表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/12

第捌話 迷いの窓

 夏の盛りを過ぎ、店には少しだけ穏やかな時間が戻っていた。


 萬屋の朝は、相変わらず遅い。

 表の札は裏返されたまま、通りを行く人影もまだまばらで、店の中には湯の沸くかすかな音だけが満ちている。


 千隼は卓の端に鞄を置き、慣れた手つきで留め具を確かめた。

 教科書の角を揃え、筆箱を押し込み、最後に一度だけ中を覗き込む。


「……忘れ物は」


 小さく呟いて、ふと顔を上げた。


 帳場の向こうでは、篝が帳面を開いている。視線は落としたままだが、気配にはきちんと気付いているらしい。


 千隼は少し迷ってから、声をかけた。


「先生、今日はクラブがあるので帰りが少し遅くなります」


 紙をめくる音が静かに止まる。

 篝は顔を上げ、千隼の様子を一度だけ確かめるように見た。


「そうですか」


 やわらかな声だったが、すぐに視線が戻る。


「……それじゃあ、行ってきます」

「ええ、お気をつけて」


 外の空気は、まだ朝の冷たさを残している。

 引き戸を細く開けると、薄い光が店の床に差し込んだ。


 千隼が一度だけ振り返る。


 篝は帳面へ戻していたが、ふと思い出したように顔を上げた。


「――千隼」


 戸口で足が止まる。


 篝は穏やかに目元を緩めた。


「行ってらっしゃいませ」


 静かな見送りだった。

 千隼は、笑顔で小さく会釈し、外へ出ていく。


 戸が閉まり、萬屋の中にゆるやかな静けさが戻った。



   *



 昼を回った頃。


 萬屋の中は、朝の静けさをそのまま引きずっている。

 篝は帳場で帳面を繰りながら、時折、湯吞に手を伸ばしていた。


 表を行き過ぎる足音が、ひとつ。

 それきり、また遠のく。


 そのとき。


 ――りん。


 店の奥で、電話が鳴った。


 篝は顔を上げ、二度目の呼び出しの前に受話器を取る。


「はい。萬屋でございます」


 受話口の向こうで、控えめな男の声が続いた。

 篝は急かすことなく、静かに相槌を打つ。


「……はい。ええ、承っております」


「あの……以前、勤めていた学校の近くに住んでいたとき——窓の前に立つと、落ち着かなくて」


「先月、転勤したんですが……引越し先でも、同じことが続いていて」


「転勤先の、お住まいでも」


「はい。部屋が違うのに……」


 声が、少しだけ揺れた。


「窓のそばに立つと、誰かに見られているような気がして、眠れなくて」


 篝の筆先が、ほんのわずかに止まる。

 だが次の瞬間には、何事もなかったように動き出した。


「……かしこまりました。一度、拝見に伺いましょう」


 受話器を置く。

 店内に、再び昼の静けさが戻った。

 篝は書き留めた紙へ視線を落とす。


 ——窓際に立つと、落ち着かない。

 ——転勤後も継続。


 それ自体は、珍しい相談ではない。

 帳面を閉じ、湯呑に手を伸ばしかけて——


「……転勤、ですか」


 誰に向けるでもなく、小さく呟く。

 店内には、変わらぬ静けさが満ちていた。



   *



 依頼主の住まいは、駅から少し離れた古いアパートの一室だった。

 案内され、篝は室内をゆっくりと見渡す。


 段ボール箱がまだいくつか積まれている。

 引越してまだ日が浅いらしい。

 本棚には、理科の教材が几帳面に並んでいた。


「……こちらです」

 依頼主が、窓際を指した。


 東向きの、小さな窓。

 外はありふれた住宅街で、人の気配はない。


「ここに立つと、その……」

 言葉を濁す。


 三十代ほどの、穏やかな顔立ちの男だった。


 篝は静かに頷き、窓辺へ歩み寄った。

 足を止める。


 ——その一瞬。


 うっすらと。

 背中に、重みが触れた気がした。


 風ではない。

 気配とも、少し違う。


 だが——


(……なるほど)

 それを言葉にはしなかった。


 篝は瞬き一つ分だけ目を細め、それから何事もなかったように窓の桟へ指先を触れる。

 冷たい。ガラス面は、よく磨かれていた。


「……特に、破損などは見受けられませんね」

 穏やかな声だった。


 依頼主が、ほっと息をつく。

 篝はもう一度だけ室内を見回した。


 本棚の背表紙。

 教材の几帳面な並び。

 段ボールの隙間から覗く、小さな植物の鉢。


「念のため、数日ほど様子を見ます。また何かございましたら、いつでも」

 柔らかく頭を下げる。


 依頼主は何度も礼を言いながら、篝を見送った。



   *



 萬屋へ戻る頃には、日がいくらか傾き始めていた。


 篝は帳場に腰を下ろし、書き留めを開く。

 それから、いつも通り整った文字で書き加えた。


 ——経過観察。


 帳面を閉じる。

「……そろそろ、帰ってくる頃でしょうか」


 店内には、変わらぬ静けさが満ちていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