第参話 迷いの影
夜の路地は、湿り気を帯びていた。
篝は、契約書を静かに帳面へ挟み込む。紙の端に残った指の跡は、いつの間にか乾ききっていた。
「先生、その依頼……森の中ですね」
千隼が帳面を覗き込み、小さく眉を寄せた。
「ええ」
篝の声音は穏やかなままだが、視線だけが文字の一箇所に留まっている。
——依頼人:不明
——対象:一名
——最終確認地点:■■山林
依頼人は名を明かさなかったが、要件だけは明確だった。
「……これ、名前」
「書き損じでしょう、千隼も行きますか」
篝は、ごく自然な調子で尋ねる。
「……っ、いいんですか。ぜひ、連れていってください!」
喉の奥に張り付いた緊張を、勢いよく吐き出された言葉が突き破る。
そして篝は帳面を閉じた。
*
街外れの山道には、まだ昼の熱がじわりと残っていた。
木々の間を抜ける風が、低く鳴る。月は雲に半ば隠れ、足元の土は湿っていた。
「この辺りですね」
篝は周囲を見渡しながら言う。
「何もありませんね」
「ええ。よくある、と言えばよくある案件です」
森の奥から、ひやりとした空気が流れてくる。
——ざ、と。
足元の落ち葉が、不自然に揺れた。
千隼の肩がぴくりと強張る。
「先生」
「……ええ。来ていますね」
篝の声が、わずかに低く落ちた。
木々の影が、ゆらりと歪む。
人の形をしているようで、していない。
輪郭だけが、闇から切り取られたように浮かび上がる。
千隼は息を呑んだ。
胸の奥がざわつく。
森の葉がひそやかに揺れる感触と重なり、不意に背筋が冷たくなる。
——恐怖とは違う、説明のつかない違和感だ。
「千隼、危ないですよ」
いつもの柔らかな声。
だが次の瞬間、空気が裂けた。
影が、奔る。
篝の指先がぴくりと動いた。
音は、ほとんどしない。
黒い輪郭が、霧のように崩れ落ちていく。
——その、はずだった。
「……先生」
千隼の声が、かすかに震える。
霧散しかけた影が、森の奥へと“引かれて”いく。
まるで、何かに呼ばれるように。
篝の目が、細まった。
「……逃げましたか」
ごく小さな呟き。
その声には、わずかな苛立ちが混じっていた。
静寂が戻る。
だが森の奥の闇だけが、妙に深い。
千隼は、無意識にそちらを見つめていた。
胸の奥のざわつきが、まだ消えない。
「……千隼」
呼ばれて、はっと顔を上げる。
篝は、いつもの穏やかな表情に戻っていた。
「本日のところは、ここまでにいたしましょう」
「……はい」
踵を返しかけて。
そのとき。
千隼の視界の端で、何かが揺れた。
森の奥。
木々の隙間に——
誰かが立っていた気がした。
次の瞬間には、もう何もいない。
「……?」
「どうかしましたか」
千隼は一瞬迷い、
「……いえ」
と、小さく首を振った。
篝はそれ以上追及しなかった。
ただ一度だけ、森の奥へ視線を向けて。
ほんのかすかに、目を細めた。
*
店へ戻った頃には、夜も更けていた。
千隼が戸を閉める。
からり、と小さな音。
篝は帳面を開き、静かに筆を走らせた。
——第七二件 処理中
筆先が、わずかに止まった。
空白のままの一行を、しばらく見つめる。
やがて、何も書き加えぬまま、帳面を閉じた。
「……」
店内には、夜の気配だけが満ちていた。




