第肆話 迷いの影
萬屋へ戻った頃には、夜も深く沈んでいた。
戸を閉めると、外の湿った空気が、すう、と遠のく。
千隼は、そっと息を吐いた。
「……さっきの、なんだったんでしょうね」
篝は帳面を開いたまま、静かに筆を走らせている。
「ええ。今回は、少々厄介なようです」
穏やかな声音。
だが、筆先だけが心なしか重かった。
——第七二件 処理中
——対象:未特定
墨が、紙に静かに滲む。
篝は帳面を閉じた。
「千隼、休んできなさい」
「はい」
頷きながらも、千隼の胸の奥には、まだ小さなざわつきが残っていた。
森で感じた、あの妙な感覚。恐怖とも違う、説明のつかない引っかかり。言葉にしようとして、やめた。
そのとき。
——からり。
引き戸が、静かに開いた。
千隼が顔を上げる。
篝の視線も、ゆっくりと入口へ向いた。
立っていた男は、ひどく疲れた顔をしていた。
「いらっしゃいませ。ご用件をお伺いしてもよろしいでしょうか」
いつもの、柔らかな声。
男の喉が、乾いた音を立てる。
「……あの、俺……」
言葉がうまく出てこない。
視線が、足元に落ちる。
店内の灯りの下で。
男の影が——揺れた。
千隼の指先が、ぴくりと動く。
胸の奥がざわついた。
森で感じたものと、どこか似ている。
「それでは、改めて。どのようなご用件でしょう」
男は、ゆっくりと息を吐く。
そして、ぽつりと零した。
「……影が」
かすれた声。
「俺の影が……おかしいんです」
店内の空気が沈んだ。
篝は、続きを促すように静かに頷く。
男は、乾いた唇を舐めてから、語り始めた。
*
——三日前の夜。
最初は、気のせいだと思ったんです。
仕事帰りの駅前で、足元に落ちる自分の影が、街灯の角度と噛み合わず、微かに揺れた気がして。
「……疲れてるな」って、その時は、それで終わりで。
でも——次の日。
横断歩道の白線の上で、エレベーターの鏡の前で、自宅の廊下で。
影の動きが、ほんの一拍だけ遅れるようになった。
振り返っても、誰もいない。
部屋にも、何もない。
それなのに、夜になるほど——背中に、視線を感じるんです。
男の声が、少し震えた。
「……眠れなくなって、夢見も、変で」
喉が、小さく鳴る。
「それで、今夜……帰り道で、この店の名前を見た気がして…」
千隼の目が、わずかに見開かれる。
篝は、静かに目を細めた。
男は続ける。
「次の瞬間には、もう見えなくなってたんですけど……」
声が、かすれる。
「……気づいたら、ここに」
短い沈黙が落ちた。
店内の灯りが、うっすらと揺れる。
篝は、長く息を吐いた。
「——承知いたしました。それでは、こちらへご署名をお願いいたします」
白い契約書が、静かに差し出された。
男は、しばらくそれを見つめ、震える手で、ペンを取った。
また、男の足元で影が少し遅れて動いた。
千隼の視線が、すっと細くなる。
篝は、その様子を横目で捉えた。
「……千隼」
呼ぶだけ。
千隼は、少しだけ逡巡してから、小さく言った。
「……森で見た影と、似ています」
篝は一瞬だけ沈黙し、帳面に視線を落とした。
「——そうですか」
それだけを、静かに呟く。
篝は帳面を閉じ、立ち上がった。
「本件、引き受けましょう」
白い契約書の上に、指先を置く。
「詳しい調査は、日を改めて行います」
穏やかな声。
その目の奥に、硬さが宿っていた
千隼は、胸のざわつきが消えていないことに気づく。
外では、夜風が木々を揺らしていた。
夜は、まだ深くなりそうだった。




