほしいの」

 幸子さんはシリアスな顔で言う。

「あのね、喫茶店はね、おでんなんて出さない。これ、今日の教訓」


◆◇◆◇


 その後、私が飲酒していたことが判明。

 そう言えば幸子さんを拐かす妄想をした後に、心を落ち着けるために飲んだ水の味は確かにおかしかった。というか明らかに苦かった。お酒だった。なぜあれを私は水だと思ったのか、人の思い込みとは不思議でならない。

 幸い微量だったためすぐに酔いは覚めたけれど、若干記憶が曖昧になっている。なんだか本能に任せておかしなことを言っていたような気もするけれど思い出せない。

「いやでも、普通気付くだろう、水と酒間違えたら」

「実里君。そこで気付かないのが、小葉ちゃんクオリティなんだよ」

「あー」

 二人は何に納得したのか、薄ら笑いで私を見ている。

 何だろう、とても失礼なことを思われているのは確実である。

「涼川さんはちょっと、あれだもんな。仕方がないな」

「仕方がないね。あれだからね」

 あれってなに。

「さすが、僕が見込んだだけはある。雇って良かった」

「よっ、天下のカリスマあれスカウトマン。その目に狂いなし、いや、狂いしかないね」

 あれってなに。

「涼川さん、これからもマウンテンオーシャンの仕事、よろしく頼むな。君は逸材だ。いや、逸脱だ。特別に時給を749円にしてあげよう」

「ありがとうございます」

 何故か時給が上がってしまったので、私は笑顔で礼を言う。褒められると嬉しい。例えよく分からなくても。褒められたら誠心誠意お礼を言う。私は常識を弁えている。とても偉い! 副生徒会長に選ばれただけのことはある。きっと生徒会長への道も近い。

 ふふふ。

 おっと、生徒会長に就任した後の展開を妄想して興奮している場合ではないわ。涎を垂らしてニヤついている場合でもないわ。

 私は今日の心構えを思い出す。

 なんだっけ。

 そう、店主が裏で悪の組織と繋がっているという話だった。その真相を私が暴き、正義の光の元へ引きずり出してやろうという話だった。そういう妄想のそういう設定だった。

 私は気を取り直し、清く正しい給仕を演じながらホシ(店主)をちらちらと観察する。気分は謎のナイスレディ・峰不二子お姉様。盗賊なのかスパイなのか、世界を股にかける正体不明の女。ミステリアスでセクシーでカッコイイのである。

 カランカラン。

 お客さんが来店する。

 私は本棚の整理を中断し、お客さんを席にご案内して差し上げ、ようとしてビビる。

 こ、こいつは。

 悪の工作員A!

 私はその男を観察する。

 スキンヘッドなのにヒゲは伸び放題で、髪の毛が上下を間違えてしまったかのよう。サングラスをかけ、真っ黒な革ジャンに膝の敗れたジーパン。両耳にも鼻にも口にも瞼にもピアスが施され、腰には長いチェーンがジャラジャラと垂れ、全身のあちこちにシルバーアクセサリーが輝き、靴は虹色の悪趣味なスニーカー。痩身痩躯だけれど服の上からでも分かるほどに肉体は引き締まり、百九十はありそうな長身。顔と頭に龍と虎の刺青がデカデカと彫られている。首元から下へも刺青が続いていることから察するに、おそらく全身に刺青がある。

 これが悪の工作員でなければ何なのだろう。

「い、いらっしゃいませえ」

 私は精一杯の笑顔で対応する。

「おう嬢ちゃん、今日も元気そうでいいなあ、ぐひぇひぇひぇひぇ」

 下品に笑うこの男、なんと常連客である。男はカウンターに向かいづかづか歩いて行き、店主に声をかける。

「ミノル兄貴、今日もお勤めご苦労さんです」

 男は店主に向かって斜め三十度の綺麗なお辞儀をする。

「あの、大地(おおち)、頼むからその兄貴って言うのそろそろやめてくれない」

「何言ってんだ、兄貴は兄貴でしょう。義兄弟の契を交わした、あの熱い酒の味を忘れたんですかい」

「忘れた。というか僕、お前と同い年だから。血も繋がってないから。兄とか弟とかないから」

「かああ、すっかり丸くなっちまってまあ、そんなバーテン服着てブックカフェなんて継いで、借りた猫みたいにまあ、在りし日のミノリ兄貴の欠片も残っちゃねえ、オレぁ悲しいぜ」

