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スポンジ・コーヒー・ボブ

 海野幸子(うみのさちこ)はおかしい。筆舌に尽くし難くおかしい。

 それは別に、人並み外れて常識が無いという意味ではない。むしろ常識はある方だ。いや、というよりは知識として人並み以上には弁えていると言った方が正しいか。海野幸子は賢明な常識の物差しをもってして、周囲との正確な距離を測り、その距離を意図的に詰めたり離したり歪めたり崩したりすることで、普遍と異常の間隙を好き勝手に往来する。本人曰く、愉快だからというのも勿論あるそうだが、それ以前に、そうせずには、そうあらずにはいられないそうだ。

 日常のフラストレーションから来る発散的なおかしさでも、周囲を隔絶するばかりの排他的なおかしさでもない。海野幸子は、己の誇りと尊厳と礼節をもってして、敢えておかしな言動に走る本当におかしな人間である。海野幸子のおかしさは、他の誰かでは替えのきかない、海野幸子でしか成し得ない無類のおかしさなのだ。そして言うなればそれは、いとをかし、というような柔和で愉快なニュアンスのものである。それは長年、僕の美意識を惹きつけてやまない。

 しかし無論だが、先程から一切褒めてなどはいない。あいつがいくら他とは違う妙ちきりんな輝きをもっていようが、だからどうということはないのだ。そんなものは、あるいは同程度に違うものは、誰もが持っているし、持ち得るものなのだから。ただ気付くか気付かないか、立ち止まるかどうか、捨てるか捨てないかの程度はある。海野幸子は気付くことに抜かりなく、立ち止まらないことに躊躇せず、捨てないことに真正面からぶち当たった。誰でも出来るけれど、しかし全員が出来るわけでもない――必要性があるわけでもなく、そもそもこんなことは言うまでもなく便宜的な物言いに過ぎないのだが――だからあいつ特有のおかしさは確かに僕を魅了してやまないものだが、それは僕の好みの問題でしかなく、そしてあいつの選んだ性質がたまたまそうだったという問題でしかなく、他の並みいる要素より何の格が上というわけでも当然なく、もっと世間一般の尺度をもってして公正な視点から褒めるのなら、僕はあいつの、その特異性を培うことの出来た精神性そのものの方を褒めてやりたいのである――のだが、この話はまた今度にしよう。長くなるし、あいつの原点にまで立ち返る話だ。

 そんな(あつら)えたような、まことしやかに訳のありそうなバックボーンなどよりも、もっと表層の話をしよう。

 海野幸子は僕と同い年で、小学校の頃も高校の頃も先輩後輩の間柄で、何かにつけて一緒に時を過ごした。思い出は語り尽くせない。ちなみに中学時代は存在しない。いや、物質的には存在するが、僕の中では無かったことになっている。どうか触れないでほしい。

 そんな幸子も去年の春、僕とともに大学を卒業した。

 やつは頭が良い。頭の良さにも種類とベクトルがあるのだから、何の捻りもなく一言で頭が良いなどと言ってしまうと具体性に欠け、いかにも取って付けたように聞こえなくもないのだが、しかし実際、冗談のような体の脆弱さ、虚弱さ、最弱さを差し引いても、やつが真面目に頭を使えば将来に困ることは、おそらくない。だがしかし、やつは社会の(ともがら)となり資本の(いしずえ)を築くことを放棄した。有り体に言ってしまえばニートの道を選んだ。

 ニート。

 何の就労にも付かず職業訓練も受けず脛かじりに甘んじてしまうという、二十一世紀の若者共の惰性や猶予に巣食う困った病気である。これがどうしてたちの悪い病気で、一度発症すると慢性化してしまい、さらには発症期間が長いほど完治が困難になる。しかも失語症やコミュニティ障害、不眠症や過食症、運動能力の著しい低下など様々な合併症が引き起こされる危険性のある恐ろしい病気であることは周知であろう。僕ですら知っているのだから幸子だって知っている。だがなぜかやつはニートの道を選んだ。

