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第陸話 迷いの団地

 森の件から、三日ほどが過ぎた。


 ——あの夜の違和感だけが、まだ千隼の胸に残っている。


 萬屋はいつも通りの静けさを取り戻している。

 帳面をめくる音だけが、店内に落ちる。夕刻の灯りが、格子越しに柔らかく差し込んでいた。


 千隼は棚の整理をしながら、ふと顔を上げる。


「……今日は、静かですね」


「ええ」


 篝は、湯吞に氷をひとつ落とした。


 そのとき。


 店先の鈴が、小さく鳴った。


 引き戸の向こうに立っていたのは、制服姿の少女だった。

 肩で息をし、強く唇を噛みしめている。


「……ここですか、人探しを、してくれるのは」

 視線はまっすぐだが、震えている。


「いらっしゃいませ。──お話を、お聞かせ願えますか」

 その声音に、少女の強ばっていた肩が下がった。

 そして小さく息を吸い込み、続けた。


「団地の子が、夜になると……いなくなるんです。団地の外には出ていないはずなのに……」

 わずかな沈黙。


「……弟も」


「……それに」


 少女は、少し迷ってから続けた。


「帰ってきたあと……みんな、同じこと言うんです」


 篝が視線を上げる。


「『あの人、ひとりでかわいそうだった』って」


 篝の視線が細まった。


「承知いたしました。本件、引き受けましょう」


 白い契約書が、静かに差し出される。



   *



 団地の夜。

 

 風のない廊下。

 どこからともなく、微かな足音。


「また厄介な依頼ですねえ」

 千隼が小さく呟く。


「厄介、というより……寂しい依頼です」

 篝は廊下の奥へ視線を向けたまま、穏やかに続ける。


「……千隼、見えませんか」


「え……?」


「無理に探さなくて構いません。ただ、自分の目を信じて」


 千隼はひとつ息を整えた。


 床は乾いている。

 古びた団地特有の、ざらついた灰色の床。


 ——何も、ない。


 そう思った瞬間。

 視界の端が、わずかに揺れた。


「……あ」


 薄く、滲むように。

 小さな足跡が、浮かび上がる。


 泥でも、水でもない。

 影が染み出したような、淡い輪郭。


 ひとつ。

 ふたつ。


 廊下の奥へ、続いている。


「……あります」

 声が、自然と低くなる。


「子供の、足跡です」


 篝は頷いた。

「やはり……見えているのですね」


 足跡は、壁の手前で止まっている。

 しかし千隼の目には、さらにその先が——


「……続いてます」


 壁の向こう。

 空間に、うっすらと。


 段差の輪郭が、重なって見えた。


「先生──」


「階段が……あります」

 千隼の声は、わずかに掠れていた。


 篝は、少年の視線の先を静かに見据える。

 そこには、やはり何もない。


「……なるほど」

 低く、柔らかな声。


「千隼、足跡を見失わないように」


「……はい」


 千隼は小さく頷く。

 胸の奥が、またざわついていた。


 壁の向こうに重なる、見えない階段。

 足跡は、確かにそこへ続いている。


 篝が一歩、前へ出た。

 壁際の空間に、そっと指先を触れる。


 ——ひやり、と。


 空気の温度が、密かに落ちた。


 千隼が息を呑む。

「先生……」


「ええ。境目が、薄くなっていますね」


 篝の指先が、静かに印を結ぶ。


「境触。——現世の理、ここに重ねなさい」


 触れた空間が、かすかに波打った。


「無理に開けば、向こうを刺激します」

 穏やかな口調のまま、続けた。


「ですが——放置も、できません」


 視線が、足跡の先へ落ちる。


 何もないはずの壁面が歪む。

 まるで、水面に触れたように。


 千隼の目にだけ、重なって見えていた階段の輪郭が、ほんの少しだけ濃くなる。


 ——ぎし。


 どこからともなく、軋む音がした。

 千隼の背筋が、ぞくりと粟立つ。


「……先生」


「千隼、少し後ろへ」


 柔らかな声。

 だが、その目だけが、わずかに鋭い。


 歪んだ空間の奥から——


 楽しそうな子供の笑い声が、

 かすかな気配を伴って、滲んだ。

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