 オーバーに泣き真似をする男。喋っていても喋っていなくても、体をせわしなく動かしているため、ジャラジャラとシルバーアクセサリーの音がやかましい。

「お、なんだあ、嬢ちゃん、オレと兄貴の馴れ初めに興味あんのかあ、いいぜえ、話してやっても、むしろ話させてくれ、在りし日のミノリ兄貴はなあ、そりゃもうやることなすこと全身文学でなあ」

「やめろ」

 店主が悪の工作員の腕を掴み、店の奥に引っ込んでいく。

 しばらくの沈黙のあと、また帰ってくる。

「嬢ちゃん、在りし日の兄貴の話はまた今度だあ、すまん」

 悪の工作員――大地氏はしょんぼりと肩を下げる。聞いてみたかったような気もする。

 さて、お分かりいただけたでしょうか。この男の存在こそ、店主の闇疑惑の根拠その二である。

 どう見てもヤクザ屋さんの方が兄貴兄貴と慕っている。お勤めご苦労さんですとか言ってる。

 けれど店主の闇疑惑の根拠はこれだけではない。

 私は掃除をするふりをしながら、大地氏と店主の会話に耳を傾ける。

「で、兄貴、本題なんだがねえ、例のあれ、ようやく出来たんですわ」

 男は黒い鞄の中からA四判程度の大きさの封筒を取り出し、店主に渡す。

「お、ついに出来たのか、例のあれ。ちゃんと上の許可は取ってあるんだろうな」

「もちろんでさあ」

「うん。で、今回のは何だっけ、前言ってたやつだよな。アップ系だっけ、ダウン系だっけ」

「今回のはバリッバリのアップ系、脳汁ギンギンの超エグいやつでさあ、オレは途中で何度昇天しかけたことか知れねえぜ、ぐひぇひぇひぇひぇ」

「ふうん」

「ちょうっと癖がつええだろうが、オレとしちゃ最高のキマリ具合なんですわ、オレと波長の合う兄貴ならきっと、このめくるめくカオスと統合の倒錯的悪循環に超クールな文学系の向こうへ飛べること間違いなし」

「へえ。期待しておく。で、いつまでに返せばいい?」

「オレもちょうっとばかし懲り過ぎて時間押してっから、明日中と言いたいとこなんだがなあ、じっくり余韻まで含見してもらわねえとオレとしちゃ納得いかねえんで、まあ明後日か明々後日ぐらいでお願いしてえです」

「わかった。じゃあ明後日だな」

「ありがとうござんです、頼んますわ」

「うん。ご苦労さま。それじゃあ、今日はどうする。いつにも増してガラガラだぜ。売上に貢献していくと僕は大変嬉しい」

「そうだなあ、それじゃ一杯引っ掛けて行きますか、一仕事終わって一服してえとこだったし」

「あいよ」

 大地氏はあくびをし、肩をいからせながら一仕事終えたような様子で喫煙席に向かう。

 悪業疑惑、根拠その三。

 悪の工作員と得たいの知れないブツを取り引きする店主。しかも会話が露骨にあやしい。

 同じような取引を、私がここのバイトを始めた頃ぐらいに見たことがある。当初は訝りながらも考えすぎじゃないのかと思ったものだけれど、さすがに二回目を見て私は確信した。

 店主はヤクザ屋さんと惚れコーヒー豆の違法取引をしている!