 幸子は言った。

「飽きること風のごとく、聞き流すこと林のごとし、浪費すること火のごとく、働かざること山のごとし――働かざること山のごとし!」

 僕はたしなめてやった。

「武田信玄の旗に泥を塗るのはやめろ」

 けれど幸子は意に介さず、さらにこう言った。

桃李(とうり)働かざれども下自ずから(けい)を成す」

「それはどういう意味だ」

「桃や(すもも)は自ら働きはしないけれど、その魅力で自然と下に人が集まって、いずれ自ずと道が出来るって意味だよ。知らないの?」

 だから働かなくてもいいとでも言いたげだ。

「知らん」

 そんな言葉は存在しないからだ。仮に酷似した言葉があるとして、それは“働かざれど”ではなく“言わざれど”である。

「石に(くちすす)ぎ流れに(まくら)す、という言葉なら知っている」

 多少勝手かつ乱暴に意訳するなら、屁理屈が達者だな、という意味である。中国の故事で、孫楚(そんそ)なる人物の言い間違えと負けん気から生じたけったいな言葉だったと記憶している。

 そんなわけで、幸子は現代人の風上にも風下にも置けない道楽者なのだ。

 そんな幸子の、まるで全てを知っているかのように語る僕は、山野実里(やまのみのり)という、どこにでも自生する一般人である。種族は人間。幸子なる光源とは似ても似つかぬ、凡百凡人凡庸凡愚だ。なのだが、旧知の輩は僕のことを、幸子の影に相応しい奇態、むしろあいつの方が危なっかしい、などと真しやかにほざいてやまない。大変失礼つかまつる。僕の言動が若干変なのは、あくまで幸子に合わせ、幸子に影響されている故であって、決して僕の素によるところではないのである。類が友を呼び死屍累々同じ墓穴の(むじな)が二つ、などという言葉があった気もするが、いや、そんな言葉はない。

 さて、この物語は、そんな自称普通の凡夫が普通の皮を被って、海野幸子なる変な人とともに日々の体たらくを綴る冴えないお話である。


◆◇◆◇


 僕は現在ブックカフェ――マウンテンオーシャンなる店舗を経営している。若輩ながらも店主だ。チェーンではなく個人経営のため、店の全責任と権限を持っている、などと言うとなんだか身の丈に合わないことこの上ないのだが、実際その通りで、こんなちょっと前まで大学生でいたちんちくりんが自力で個人経営の店舗など構えられるわけもなく、つまりこの店は他人から譲り受けたものだということである。その人はまあ、言わば僕の恩師で、この人がまた一筋縄ではいかない人で、今は無期限の世界旅行に出ているのだが、一筋縄ではいかんのでひとまず割愛しておく。

 今日も今日とて暇である。

 山と海をモチーフに装飾された店内には、恩師である元店主が旅先から集めた骨董品やお土産が散在し、わけのわからぬ風情を醸している。不思議な海底に映える豊かな山というイメージだそうで、魚類や珊瑚、海草とともに動物や森林、山菜などの絵が壁面をほどほどに飾っている。ぼーっとしていると、潮風に混じる澄んだ山苔の匂いを錯覚しそうになるが、しかし実際に嗅いでみると、漂うのは古びた紙とコーヒー豆の匂いだ。ここは山でも海でもなく、人の営みを綴じた本を捲ることが醍醐味の、人の営む喫茶なのである。

 ブックカフェとはその名の通り、コーヒーなどを満喫しながら読書を嗜んでもらうことを趣旨とした喫茶店である。元々、本や漫画などを置いてある喫茶店というのは昔からあるが、ブックカフェはその趣を強く推したもので、普通の喫茶と違って気に入った本はその場で購入することが出来る。本のセレクトも店によってまちまちであり、店の雰囲気を込みで楽しみたいお客も多いため、本がありコーヒーを飲めるというのはどこのブックカフェも共通ではあるが、店によって実態も客層もまるきり違う。ここマウンテンオーシャンはわりと昔から経営していて、元からブックカフェを名乗っていたわけではなく、趣味で始めた喫茶店に趣味で本を置いておいたら、なんだか昨今出没し始めたブックカフェなる存在を常連から聞かされ、では真似てみるかと改装したのが、その由来だそうだ。

 なので、置いてある本もそこそこに古いのが多い。最近は僕の趣味で新刊も置いてあるが、それでも古い喫茶であるため、客層もやはり古い――つまり常連客が多く、常連客ありきで経営が成り立っている。僕も以前は常連客の一人で、今日も店内は相変わらず常連客ばかりだ。

