第捌話 迷いの窓
夏の盛りを過ぎ、店には少しだけ穏やかな時間が戻っていた。
萬屋の朝は、相変わらず遅い。
表の札は裏返されたまま、通りを行く人影もまだまばらで、店の中には湯の沸くかすかな音だけが満ちている。
千隼は卓の端に鞄を置き、慣れた手つきで留め具を確かめた。
教科書の角を揃え、筆箱を押し込み、最後に一度だけ中を覗き込む。
「……忘れ物は」
小さく呟いて、ふと顔を上げた。
帳場の向こうでは、篝が帳面を開いている。視線は落としたままだが、気配にはきちんと気付いているらしい。
千隼は少し迷ってから、声をかけた。
「先生、今日はクラブがあるので帰りが少し遅くなります」
紙をめくる音が静かに止まる。
篝は顔を上げ、千隼の様子を一度だけ確かめるように見た。
「そうですか」
やわらかな声だったが、すぐに視線が戻る。
「……それじゃあ、行ってきます」
「ええ、お気をつけて」
外の空気は、まだ朝の冷たさを残している。
引き戸を細く開けると、薄い光が店の床に差し込んだ。
千隼が一度だけ振り返る。
篝は帳面へ戻していたが、ふと思い出したように顔を上げた。
「――千隼」
戸口で足が止まる。
篝は穏やかに目元を緩めた。
「行ってらっしゃいませ」
静かな見送りだった。
千隼は、笑顔で小さく会釈し、外へ出ていく。
戸が閉まり、萬屋の中にゆるやかな静けさが戻った。
*
昼を回った頃。
萬屋の中は、朝の静けさをそのまま引きずっている。
篝は帳場で帳面を繰りながら、時折、湯吞に手を伸ばしていた。
表を行き過ぎる足音が、ひとつ。
それきり、また遠のく。
そのとき。
――りん。
店の奥で、電話が鳴った。
篝は顔を上げ、二度目の呼び出しの前に受話器を取る。
「はい。萬屋でございます」
受話口の向こうで、控えめな男の声が続いた。
篝は急かすことなく、静かに相槌を打つ。
「……はい。ええ、承っております」
「あの……以前、勤めていた学校の近くに住んでいたとき——窓の前に立つと、落ち着かなくて」
「先月、転勤したんですが……引越し先でも、同じことが続いていて」
「転勤先の、お住まいでも」
「はい。部屋が違うのに……」
声が、少しだけ揺れた。
「窓のそばに立つと、誰かに見られているような気がして、眠れなくて」
篝の筆先が、ほんのわずかに止まる。
だが次の瞬間には、何事もなかったように動き出した。
「……かしこまりました。一度、拝見に伺いましょう」
受話器を置く。
店内に、再び昼の静けさが戻った。
篝は書き留めた紙へ視線を落とす。
——窓際に立つと、落ち着かない。
——転勤後も継続。
それ自体は、珍しい相談ではない。
帳面を閉じ、湯呑に手を伸ばしかけて——
「……転勤、ですか」
誰に向けるでもなく、小さく呟く。
店内には、変わらぬ静けさが満ちていた。
*
依頼主の住まいは、駅から少し離れた古いアパートの一室だった。
案内され、篝は室内をゆっくりと見渡す。
段ボール箱がまだいくつか積まれている。
引越してまだ日が浅いらしい。
本棚には、理科の教材が几帳面に並んでいた。
「……こちらです」
依頼主が、窓際を指した。
東向きの、小さな窓。
外はありふれた住宅街で、人の気配はない。
「ここに立つと、その……」
言葉を濁す。
三十代ほどの、穏やかな顔立ちの男だった。
篝は静かに頷き、窓辺へ歩み寄った。
足を止める。
——その一瞬。
うっすらと。
背中に、重みが触れた気がした。
風ではない。
気配とも、少し違う。
だが——
(……なるほど)
それを言葉にはしなかった。
篝は瞬き一つ分だけ目を細め、それから何事もなかったように窓の桟へ指先を触れる。
冷たい。ガラス面は、よく磨かれていた。
「……特に、破損などは見受けられませんね」
穏やかな声だった。
依頼主が、ほっと息をつく。
篝はもう一度だけ室内を見回した。
本棚の背表紙。
教材の几帳面な並び。
段ボールの隙間から覗く、小さな植物の鉢。
「念のため、数日ほど様子を見ます。また何かございましたら、いつでも」
柔らかく頭を下げる。
依頼主は何度も礼を言いながら、篝を見送った。
*
萬屋へ戻る頃には、日がいくらか傾き始めていた。
篝は帳場に腰を下ろし、書き留めを開く。
それから、いつも通り整った文字で書き加えた。
——経過観察。
帳面を閉じる。
「……そろそろ、帰ってくる頃でしょうか」
店内には、変わらぬ静けさが満ちていた。