 なんてけしからないことなの。やっぱり私の妄想は本当だったんだ。私は自分の妄想に確たる証拠を目の当たりにしたことで、妄想をさらに爆発させる。

 惚れコーヒー豆か。とすると、幸子さん誘拐説がいよいよ濃厚になってきた。私はワクワクしてくる。惚れコーヒー豆さえこの手に入れば、店主の虜囚とされている幸子さんを拐かし、めくるめく桃色ライフを送ることも夢ではないわ。

 私は自分の妄想に身震いする。ああ、なんて禁断。

 ふふふ。

 でも実際、妄想は置いておいて真面目な話、本当に何なのだろう。聞く限り本当に“ブツ”のやり取りにしか聞こえないのだけれど。

 何故か潰れないブックカフェ、親しげな悪の工作員、例のあれとやらの取り引き。私でなくても怪しいと思うんじゃないかしら。

 まあいいや。私は実は考えるよりも動く派である。面倒くさいことは人に聞くのが一番。とてもお利口さん。……お利口かな。

「幸子さん、あれが噂の惚れコーヒー豆でしょうか」

 私は幸子さんに率直過ぎる質問をする。

「え、なに、小葉ちゃん、ほれコーヒー?」

 当然困った顔をされてしまう。

「今、実里さんと悪の工作員が悪の取り引きをしていたじゃないですか」

「あー、あれね。ていうか悪の工作員て。大地君は確かにそうとしか見えないけど、小葉ちゃん、あの人はあなたが思ってるほど悪い人じゃないよ。あんなだから誤解され勝ちだけど、わりと良い人。あとよく分かんないけど、あれはその、ほれコーヒー豆とかでも悪の取り引きでも全然ない健全なものだからね。まったくあの人はわざと紛らわしい言い方するんだから、困った困った」

 そんなまともな返答は期待してなかった。

「何言ってるんですか幸子さん。あれはどう見たって惚れコーヒー豆の違法取り引きですよ。一口啜ると恋煩い、二口啜ると求婚し、三口啜ると妊娠してしまうと名高い惚れコーヒーの原材料ですよ。ね」

「ね、とか朗らかに同意を求められても。なに、またそういう妄想のそういう設定かな」

「です」

「大丈夫なのか、この子……いや、全盛期のあの人に比べたら全然……まあいいや、そうだね、そういう話でお姉さんが付き合ったげよう」

 どうやらノってくれるらしい。

 とても優しい。

 好き!

「じゃあ、ええと、おほん」

 幸子さんは咳払いを一つしてから、私の妄想設定に乗る。

「ふへへえ、私、海野幸子。実里様の下僕なのー。ちょーすごい惚れコーヒーでえ、ちょーすごく調教されちゃったのー。うへへえ、毎日がお花畑でー、とっても幸せだなあ。でもお、ほんとはー、お父さんとお母さんのとこにー、帰りたいのー。実里様はー、そんなやつはもういないとか言って―、全然会わせてくれないのー。私なんだかー、最近こわくなってきちゃってー、こんなじゃだめだなって思うんだけどー、惚れコーヒーと実里様にはー、逆らえないのー。誰か助けてくれないかなあ」

 大根。

 リアリティも何もあったもんじゃない。いかにも適当だけど、この際ディテールは妄想フィルターで補おう。それに、語尾も頭もゆるゆるな幸子さんは、それはそれで愛しい。

「やや。どうしたんですか幸子さん、そんな、頭のネジがひとつ残らず吹き飛んでしまったかのようなとろけた顔をして。もしかして店主と上手くいってないんですか? 私が相談に乗ってあげるわ、そうしましょう」

「えー、そんなんじゃないけどー、なんかー、実里様がねー、最近変なのー」

「あの人はいつも変じゃないですか」

「それがねー、いつもは変人の変だけどー、最近は変態の変なのー」

「それは大変。具体的には、どう大変なんですか」

「えっとねー、私にスクール水着を着せてー、お医者さんごっこさせるのー」

「凄いディープな趣味ですね。聞きたくなかった」

「私よくわかんないけどー、二人きりの時はパパ先生と呼べって言ってくるのー」

「うわあ。そんな至れり尽せり。むしろ私が呼ばれたいわ」

「でもー、逆にー、ママンおんぶしてー、とか言ってくる日もあるのー」

「きもちわる」

「煎餅が固いから口移しで食べさせてよママンとか言ってくるのー」

「茹で殺す」

 私の義憤メーターが最大値を振り切る。駄目だ、あの害悪大変態をこれ以上生かしておくと、幸子さんが取り返しのつかないところまで汚染されてしまう。

「幸子さん、駄目ですよ、嫌なことは嫌って言わなきゃ。ああいうクズ男は相手が従えば従うほど付け上がるんですからね」

「えー、でもー、惚れコーヒーを飲まされるとー、なんだか私気持ちがよくなってー、どうでもよくなって従っちゃうのー。もうあのコーヒー豆なしじゃ生きていけないよう、ふへふへへ」