 その代表格でありニート、海野幸子は今日もやはり居る。

 僕の目の前、つまりカウンター席をいつものように陣取り、黙々と本を読んでいる。

 何が面白いのだろうか、彼女は口を、落とした輪ゴムのような微妙な楕円形に開き、薄ら笑いを浮かべている。本の表紙には、でかでかと『楽して金持ちになる方法』と書いてある。

「幸子、お前」

 本気でその道を突き進むつもりか、とは怖くて言葉が続かなかった。

 僕が幸子の将来に一抹も二抹も不安を覚え悶々していると、幸子が気付いて顔を上げる。

「なに。なんか文句あるの?」

「残念ながら幸子、僕はお前なんぞ嫁になんかもらってやらないからな」

「告白してもないのにフラれるなんて!」

「いや、玉の輿を狙われる前に先手をだな、打っておこうと思って」

「衝撃に打たれたよ。どうしたの実里君、なんでいきなり私が結婚を申し込んでくることを想定したの。いいよ、言ってほしいなら言ってあげるよ、結婚して」

「拒否」

「告白してもフラれるなんて!」

「あのなあ幸子、そんな本ばっか読んでるから、お前はニートなんだ」

「ああ、これ」

 幸子は僕の懸念に気付いたようだ。

「実里君、なんか勘違いしてるよ」

「何がやねん。そんな本読んで楽しようったってそうはいかねえよって僕は言ってるんだ。どうせ、金持ちと結婚して人生早々にアガろうぜとか書いてあるんだ、きっとそうだ」

「うん、書いてある」

「うわ、ほんとに書いてあるのかよ」

 当てずっぽうで言ったつもりだったのだが。

「この章だね」

 幸子はページを開き、本を差し出してくる。

 冒頭を読んでみる。

 そこにはこう書き出してあった。


◆◇◆◇


第四章【金持ちと結婚して人生早々にアガろうぜ】


 私は気付いたのだ、金持ちになる一番手っ取り早い方法を。金持ちと結婚すればいいんだ。

 ようは玉の輿よ、玉の輿。

 私は今までなんて馬鹿だったんだろう、こんな簡単な方法に気付かないなんて。

 アフィリエイトで時間を無駄にしたり、FXで有り金全部溶かしたり、株価暴落に巻き込まれたり、駄馬に虎の子を突っ込んだり、滂沱のごとく流れる銀玉に翻弄されたりする必要なんて、なかったんだ。わざわざ、この、偉大なる私が! そんな辛酸を嘗める必要なんてなかったんだ。

 そうと決まれば、早速作戦を練らないと。きっと今もどこかでイケメン有料物件が、私の人生のアガリのために手ぐすね引いて待っているに違いないんだ。

 私はパチンコ店から雀の涙ほどの戦利品を手に外に出て、稲妻のごとき天才的気付きに高々と声を上げた。

「男は星の数ほどいる」

「だが女も星の数ほどいる」

 通りがかりの小汚ない鼻垂れ小僧が、すれ違い様に渋い声でアンチテーゼをおっ立て去っていった。

「なに、今のクソガキは」

 いや、そんなことは今問題じゃない。

 私は懊悩した。

 そう、何もこの星に生まれし女は私だけではない。(アダム)の数だけ(イブ)は誕生してしまうのよ。つまり、需要と供給の相関関係の間に必然と相場市場は発生してしまうということ。

 私は街角のカーブミラーを見上げる。何度見返しても骨格やパーツの造作は変わらない。こんなでは、価格競争の過酷な振るいに掛けられることは避けられない。

「私の顔は粗く、網の目は細かいわ」

 私は形而上学的大問題に絶望した。


◆◇◆◇


「あれ、これ、小説だな」

「うん。何だと思ったの」

 『楽して金持ちになる方法』だなんて俗欲にして品のない題目が銘打ってあるものだから、僕はてっきり、世俗の荒波に揉まれることを選択から排除したくて仕方のない層をターゲットにした、ピーマンないしは耳障りのやたら良いマニフェストのごとき中身の無い、一山いくらの駄目なノウハウ本か何かだと思ったのだが、どうやら違うようだ。

