第弐話 迷いの赤子
店の中には、まだ微かに焦げたような匂いが残っていた。
紙片を燃やした香の煙が、天井近くに薄くたゆたっている。篝は静かに帳面を閉じた。
「……片付きましたね」
明るい声がして、引き戸が軽く鳴った。
千隼は湯吞を二つ盆に載せて入ってくる。きっちりとした所作で一つを差し出しながら、不思議そうに言った。
「先生、この街、最近少し騒がしいですね」
「……そうですね」
「今月だけでも、もう六件目です。前はもう少し落ち着いてた気がしますけど」
「夜が騒がしい時期、というものはございますから」
さらりとした口調で答えながら、篝は湯吞を持ち上げる。表情に乱れはない。いつもの、柔らかい篝の顔。
——だが。
湯気の向こうで、視線だけが遠くを見ていた。
*
——十二年前の雨の夜だった。
しとしとと、絶え間なく降る雨音。
店の軒先に、ひとつだけ異物があった。
細く途切れそうな泣き声。
赤子——ただの小さな手。
だが、その手から、かすかな光のような力が漏れていることに、篝は気づいた。
「——はあ、なるほど……」
そう小さく呟き、赤子を抱き上げたその一瞬、雨音が止んだような気がした。
篝は赤子を置いて帰ることなどできなかった。
店の奥に布団を敷き、赤子を寝かせる。温め、乾かす。
この夜、この子は生き延びるしかない。
篝もどうすべきか決めかねていたが、とにかく、この店が当面の居場所となった。
*
「先生?」
現実に引き戻す声。
篝は、静かに湯呑を口へ運んだ。
「申し訳ありません。少し、考え事を」
「珍しいですねえ」
千隼は首を傾げながらも、深くは追及しない。湯吞を自分の前に引き寄せ、ふう、と息を吹きかけた。
店内には、穏やかな沈黙が落ちる。
——カラン。
不意に、入口の鈴が鳴った。
千隼が顔を上げる。
「……あれ? 誰も開けてませんよね」
引き戸は、閉まったままだ。夜の路地裏は、しんと静まり返っている。
それでも、カウンターの上に、いつの間にか一枚の紙が置かれていた。
白い、契約書。
篝の視線が、すっと細まる。紙の端に、まだ乾ききっていない指の跡が残っていた。
「先生……?」
千隼の声は、わずかに緊張を帯びている。
篝はゆっくりと紙を手に取り、目を通す——ほんの一瞬だけ、その表情から温度が消えた。
「……承知いたしました」
静かに呟く。
そして、いつもの柔らかな声に戻して言った。
「次のお客様は、もう迷い込んでいるようですよ」
夜の奥で、何かが微かに息を潜めた。




