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第漆話 迷いの団地

 歪んだ空間の奥から、かすかな気配が流れてくる。


 子供の笑い声は、すぐに遠のいた。

 篝は、ゆっくりと息を吐く。


「……強い悪意は、感じませんね」

 その声音に、千隼の肩の力がわずかに抜けた。


「じゃあ……」


「ええ。おそらく——」


 篝の視線が、見えない階段の先へ落ちる。

「迷い込ませているだけ、でしょう」


 千隼は、足跡の続く先を見つめる。


 階段の輪郭は、薄く重なったまま。

 その先に、ぼんやりとした“扉”の気配があった。


 ——眠っている。

 ふと、そんな感覚が胸に落ちる。


「先生」


「どうしました」


「……あの先、怖い感じ、あんまりしません」


 短い沈黙。

 篝は、すっと目を細めた。


「……あなたがそう感じるなら、信じましょう」

 静かに、一歩前へ出る。


「起こさないよう、参りますよ」

 千隼は小さく頷いた。


 存在しない階段を上りきった先。


 そこに、一室。

 団地の造りとよく似ている。

 だが——本来、ここに部屋があるはずはない。


 扉が、わずかに開いていた。

 篝は指先でそっと押す。


 ——きい、と。


 乾いた音。

 室内は薄暗く、畳の匂いに似た、古い空気。


「……」


 千隼が息を呑む。


 部屋の隅。

 子供たちが、寄り添うように眠っていた。


 穏やかな寝息。

 苦しそうな様子は、ない。


「……夢、ですね」


 篝が静かに呟く。

「未練の強い怪異が、よく作る形です」


 千隼は、胸の奥のざわつきが、怖さではないことに気づく。


 そのとき。


 ——す、と。


 背後の空気が揺れた。


 振り返る。


 部屋の入口に、女が立っていた。


 古い、紺色のエプロン。

 色が抜け落ちて、輪郭だけが残っているような。


 だが、その目だけが——

 子供たちから、離れない。


「……帰さなきゃ」


 かすれた声。

 一歩、女の影が揺れる。


「まだ、小さいのに」


 千隼の胸が、わずかに締まった。

 篝は、深く一礼する。


「お子さんを、探しておられるのですね」


 女の唇が、ゆっくりと動く。

「……ひとりで、帰れないの」


 視線が、眠る子供たちへ落ちる。


「だから……」


「ここで、待たせてるの」


 静かな声。


 部屋の空気が重く沈む。

 篝の目が、細まった。


「……連れていかないで」


 女の声は、ひどく小さい。


 懇願するようでいて、

 それでも確かに——拒んでいた。


 短い沈黙が落ちる。


 篝は、穏やかなまま告げる。

「ご安心ください」


 静かに、しかしはっきりと。


「この子たちは、帰る場所があります」


 女の輪郭が、びくりと揺れた。


「……だめ」


 今度の声は、はっきりしていた。


「帰したら……」


 ぎ、と。


 空気が、じわりと軋んだ。


「また、誰も迎えに来なかったら——」


 言葉が、そこで途切れる。

 そして、かすれた声で続ける。


「……あの子も、帰ってこなかったの」


 千隼が、息を止める。


 女の視線は、どこか遠くを見ていた。

 篝は、ゆっくりと目を伏せる。


 そして——


「……そうでしたか」


 篝は、静かに目を伏せる。


「——だから、あなたは」


 わずかな間。


「ここで、止めておられたのですね」

 ただ、それだけを、静かに返した。


 女の視線は、眠る子供たちから離れない。


「……帰らせたら」


「また、いなくなる」


 篝は、すぐには答えなかった。

 否定は、今は刃になる。


 代わりに、千隼が一歩だけ前に出る。


「……大丈夫」


 女の目が、ようやく動いた。

 千隼は、眠っている子供のそばに膝をつく。


「この子たち、ちゃんと帰れるよ」


 そう言って、そっと手を取った。


 温かい。


 確かな、生の温度。


「……でも」


「この子にも、帰りを待ってる人がいる」


 千隼は振り返らないまま言う。


「ひとりじゃない」


 静かな断言。


 篝は、その背を黙って見守っていた。


 女の指先が、わずかに宙を掻く。

 触れたいのに、触れられないように。


「……わたしは」


 声が、細くほどける。


「……間に合わなかったの」


 千隼は、そこで初めて顔を上げた。

 まっすぐ、女を見る。


「……うん」


 否定しない。

 慰めもしない。


 ただ、静かに続ける。

「でも、この子は間に合う」


 部屋の空気が、淡く震えた。

 女の瞳が、大きく揺れる。


 長い、長い沈黙。


 やがて——


 女の肩から、力が抜けた。


「……そう」


 吐息のような声。

 視線が、子供たちをなぞる。


 未練が、ほどけていく。


 篝が、静かに符を一枚取り出した。

 だが、使わない。


 もう——必要がない。


「……お願い」


 女が、かすかに微笑んだ。


「帰してあげて」


 千隼は、小さく頷いた。


 ふ、と。


 気配が、消えた。


 部屋の重さが、嘘のように軽くなる。

 同時に。


 ——ぴくり。


 子供の指が、動いた。


「……ん……」


 ゆっくりと、まぶたが開く。

 ぼんやりとした視線。


「……あれ?」


 千隼は、そっと手を離した。


 子供はきょろきょろと周囲を見回す。


「……ここ、どこ?」


 篝が、穏やかに答える。

「少し、眠っていただけですよ」


 子供は首をかしげる。

「……ねてた?」


 不思議そうな顔。

 恐怖の色は、ない。


 千隼と篝は、ほんの一瞬だけ視線を交わした。


 ——記憶は、残っていない。


 篝が、静かに頷く。


「ええ。夢を見ていたのでしょう」

「……そっか」


 子供は、あっさりと納得した。

 その様子に、千隼の肩の力が抜ける。


「……帰ろっか」


 千隼は、そっと手を差し出した。

 子供は迷いなく、その手を握る。



   *



 団地の階段を下りる頃には、空気は完全に戻っていた。


 歪みも、気配も、もうない。


 外灯の下。


 姉が、泣きそうな顔で立っていた。


「——!」


 子供の姿を見た瞬間、駆け寄ってくる。


「大丈夫!? どこ行ってたの!」

「……?」


 子供はきょとんとする。


「ねてた」

「はあ!?」


 混乱する姉。


 だが——

 無事なことに、すぐに強く抱きしめた。


 千隼は、その様子を少し離れて見ている。

 胸の奥が、じんわり温かい。

 手の中に、さっきまでの感触が残っている気がした。


「……先生」


「はい」


「……帰れましたね」


 篝は、静かに目を細めた。

「ええ」


 そして、柔らかい声で。

「あなたが、導きましたから」


 千隼は、少しだけ照れたように視線を逸らす。


 夜風が、静かに吹き抜けた。

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