「そ、そんな、脳の髄まで毒されてるなんて。幸子さん、私はどうすればあなたを救えるのですか」

「うーん、解毒薬でー、惚れコーヒーを中和すればいいんじゃないかなー」

「なるほど。その解毒薬はどこにあるんですか?」

「解毒薬はねー、作らなきゃ無いのー。だからー、まず材料を集めないといけないのー。それはー、この店の中にあるものなんだー」

「分かり易いRPGみたいですね」

「ええと、どうしようかな。一つ目は、そうだねー、悪のハゲ工作員の髭」

 いきなり最難関。返り討ちにあう未来しか見えない。

「二つ目は、あの日見た夜の夢」

 あの日の夢がこの日に見つかるというのだろうか。

「あと、まぐろくろすけ」

 ……まぐろくろすけ。

「以上の三つをコーヒーと一緒に混ぜるとー、解毒薬が出来るってー、私のゴーストが囁いてるのー」

「ゴーストに囁かれてしまっては仕方がないですね」

「それじゃあー、惚れコーヒーでゆるんだ私の頭を救うためにー、お願いねー。私はー、高みの見物としゃれこむのー」

「わかりました。きっと幸子さんを、あの魔変態から救いだして私のものにしてみせますね」

「あ、どちらにせよ私、親元には帰れないんだね」

「誰が帰すものですか。惚れコーヒーで私の下僕に洗脳し直すんですから」

「結局は洗脳されるんだね」

「それでは、私は冒険の旅に行って来ます」

「行ってらっしゃい。野生の悪ハゲ工作員に気をつけるんだよー」

 と言っても、まず野生の悪ハゲ工作員の髭を採取しに行くのだけども。

「涼川さん、これ、大地の頼んだコーヒー淹れたから、持ってってちょうだい」

「はい、ただいま」

 私は店主の淹れたてコーヒーをトレイに乗せ、標的の巣食う喫煙席に向かう。

「お客様、注文のコーヒーをお持ちしました」

「おう嬢ちゃん、あんがとよ」

「……」

「なんだあ、嬢ちゃん、そんなに熱心に見つめられちゃ落ち着いて飲めねえぜ」

「髭を」

「髭を?」

「下さい」

「何本だい」

「一本、下さい」

「はいよ」

 ぶち。

 ちぎった髭を渡される。

「ありがとうございます」

「嬢ちゃんの頼みなら、髭の一本や二本、どうってことねえさ」

「あの、なんか、すみません」

「いいってことよ。野郎の髭なんか欲しがるなんざ、よっぽど困っていたに違いねえ、何に使うかオレなんかにゃ想像つかねえが」

「本当にすみませんでした。おふざけが過ぎました」

 私は大地さんから頂いた一本の髭を手に、そそくさと喫煙席から離れる。

 まさか普通にもらえるとは思わなかった。案外良い人なの? あんな見た目なのに? いやいや、そんな馬鹿な。だって女子高生に髭を躊躇なく渡す大人なんて、普通じゃないでしょ。でもそれを言ったら髭をねだる女子高生の方がまともじゃないわ。