「この本はね、たぶん今実里君の考えたような、ちょっと人生から目を逸らしたくなってる層を視点として、ブラックジョーク気味に描いた物語。この題名はだから、皮肉ってことだね」

「ふうん」

 僕はアホ面を作って天井を仰ぎ、目前に『楽して金持ちになる方法』をかざし、ページをパララララと高速で捲りつつ言う。

「一発芸、幸子の走馬灯」

「殴るよ」

 蹴られた。

 カウンターテーブル下部の空きから鋭いローキックをもらってしまった。

 しかし虚弱が靴を履いているようなそれに蹴られたところで、蝶が触れた程度の衝撃しか感じられなかった。むしろそのこそばゆさに癒されてしまう。

 僕は怒る。

「おいコラ、殴るって言うならちゃんと殴れ、言葉には責任をもて」

 殴られた。

 遅効性ではあるが見事な責任だった。

 しかし脆弱が袖を纏っているようなそれに殴られたところで、タンポポの綿毛が触れた程度の衝撃した感じられなかった。むしろそのこそばゆさに和んでしまう。

 幸子は怒る。

「私の人生を、その本の主人公に例えてコケにしてるってことで、よろしいね」

「よろしい。的確かつ分かり易いツッコミをありがとう」

 やれやれとこれみよがしに呆れた風を装う幸子。

「こんな駄目なやつと私のどこが一緒なの。コケにするのもいい加減にしてくれたまえ、実里坊や」

「だってお前は現に駄目なやつじゃないか」

「またまたご冗談を言いなさんな」

「だったら、いつまでもダラダラしてないで、働け。少なくとも、お前は、社会に微塵も貢献していない、駄目な、脛かじり女だろう、違うか、ははあん?」

 一言一句を突きつけるように言ってやる。

 感じ悪いことこの上ないにも程があるったらありゃしないし、大学卒業したばかりですぐどうこう言うのも実際いくらか酷なような気もするが、そこはそれ、幸子の自称保護観察係を謳う僕の、燦然と正義に輝く嗜虐心、いや間違えた、そう、責任感が、このまま甘やかしていても仕方がないと言っているのだ。心を鬼にして責めたてろと嗜虐心、だから違う間違えた、そう、責任感に苛まれてしまうのは、致し方ないのではないか。

「ちっ」

 幸子は舌打ちする。

 しかし、そこで終わる幸子では勿論ない。

 バンとテーブルを両手で叩き、おもむろに立ち上がる。なんだなんだと店内の他の客達も幸子に注目する。幸い常連客ばかりで助かる。それを見越しての行動だろうが。

 そして長ったらしい口上を垂れるのであった。

「実里君、あなた達は間違ってる。いや、敢えて、正しくなどはない、とでも言おうか。それは、そもそもが、人は一人で自己完結するしかないからなの。というより、それしか出来ないの。あらゆる理屈の進展は自己矛盾の輪から逃れられないのだから。科学しかり哲学しかり。たとえ粒子同士の加減乗除が知れても、なぜそうなるのかは、やってみたらそうなったという対症療法の堆積でしかなく、それらでそれそのものの原理を証明するのは自己による自己の証言でしかないの。たとえ概念の形骸化が今もってなお私の口を介していようと、概念を証明する道具が概念自体以外には存在し得ないのだから、それも自己による自己の証言でしかないの。確定という存在は存在するけれど、確定という行為には至れないから、確定という概念の存在は証明出来ないの。何よりも主観は客観に近づくことは出来ても客観と取って代わることは出来ない。そしてこの理屈に則ると、この理屈自体をも、この問題の対象に含んでしまうことになる。これは現代哲学の前提として私達のリアルを阻む学術的事実なの。だからね、ある理論大系を成すには、上手く始まりと終わりの帳尻を合わせて閉塞的な輪っかにするしかないの。そこで、ある人は言いました。事実なるものはない、ただ解釈だけがあるって。とてもずるい言い方。でも付け入る隙がなく自己完結してはいるでしょ。屁理屈も言いようで、理屈も言いようによっては屁理屈だと私は思う。私達には、そうやって閉じた自分の輪に閉じこもることしか出来ないの。でも逆に言えば、その輪を内包することが出来たなら外界からの刺激は必要としないってことであって、それは情報や金銭の流入、コミニュケーションにすら本来は十分な価値しかないってことで、必要なことではないの。つまり働く必要なんてないの」

