第伍話 迷いの影
──次の日の夕刻。
夜の森は濃密な湿気に包まれ、落ち葉を踏むたび、音が吸い込まれるように消える。
「——ここですね」
篝は立ち止まり、周囲を見渡す。
千隼は横で、胸の奥のざわつきを感じながらも、目を凝らす。
——森の奥、黒い影が蠢く。
「……あれ?」
千隼の目だけが、微かに揺れる輪郭を捉えた。
人の形をしているようで、形の定まらないそれは、森の闇に溶け込みつつ篝に向かって迫ってくる。
「千隼、見えますか」
「あそこ……先生、来ます」
「……なるほど、あなたの目を、信じましょう」
篝は静かに声をかける。柔らかだが力強い。
千隼の視線の先——
影が微かに揺れる度、篝の符文の光の向きを示すかのように、動きが連動する。
——千隼だけが見える影が、篝の掌を導いている。
篝は掌を掲げ、低く唱える。
「黒絵符・虚縛」
掌から、白く淡い光の符文が浮かび上がる。
千隼の視線が微かに指示する通り、符文は揺れる影の動きに絡みつき、黒い霧状の影をねじるように捕える。
「——千隼、後ろに」
篝の声に従い、少年は一歩下がる。
掌を振るう篝の符文は、影をさらに縛り上げ、霧のように裂いた。
だが影は消えず、形を残しつつ森の奥へ逃れる。
篝は静かに次の呪文を唱える。
「虚縛連鎖。現世の縁、断ち切れ」
符文の光が連鎖し、黒い塊はぎしりと震え、やがて霧のように消えた。
森の闇が、少しだけ柔らかくなる。
「——これで、終わりです」
篝は掌の力を緩め、静かに息をつく。
千隼は胸の奥の微かな違和感を覚えつつ、影が消えた森を見つめた。
——自分だけが見えたものが、篝を少し導いたことを理解する。
二人は森を抜け、夜の路地へ戻る。
篝は帳面を開き、静かに筆を走らせる。
——第七二件 処理完了
——対象:未特定
——備考:千隼の微かな反応あり
「千隼、助かりました」
篝の声は柔らかいが、その目には深い沈思が光る。
千隼は微かに笑みを浮かべる。
自分の力はまだわからない。でも、確かに役に立った。
夜の路地には静かな気配が漂う。
——帳面の空白は、まだ埋まらない。