 私は謎の申し訳なさに悶々しながら幸子さんの元に帰ってくる。

「髭、もらえちゃいました」

「大地君はね、あげちゃう人なの、髭。私も昔もらったことがある」

「あるんですか。どんな気持ちになりました?」

「謎の申し訳なさに悶々した」

「なるほど」

 私は予想外の困難さに心が挫けそうになってしまう。有り体に言ってしまうと、ちょっと我に返りつつある。

「幸子さん、私は一体何をやっているのでしょう」

「あ、やめる? やめちゃう? 利口になっちゃう?」

「いえ、これは私が言い出したこと。最後までやり遂げる責任があります」

「ないよ」

「こんなこと程度で、私の幸子さんへの愛は折れません」

「え、そういう意思表示の形だったの、これ。ちょっとお姉さん、あなたの思考回路が読めない」

「私は幸子さんの愛を獲得するために、このクエストを最後までやり遂げねばならないのだわ!」

「いつの間にそんなクエストに昇華しちゃったんだね。そっか、もうよく分からないけど、頑張ってね」

 幸子さんの熱いエールを胸に、決意を新たにするのだった。

 ええと、次の材料は、あの日見た夜の夢か。

 私にはどうしても、あの日見た夜の夢がこの日に見れるとは思えないのだけれど。あの日はあの日、この日はこの日だと思う。

 まあいいや。私は考えるよりも動く派である。面倒くさいことは人に聞くのが一番。

「実里さん」

「ん?」

「あの日見た夜の夢を、どうすれば手に入れられるんでしょうか」

「詩的なことを聞く子だな」

 店主は苦笑しつつも、真面目に答えてくれる。

「そうだな。じゃあ、まず、目をつぶってみてくれ」

 私は言われるがまま目を閉じる。

「それから、あの日見た夜の夢を思い出してほしい。鮮明に思い出してはいけない。思い出したような気がするが、しかし、その記憶を辿ろうと意識した途端に夢に逃げられてしまう、ぐらいの感覚で思い出すのがポイントだ。明晰夢を意図的に見ようとする感覚だな。で、その状態で数を数える。一秒、二秒、三秒――よんどころない問題に、この時気づく。耳を澄ませても時計の針の音が聞こえないのだ。だから数を正確に刻むことは出来ない。五秒、六秒、七秒――破竹の勢いで進み始める数に意識が抵抗をやめて流され出す。九秒、十秒――いちいち正確なのかどうか気にも止められなくなる。十二秒、十三秒――重要なことは正しくあることではないと気付く。十五秒、十六秒――柔軟に考えるんだ。輪郭に意味なんて無い。十八秒、十九秒――二重の輪っかが見える。こちら側の輪っかは空色で太陽が眩しいが、あちら側の輪っかは雲だらけで空なのかどうかあやしい。二十一、二十二、二十三――西から闇が出てきて、夜になる。向こう側の輪っかが、あの日見た夜の夢だ。二十五、二十六、二十七、二十八、二十九――三途の川のせせらぎが聞こえるが、決して耳を傾けてはいけない。無視してさらに数を数える。三十一、三十二――燦々と輝き出す、あの日見た夜の夢。すかさず手を伸ばし、優しく握る。三十四、三十五――三十六計逃げるに如かず。追ってくるあの日の夜から、全力で逃げ出す。そうして目を覚ますと、手の中に、あの日見た夜の夢がある」