「じゃあ、その栗も明らかに必要ないな」

 僕は愚にもつかない幸子の詭弁を叩き折る――もとい、幸子が注文したまま放置していたモンブランケーキの頂点に鎮座まします和栗を奪い、ひょいと頬張る。

「う、うまいぜこの栗、超うま、うまうま」

 幸子は泣いた。

「う、うめえうめえ、うまははは、ざまあねえぜははははは」

 僕は高々に笑ってやった。

「また痴話喧嘩か」

 客達は呆れた。

「わたしの栗が、死んだ――死んじゃった」

 幸子はさめざめと泣いた。

「残りもいただきだぜぐわははははは」

 そしてモンブランケーキは跡形もなく死に絶える。

「いやああああああ!」

 幸子の絶叫が店内に響く。

 そしてこの世のありとあらゆる不幸を背負ってしまったような青白い顔で項垂れる。目の焦点はどこか別の世界に置いてきてしまったようだ。貞操を破壊され自暴自棄になっているドラマの女優も顔負けの目だ。怖い。

「私の989円が」

「安いのな、お前の絶望。微妙にケチくさい値段だぜ。誰の価格設定だ。僕か」

「私の今月のお小遣いを、返せ」

 しょっぱい小遣いだ。いや、甘かったけども。

 幸子は僕の胃のあたりに力のないパンチをかます。だが最弱が詭弁を装って歩いているようなやつにパンチされたところで、ケサランパサランが触れた程度の衝撃しか感じられなかった。むしろそのこそばゆさが微笑ましかった。

「まあまあ、そうくさるんじゃない。ほら、当店自慢のコーヒーをいっぱいくれてやる。ひとつって意味の一杯じゃあないぞ、たくさんって意味のいっぱいだぞ。実里印の僕ブレンドだ」

 幸子は弱々しい眼光で僕を射抜く。しかし、店内に漂うコーヒー豆の匂いにほだされたのか、いっぱいだよ、と小さく呟く。

 よろしい。僕が店主を自称するだけの、店に巣食うただの変な人ではないということを証明しよう。普通なる店主の普通たる腕前をご覧に入れてしんぜよう。

 まずサーバーに多少の湯を入れ、温めておく。

 次にペーパーフィルターの下と端を、それぞれ表と裏を互い違いに折り、ドリッパーにセットする。

 深挽きしてあるマウンテンオーシャンオリジナルブレンドのコーヒー豆を、十グラムの匙ですくい、それを三杯ちょっとドリッパーに入れる。コーヒーに湯を均等に浸透させるため、下の方を軽く叩いてならしておく。サーバーの上にドリッパーをセットする。

 九十度前後の湯を専用のポットに入れる。この時、湯の温度は百度ぐらいの方が豆の成分が濃く出るのだが、そうしてしまうと豆の雑味(渋み、えぐ味など)までも出てきてしまうので控える。

 ポットを左手で持ち、蓋を片手で軽く押さえ、湯を軽く落とすようにドリッパーへ注いでいく。真ん中から外側へ向かって全体に塗り広げるように、渦を巻きながら注ぐ。しかしこれは、まだ蒸らし――ドリッパーに入った豆を濡らして味を滲みださせやすくする作業――であって、いわゆる下準備だ。実際にコーヒーを抽出するのはここからである。

 まず真ん中に、少しずつ注いでいく。それが染み込み切る前に次の湯を注ぐ。少しずつ、一度に入れる湯の量を増やしていき、豆を膨らませていく。中心に軽い円を描くように湯を落としていくのがポイントだ。この時、味のばらつきを防ぐため、ペーパーフィルターに直接湯が当たらないよう気をつける。抽出具合を見計らい、まだ中に多少の湯が残っている状態のままドリッパーを外す。湯が無くなるまで出し続けると、ドリッパーの上の方に残っている雑味までが下に抽出されてしまうからである。

