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第拾弐話 迷いの窓

 倉庫が、また軋んだ。


 今度は一度ではなかった。

 低く、引き絞るような音が重なり、壁の向こうから膨らんでくる。


 千隼は息を止めた。

「……先生」

「ええ」

 篝は動かない。倉庫の壁から三歩ほど離れたまま、視線だけを上げていた。


 校舎の窓が、相変わらずこちらを見ている。

 数えることなど、もう、やめていた。


「千隼。学校の窓のうち、一番重く感じるのはどこですか」

 突然の問いだった。


 千隼は思わず顔を上げかけ、慌てて視線を足元へ戻す。

「……目を合わせないように、ですか」


「ええ。ただ、視野の端で捉えてください。ぼんやりと」


 千隼はゆっくり息を整えた。

 正面は見ない。

 けれど、視界の端で、校舎を感じる。


 ——どこか。

 目を持っていないように見えて、ある一点だけが異質に重い。


 三階。


 体育館に面した、端の窓。


「……三階の、一番端です。体育館側」

「なるほど」

 篝の声に、ほんの微かな引き締まりがあった。


「あそこは何の教室ですか」

「……理科室です」


 短い沈黙。

 篝は携帯電話を持ち直し、受話口へ静かに言った。


「ご安心ください。今から対処いたします。窓から離れ、内側の壁際に座っていてください。できれば部屋の灯りをつけて」


 電話の向こうで、了解したらしい気配があった。

 通話を切る。

 篝は振り返り、千隼の目をまっすぐに見た。


「千隼、一つ聞いてもよろしいですか」

「はい」


「今、怖いですか」


 千隼は少しだけ間を置いた。


 怖い、と言えば嘘になる。

 怖くない、と言っても、嘘になる。


「……怖い、とは少し違います。ただ、重いです。息が詰まるような」


 篝は静かに頷いた。

「そうですか」


 そして、穏やかに言った。


「それで構いません。千隼の感じていることが、今夜の地図になります」



   *



 校舎の裏手を回るとき、千隼はひたすら足元を見ていた。

 篝の背中が、一歩先にある。


 誰も来ない夜の校庭に、二人分の足音だけが響く。

 外階段は使わず、篝が指で示した非常口の扉が、鍵をかけたはずなのに、するりと開いた。


 廊下は暗い。

 窓が並んでいる。


 千隼は目を落とし、足音を殺しながら歩く。

 それでも、ガラスの気配が皮膚に当たるのは、どうしようもなかった。


「先生」

「はい」


「この窓、全部そうなんですか」


「この学校で"見てきた"視線が、ガラスに積もっているのです」


 篝は歩調を変えないまま答えた。


「窓の外から誰かに見られたとき。窓越しに自分を見たとき。反射に他人が映り込んだとき。そういった視線が、長い年月を経て集積する」


「……全部の学校で起きるんですか」


「場所によります。長く人が集まる場所ほど、積もりやすい」


「じゃあ、なんで今まで平気だったんですか」


 篝はそこで、わずかに間を置いた。

「……それを確かめに来たのです」


 答えになっていない、と千隼は思った。

 だが、篝が意図して避けていることも、わかった。


 階段を上る。


 二階。三階。

 踊り場の窓を過ぎるとき、千隼の背中に、何かがべったり貼り付くような感覚があ

った。


 思わず足が止まる。


「千隼」


 篝が、振り返らずに言う。

「一歩、私に近づいてください」


 千隼は黙って従った。

 篝の背中の、すぐ後ろ。

 貼り付くような感覚が、少しだけ薄れた。


 一段、また一段。


 三階の廊下に出た。


 奥の端。

 理科室の扉が、ほんの少しだけ——開いていた。


「……先生、あそこ開いてます」

「ええ」

 篝の声が、静かに低くなる。


 千隼の指先が、服の裾をわずかに握る。

 篝は振り返り、千隼の前に出た。


「私の後ろを歩いてください」

「はい」


 扉に近づく。

 理科室の中は、窓から差し込む月光だけが床を細く照らしていた。


 篝は扉を押し開け、一歩だけ敷居をまたいだ。

 室内を、ゆっくりと見渡す。

「…………なるほど」

 小さな呟きが、暗がりに落ちた。


 千隼は後ろから覗き込む。

 棚。標本瓶。机が整然と並んでいる。

 それだけのはずだった。


「先生」

「見てはいけませんか」


 篝は少し考えるような間を置いた。

「——見なくていい、とは言いません」


 振り返り、千隼を見る。

 その目が、少しだけ真剣な色をしていた。


「ただし」


一拍。


「準備をしてから、見てください」


「……準備って」


「深く息を吸って、吐いて。自分の足が地面についていることを確認する。それだけで構いません」


 千隼は言われた通りにした。

 息を吸う。吐く。靴の裏から、廊下の硬さが伝わってくる。


「……できました」


「では、床を見てください。窓の下。何がありますか」


 千隼は目を凝らした。

 窓の下の床に。

 小さな白い、何か。


 一枚。

 二枚。

 三枚。


「……紙?」

「ええ」


 篝は静かに答えた。

「視線が積もって、飽和したものは——こういった形で溢れてくることがあります」

千隼は目を細める。


「……昼間の倉庫から?」


「そこだけではないでしょう。おそらく、この校舎のどこかで長年かけて積み重なったものが、ある夜を境に溢れ出した」


「何かきっかけがあったんですか」


 篝は少し考えてから、静かに答えた。

「……おそらく、ですが」


 視線が、床の紙片へ落ちる。


「この学校で、何か大きな感情の動きがあったのでしょう。長年積もっていたものが、それを引き金に一気に溢れた」


「大きな感情、って」


「悲しみでも、怒りでも、あるいは強い寂しさでも。きっかけは些細なことで構わない。積もりに積もった視線には、ほんの少しの揺らぎで十分です」


 千隼は、ふと思い当たることがあった。


「……先月、理科の先生が急に転任したんです。長く勤めてた先生で、実験も面白かったからみんなすごく残念がってて」


 短い沈黙が落ちた。

 篝は静かに、帳面を閉じた。


「——なるほど。それで十分です」


 千隼は紙片を一枚、拾い上げた。

 冷たかった。

 光に透かすと、無数の小さな丸が揺れている。

 眼球、と言うよりも。


 ただ、見ること、だけが形になったような。


「先生、これ……今夜、どうにかできますか」


 篝は千隼を見た。穏やかな顔。

 だが、その目の奥に、静かな決意があった。


「——やってみましょう」


 帳面を開き、一枚の符を取り出す。

 月明かりの中で、篝の指先が動き始めた。


 夜は、まだ続く。

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