 私は目を開き、手の中を見る。

 何も無い。

「それこそがあの日見た夜の夢だ。こぼすなよ」

「え、あ、はあ」

 どうやら私は、あの日見た夜の夢を無事に入手してしまったらしい。

「これ、こぼしたらどうなるんですか」

「地球の中心まで落ちて、星の循環にかえる」

「ポケットにしまえますか」

「もちろん。ポケットには夢が一杯だと昔から相場が決まっている。ポケットの布は夢を透過しない数少ない布なんだ」

「ありがとうございました」

「どういたしまして」

 私はあの日見た夜の夢を丁寧に給仕服のポケットにしまい、幸子さんの元に帰る。

「どうだった? あの日見た夜の夢は手に入ったかな?」

「らしいです。ポケットに入ってます」

「実里君から教えてもらったでしょ」

「はい。変なこと言ってました」

「私も昔、言われたことある」

「あるんですか。どんな気持ちになりました?」

「謎が謎を呼んでもやもやした」

「なるほど」

 私は謎が謎を呼ぶもやもやに心が挫けそうになってしまう。有り体に言ってしまうと、また我に返りつつある。

「今度こそやめる? やめちゃう? 賢明になっちゃう?」

「いえ、これは私が言い出したこと。最後までやり遂げる責任があります」

「ないってば」

「私の幸子さんへの愛は深まるばかりです」

「愛が重い」

 幸子さんの熱いエールを胸に、最後の材料について考える。

 ……まぐろくろすけ。

 私は店内の見渡せる限りの隅っこを観察する。何もない。あるのは申し訳程度の暗闇ばかり。

 ダメだ、もっと濃度の濃い暗闇じゃないと。

 店内の闇が集積する場所を探す。

 カウンター席の下、はダメね。全然明るい。

 それぞれのテーブルの下を遠目からざっと見ても、濃い暗闇というほどの暗闇は無い。

 キッチンの下。

 いない。

 戸棚の中。

 いない。

 食器棚の隙間。

 いない。

 ゴミ箱の中。

 汚い。

 観葉植物の裏。

 いない。

 置物の影。

 いない。

 掃除用具入れの中。

 汚い。

 ポッドの中。

 いない。

 コーヒー豆の袋の中。

 香ばしい。

 お客様の影。

 失礼。

 幸子さんの影。

 好き。

 おしぼりの下。

 いない。

 二名様ご来店。

 接客。

 レジスターの中。

 いない。

 絵画の後ろ。

 いない。

 三角コーナーの中。

 汚い。

 シンクの影。

 いない。

 伝票の下。

 いない。

 本棚の裏。

 いない。

 本棚の奥。

 いた。

 目と目が合う。

「ぴぎびぇバブルブラぐべばびゅびびびび」

 それは紛れもなく、まぐろくろすけだった。

 真っ黒な暗闇の塊。形は流動的で、益体もなくもぞもぞと蠢いている。まるでそれは、光の届かない世界の穴のようだった。

「ぐびるぶるびるバブりゃバア」

 きっと健やかな眠りを起こされたからだろう、かなり怒っている。私だって寝起きをいきなり起こされたら嫌だ。けれどこれも、私と幸子さんの愛のため。まぐろくろすけには申し訳ないけれど、大人しく捕まってもらおう。

 胸中でファンファーレが鳴る。

 涼川小葉は、まぐろくろすけを手に入れた。

 まぐろくろすけを鷲掴みにしたまま、幸子さんの元に戻る。

「ついに材料を揃えました」

「おめでとう」

「これで後は、三つの材料をコーヒーで混ぜ合わせれば、惚れコーヒーの解毒薬が出来るんですね」

「出来ないけどね」

「それじゃ早速混ぜますね」

 カウンターテーブルの上に三つの材料、悪のハゲ工作員の髭、あの日見た夜の夢、まぐろくろすけ、そして当店自慢のコーヒーを並べる。

 まぐろくろすけが、これから行われることを察したのだろうか、「ぴ、ぴぎゅ、ぴギリゃぶべラぶララ」と呻いている。思わず良心の呵責にかられそうになるも、だからと言って今さらやめるわけにはいかない。私は涙を飲んでコーヒーに材料を入れ、ようとして声を掛けられる。

「コラ。食べ物で遊ぶんじゃない」

 店主だった。

「さっきから何を遊んでいるのかと見ていれば、本当に何をやっているんだ」

「み、実里さん。止めてくれてありがとうございます。なんだか引き際が分からなくなっちゃって」

「変な遊びをするのはいいが、節度は守らなきゃいかん。うちのコーヒーで遊ぶのは御法度だ」

「でも実里さんはこの前、コーヒーで遊んでいたような気が」

「僕はいいんだ、僕は。ここの節度を決めるのは僕なんだ」

「なんて勝手な!」

「とにかく、だ。だめだろ、面白半分でまぐろくろすけをコーヒーに入れるなんて」

「ぴぎゃらびれバビりぶう」

 まぐろくろすけが店主の後押しをするように鳴く。

「ちゃんと瓶詰めにして保管しとかなきゃ」

「ぴぎゃ!?」

 逃げる間もなく瓶に入れられるまぐろくろすけ。

「ぴぎゅるぐるぐれりべぁあ」

「熟成するまで暗闇に寝かしておこう。良いダシが取れるはずだ。楽しみだなあ、まぐろくろすけスープなんて、普段は高級過ぎて手が出ないからな。いつぶりだろうか」

 瓶の中で暴れ回るまぐろくろすけ。その姿を見ていると、私はなんだか凄く可哀想な気持ちになってくる。所詮は食品の材料とは言っても、元は私達と同じ生き物なんだ。分かってはいるけれど、こうして目の前で捕らえられるのを見てしまうと、凄く残酷な現実に感じられた。食育っていうのはこういうことなのかな。