 これで完成だ。

 当店自慢の実里印の僕ブレンドコーヒーである。

「実里さん」

 そこで女性店員から声がかかる。748円という、おそろしくせせこましい時給で雇っている給仕である。都会というにはお粗末だが、田舎というにはいささか賑やかなどっちつかずな塩梅の街であり、その相場からしてはかなり安い賃金ではあるのだが、しかし本人は喜んで連日のシフトを受け入れてくれている。なぜなら楽だからだ。うちに来る客などたかが知れている。僕は一時期有名チェーンの飲食店のバイトをしていたことがあるのだが、あれらに比して十分の一以下は客入りが慎ましい。客層も、唸り吼える胃をいち早く鎮めたくて仕方のない飲食チェーンのあの猛々しい猛禽共とは違い、大概はコーヒーとわずかばかりの添えものだけですまし、長時間読書を嗜んでいるだけの暢気な者ばかりである。よっぽど忙しくない限り注文される飲食品の調理は全て僕一人でまかなえるため、彼女は忙しい時は数分おき、そうでない時は数十分おきの注文の運搬を担当する以外、店内の本を適当に見繕って目立たぬところで読書をしている。この、ちょっとだけ働いて余暇は自由にしていればいいというスタンスを彼女はいたく気に入っているらしい。仮に読書が有意義な行為であるとするなら悪くない職場と言えなくもない。ちなみにレジはもう一人の店員が担当している。しかしながら暇過ぎて、経営上彼女らを長時間雇う必要性は完全に無い。明らかに人件費の無駄であり、そんなことで儲けが出るのかと言えば、出ない。のだが、不思議なことに経営は成り立っている。裏で色々やっているからだ。やましいことはしていないと一応断っておく。

 彼女はおそらく僕達のやりとりを見ていたのだろう、幸子をちらと伺ってから続ける。

「コーヒーの注文入りました」

「え、一杯分?」

「いえ、四杯です」

 ということは、今淹れたコーヒーを全てそのまま出せば足りる計算だ。コーヒーだけ一度に四杯の注文なんて珍しいと思いつつも、僕は迷わず幸子に出すはずだったコーヒーを店員に託す。

「あれ、私の分は?」

「落ち着け幸子。今からまた作ればいいさ」

 僕は再び同じ作業に取り掛かる。

 割愛。

 出来上がり。

「実里さん、コーヒーの注文入りました」

「え、またあ?」

 珍しいこともあるもんだ。

「四杯です」

 僕は迷わず幸子に出すはずだったコーヒーを店員に託す。

「ねえ、私の分は?」

「黙れ幸子。また作りゃあ、ええんじゃろがい」

 再度作る。

「実里さん、コーヒーの以下略」

「ええい、小癪な客が」

 また淹れたてコーヒーを持って行かれてしまう。

 なぜだ、なぜこうもピンポイントで僕と幸子のコーヒーを奪っていくのだ。客ごときが何様のつもりだと言うのだ。お客様か。うん。お客様は絶対ですね。

 だが僕は挫けなかった。きっとこれは、天におわす神がかり的何者かが、幸子に989円の小遣いを取り戻させないため邪魔をしているのだ。きっと僕がモンブランケーキを唐突に食べたくなってしまったのも、神がかり的何者かの仕業に違いない。ああ、なんて可哀想な幸子。僕は憐れな小娘にせめてもの救いをもたらすため、めげずにコーヒーを淹れ続ける。

 だがしかし、淹れたそばから略奪されていくコーヒー。

 真面目な話をすると、当然ながら神がかり的何者かの仕業ではない。このゲリラ的コーヒー過剰オーダーの原因は、一人の客だ。僕は客席に、その姿を見る。

 角ばった体に角ばった顔。首は太過ぎて、遠目からではどこからが首でどこからが同体なのか分からない。先天的な体質なのか絵の具を被っているのか蜜柑の食べ過ぎなのか、全体的に強く鮮烈に黄ばんだ肌。瞳は無闇にでかく、前歯が発達していて常にむき出しになり、鼻はピノキオのように長く、体中に謎の斑点が散らばっている。腕と足は、同体と首と頭の太さに比べて不自然に細い。

 彼は通称、スポンジ・コーヒー・ボブ。本名は知らない。姿が某国の有名アニメキャラに酷似しているという見解もあるが、あえて全く違うと断定する。なぜそう断定するのかは、言及するなかれ。

 最近この界隈に生息しているらしく、コーヒーを販売している店であればどこにでも出没し、コーヒーばかりを注文し、スポンジのように摂取し続ける謎のボブだ。人間かどうかは知らない。ボブはボブだ。

 体がコーヒー色に染まるまでコーヒーを飲み続けるというもっぱらの噂であり、その色合いがまるで黒色人種のようであるから“ボブ”なのだそうだが、黒人がイコールでボブだなんて安直甚だしく、全国のボブさんと黒人に対して失礼極まりない。しかし命名者は実のところ、いかにも他人から聞いた風を装っているこの僕である。僕がたまたま出かけた先の飲食店で見かけ、思わず口が滑ってしまい、それが風に乗って広まったという由来を知る者は少ない。大変申し訳ない。

 ともかく、スポンジ・コーヒー・ボブは愉快なにやけ面でコーヒーを吸い続ける。

「私のコーヒー」

 みるみる悲しそうな顔になる幸子。

 せかせか動く定員。

 どんどん潤う店の財政。

「かき淹れ時じゃあ」

 僕はテンションが上がってしまう。

「うほ、うほほ、どうしたどうした、あれがこの店に現れるなんて、商売繁盛の兆しか? 幸子、お前が可哀想なお陰で僕は順風満帆だぜ、やったな」

「わ、私のコーヒーは? ねえ、私のモンブラン様と引き換えたいっぱいのコーヒーは!?」

「お前の、コーヒーなど、これで十分だあ!」

 僕は幸子に取って置きのコーヒーを出す。といっても、まともなコーヒーは全てお客様にお出ししてしまっている。ではどこから出てきたのかというと、コーヒーを淹れる際、ドリッパーの上方に残った雑味たっぷりの、本来なら捨てるべき上澄みである。先ほどから溜めていたのだ。いっぱいコーヒーをお出しした副産物として、いっぱい出来た。旨みが薄く、渋みとえぐみがたっぷりの、実里印の僕ブレンドだ。

「たんとお飲みよ」

 特別サービスでジョッキで出してやる。

 ちなみにこれが雑味たっぷりコーヒーであると、幸子にはバレないように出した。薄い色合いをごまかすためにコーラを混ぜたため、よく見るとぽこぽこ泡が浮いてくる。

「いっぱいの一杯だ」

「これが実里君の精一杯なんだね」

「忙しくてもういっぱいいっぱいなんだ」

 幸子は、いつも注文するのとは様子の違う妙なコーヒーに訝りながらも、ぐいと一息にやる。

「ま、まずいよ、まず過ぎるよ実里君、コーヒーの腹黒さをじっくり煮詰めたような味がする。まずさのせいか、心なしか口の中に微炭酸っぽい刺激が広がるんだけど。ここのお客さんは、さっきから平気な顔してこんなの飲んでるの? どうしよう、私の舌がおかしくなったのか、私以外がおかしくなったのか」

 答えは店主がおかしい、である。

 いやいや、僕は普通だ。

「幸子、残念だったな。おかしいのは、お前さ。僕が保証する」

 相手の性質を利用した盛大な責任転嫁である。このために僕は、長々と幸子のおかしさを冒頭で語ったと言っても過言ではない。

「い、いとをかし」

 店内に魂の言葉が染み渡る。

 しかし幸子は、健気にも雑味コーヒー(コーラ割り)を飲み干した。

 どうしたことか口からつつつと黒い液体を垂れ、そのまま動かなくなる。意識を失ったようだ。幸子の矮小な胃袋は、雑味コーヒー(コーラ割り)をジョッキ一杯分も濾過する機能は持ち合わせていなかったのだろう。きっと胃の消化機能に集中するために他の身体機能を停止したに違いない。

 今日も楽しそうで何よりである。こちらも実に楽しい。しかし幸子はしばらく動けなさそうだ。僕は黙祷を捧げた後、口笛を吹きながらコーヒーフィルターの端を折り曲げる。

 そうして今日も今日とて、幸子との漫談で培ったエネルギーを源に、マウンテンオーシャンの愛すべき客共に古びた本とコーヒー豆の匂いを提供するのだった。


◇◆◇◆


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