「あ、あの」

「どうした?」

「そのまぐろくろすけ、私のものなんです。私が見つけたんだから、私が責任をもって飼います」

「ん、情がうつっちゃったか。でも大変だぞ、こいつを飼うのは。毎日濃度の高い暗闇をあげなきゃいけないし、巣の光度調節機器を買い揃えるにも結構な金がかかる」

「お金は働いて稼ぎます。面倒もちゃんと見ます。愛情も申し訳程度には注ぎます。だからどうか、そのまぐろくろすけを渡して下さい」

「そっか。まあ君がそこまで言うなら大丈夫だろう。ちゃんと最後まで責任をもって飼いな」

「ありがとうございます」

 瓶詰めされたまぐろくろすけを渡される。

「よかったね、小葉ちゃん」

 幸子さんが優しく言ってくれる。

「ぴば、ぴばぐりぴばりりり」

 まぐろくろすけも命拾いしてとても嬉しそう。瓶の中をびよんびよんと元気に蠢いている。

 ところで、私は何をしているのかしら。

 当初の目的がどこ吹く風になっていることに今さら気付く。

 まぐろくろすけとの出会いに気を取られている場合ではないわ。そうよ、店主の闇疑惑を暴くという設定だったじゃないの。

 けれど、もはや自分の力では到底真実にはたどり着けないような気がしてきた。私は途端に面倒くさくなってしまう。

 でも大丈夫、私は考えるより動く派なのだから。面倒くさいことは人に聞くのが一番。なんてお利口。……お利口かな。

「実里さん、あのハゲの厳つい御仁は何者なんですか。ヤクザ屋さんですか」

「大地か。あいつは小説家だよ」

「嘘でしょ!?」

「これが嘘のようで本当なんだ」

「じゃ、じゃあ、さっき実里さんが受け取っていた封筒は惚れコーヒー豆じゃないんですか」

「惚れコーヒー豆が何なのかは知らんけど、あれは次回作の原稿だよ」

「何でそんなもの実里さんが受け取ってるんですか」

「僕に見てもらいたいんだと。感想とか評価とか考察とか修正とか、そういったことをあいつは僕に頼んでくるんだよ」

「そんなの素人に頼むことですかね」

「いや、それが僕は完全な素人ってわけでもない。実は大学生の頃に趣味で書いた小説がびっくりするぐらい当たっちゃって。当時まだ小説家でもなんでもなかったあいつは、それで僕の感性をやたら信頼してる。まあそれとは別に、以前から親しかったってのもある。あと、ちゃんとあいつの担当編集者にも許可は取ってある」

「じゃあ、原稿を受け取る時の、あのいかにもな会話は何だったんですか」

「面白いかなと思って」

「もしかして私に聞こえるように話してましたか」

「どう勘違いするのかと思って」

「アップ系とかダウン系って何ですか」

「大地の小説のパターンだな」

「何でこの店は潰れないんですか」

「古本のネット販売で儲けを出してるんだ。ここの蔵書、かなり珍しい本が豊富で、それ以外の古本の品揃えもいいんだよ。好事家からも一般の古本好きからも実は人気がある。ネットからの購入だと直接店に赴くわけじゃないから分からないだろうけど」

「まぐろくろすけって何なんですか」

「何なんだろうな」

 怒涛の解決劇だった。

 最初から聞けば良かった。拍子抜けな展開にため息をついてしまう。私は仕事中に何をやっていたのだろう。途端に今日の出来事が全てバカバカしく思えてきた。いや、改めて思うまでもなくバカバカしかった。

「小葉ちゃん」

 店主との問答を静観していた幸子さんが言う。

「知らない方が面白いこともあるの」

 なにも面白くない。

「涼川さん、これからもマウンテンオーシャンの仕事、よろしく頼むな」

 にこやかに肩に手を置いてくる店主。

「特別に時給を750円にしてあげよう」

「ありがとうございます」

 何故か時給が上がってしまったので、私は笑顔で礼を言う。

 ふふふ。

 褒められると嬉しい。

 

◆◇◆◇


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